ありがとう。初めての、言葉。
あの日、そのまま飛び出してから、幾日も日が経っていた。携帯の充電も切れ、もう、連絡する事さえ忘れかけていた。避難所で、見た光景は、信じられない事ばかりで、どこか、俺は、現実離れしていた。いや・・。忘れようとしていた。
「これは、夢なんだ。」
何人の人が、そう言い聞かせたかわからない。この光景。未だに信じられない、遠い日に、映画館で見た光景に似ていた。
「そう・・。」
記憶を取り戻したかのように、一つ、一つ家族の顔を思い出したいた。莉子を思う親父さんと同じくらい、俺の親父も、心配しているのは、明らかだった。喧嘩ばかりしていた親父。心配してくれていたお袋。そんなお袋は、俺が小学生の時に亡くなり、どこか、俺は、お袋の死は、親父のせいだと思い込んでいた。なんて、幼い子供な俺。
「親父・・。ごめん。」
莉子の親父さん達を避難所に降ろし、俺は、ハンドルを硬く握りしめた。ここにだって、家族がいるんだ。後部シートのアレクは、ぐったりとして、明らかに、脱水症状を起こしていた。どこの病院も閉まっていた。震災の後に訪れた停電で、人間の病院だって、開いていないのに、犬や猫の病院なんて、到底、開いているなんて、考えられなかった。とにかく、親父の元へ、店の裏にある自宅まで、戻るのが、先決だと考えた。
「待ってろ・・。」
道路は、いつもの様子と、様変わりしていた。原発が大変な事になっていると聞いた。警察車両や、見慣れないナンバーの車が、行き来していた。高速が、止まっているのだから、交通量が、増えているのかと思ったが、以外に、緊急車両以外、少なかった。まるで、元旦の国道のようだった。
「何が、起きたんだ?」
後で、理由がわかった。ところどころ、渋滞がある。それは、スタンドの傍だけだ。燃料を求め、人々は、スタンドに並んでいた。たまたま、莉子との結納に備えて給油したばかりの俺の車は、難をのがれていただけだった。
「何てことだ・・。」
全て、今までの世界と異なっていた。道路1本隔てて、運命が分かれていた所が、何か所もあった。海が傍にあり、平和に広がっていた田園風景は、変わり果てていた。仙台に戻った時、何故か、俺は、泣いていた。
「親父・・。」
自宅に入った途端、きっと、親父は、また、怒鳴るだろうと思っていた。泥だらけのアレクを抱え、自分も、いつ着替えたかわからない皇成の姿が、玄関先に現われた。
「帰ったのか?」
親父は、皇成の姿を見ると、表情を変えず、背中を向けた。
「遅くなった・・。」
涙が止まらない。俺の顔を見て、親父は、何があったかを悟ったのだろう。
「その犬はどうした?」
答えたかったが、涙が邪魔した。
「毛布があったな。待ってろ。」
親父は、家の奥に消えて行った。停電の中、親父は一人で、家の中にいたのだろうか。申し訳ない気持ちで一杯だった。
「これを、使え」
親父は、しばらくして、玄関に戻ると毛布を敷いた。
「だいぶ・・。弱っているな。」
ペットボトルの水を皿に移していたが、やがて、思い出したかのように、メモを持ってきた。
「ここに、電話してみろ。」
電話番号が、小さな紙切れに、書きなぐってあった。
「お得意さんだ。たしか、犬の病院って言ってたな。」
そこの奥さんが、お茶をやっていて、親父がよく、用立ててもらっていた。
「そこに、助けてもらえ。」
俺に突きつけると、アレクの泥だらけの体をタオルで、こすり始めた。小学生の時、犬が欲しいと言った俺に、親父は、食べ物を扱っているから、と、決して許してくれなかった。犬が嫌いなわけではなかったのだ。
「親父・・。ありがとう。」
「早くしろ。何があるか、わからんぞ。」
初めて、親父にありがとうと言えた気がした。




