頬を伝う涙
本日は2話更新しています。
シルヴィアはベッドの上でゆっくりと瞼を開くと、繋がれたアルバートの温かな手から、彼の魔力が身体を潤すように流れ込んで来るのを感じながら、彼の顔を見上げた。
「アルバート様……」
上半身を起こそうとしたシルヴィアに、アルバートが手を貸した。アルバートは、ほっとシルヴィアに柔らかな笑みを向けてから、その形のよい唇を微かに噛んだ。
「君を危険な目に遭わせてしまって、すまなかった。これは俺の責任だ。俺が、君の元についていることができていれば……」
悔しそうにその顔を歪めたアルバートに、シルヴィアは慌てて首を横に振った。
「アルバート様は、あの状況で当然のことをしたまでです。指導者として、あの場にいた生徒たちの安全を考えれば、アルバート様がサラマンダーを倒しに行くことは明らかに必要でしたから。それに、アルバート様は、私のことを助けに来てくださいましたし……」
アルバートに向かって話しながら、当時の心細さと恐怖が甦り、小さく震えたシルヴィアのことを、彼の腕が優しく包んだ。アルバートは、輝きの強い金色の瞳で、労わるようにじっとシルヴィアを見つめた。
「怖い思いをさせてしまって悪かった、シルヴィア」
シルヴィアは、胸が熱く跳ね、頬に血が上るのと、瞳に涙が滲むのを感じながら、身体の震えを抑えるように、そのままアルバートの背中にぎゅっと両腕を回した。アルバートに触れているところ全体から、温かな魔力に癒されるようだった。
(アルバート様が謝る必要なんて、どこにもないのに……。私のことをいつだって助けてくださる、大好きなアルバート様。彼の元にこうしていられるのなら、私はそれだけで十分だわ)
アルバートの鼓動が聞こえそうな距離に、さすがに恥ずかしさを覚えたシルヴィアは、そっと彼から身体を離そうとした。けれど、赤く染まった顔で彼をちらりと見上げたシルヴィアを見て、アルバートはくすりと微笑むと、そのままシルヴィアを柔らかく抱き締めた。シルヴィアは、ますます自分の胸が高鳴るのを感じながらも、心の中で小さな疑問を抱いた。
(アルバート様には、どことなく、私の気持ちが筒抜けになっているような気がするのだけれど。……きっと、気のせいよね……?)
アルバートに身体を預けていたシルヴィアは、はっと顔を上げて彼に尋ねた。
「アルバート様、ランダル様はご無事だったのでしょうか? それに、ランダル様を襲った、あの場にいた黒い魔物のようなものは?」
アルバートは、シルヴィアの言葉に、やや険しい表情を浮かべて続けた。
「彼は、命に別状はないよ。君が自分を犠牲にしてまで彼を助けようとしたお蔭でね。……もう、彼から事情は聞いている。彼が君に対してしたことは許せないがな。シルヴィア、君も、どうか自分を大事にして、今後無茶はしないで欲しい。それから、あの場に見付かった生き物だが……」
アルバートは、一度言葉を切ってからシルヴィアを見つめた。
「君が浄化したあの生き物は、恐らく、元々はこの国の精霊の一種だ。人間の歪んだ欲望や瘴気にあてられるうちに、次第に性質が変化して、穢れて魔物のようになってしまったものだろう」
「そのようなものが、存在するのですか?」
目を瞬いたシルヴィアに向かって、アルバートは頷いた。
「あのような存在は、今までほとんど見られてはいなかったがね。君が意識を失った後、元の清らかな姿に戻って森の奥に帰って行ったよ。穢れてしまったあの存在を元に戻す唯一の方法が、君が行った浄化だったのだと思う。君の判断は素晴らしかった。ユーリ王子も、今、その件を国王に報告に行っているよ」
「とても力が強くて恐ろしかったのですが、あの力の強さは、元々が精霊だったからなのでしょうか」
「ああ、そうなのだろうな。……きっと、あの場には、邪な負の感情に引き寄せられるようにして姿を現したのだろう」
「……」
シルヴィアは、ランダルの狂気じみた笑みを思い出した。そして、その後で、死に掛けた彼が必死にシルヴィアに向かって紡いだ言葉も、ふっとシルヴィアの脳裏をよぎった。
シルヴィアは、アルバートの顔を見上げ、自分のいる病室を見回すと、少し躊躇ってから口を開いた。
「この病院には、ランダル様も入院していらっしゃるのですか?」
「ああ、そうだよ」
「……後で、ランダル様を見舞ってもよろしいでしょうか」
シルヴィアを気遣わしげに見つめてから、アルバートが頷いた。
「君がそれを望むなら、構わないよ。ただ、俺は、彼の病室の外で君を待っていても? ……もしも何かあったなら、すぐに俺のことを呼んで欲しい」
「ありがとうございます、アルバート様。わかりました」
アルバートに向かって微笑みを浮かべたシルヴィアは、その顔にやや緊張の色を浮かべると、きゅっとその唇を引き結んだ。
***
ランダルは、ぼんやりと病室の白い天井を眺めていた。身体にはまだ力が十分に入らなかったけれど、シルヴィアの力のお蔭で自分の命が助けられたのだということは、痛いほどにわかっていた。
一度は穴が空いたはずの自分の腹部に、ランダルはそっと触れた。そこには、シルヴィアの温かな力がまだ残っているのが感じられた。幼い頃からずっと大好きだった、シルヴィアのあの陽だまりのような優しく穏やかな感覚が、確かにその場所にはあった。
病室の扉がノックされ、ランダルがベッドに身体を横たえたまま返事をすると、そっとその扉が開かれた。そこに見えた人影に、ランダルは大きく目を見開いた。
「シルヴィ……?」
シルヴィアは、静かにランダルのベッドの側に近付いて、枕元に程近い椅子に腰を下ろした。
ランダルは、まだあまり顔色のよくないシルヴィアをじっと見つめると、ゆっくりと口を開いた。
「僕のことを助けてくれて、ありがとう。……もう、君と会うことは叶わないんじゃないかって、そう思っていたよ」
ランダルは、シルヴィアへの行いを厳しく咎められ、しばらく謹慎処分になることが決まっていた。また、シルヴィアに今後近付くことも禁じられていた。ただ、シルヴィアの身体をその火魔法で直接傷付けてはいなかったことと、シルヴィア自身が望まなかったことから、魔法学校の退学は免れていた。
シルヴィアは、ベッドに横たわるランダルを見つめて口を開いた。
「ご無事で何よりです、ランダル様。……私、ランダル様に、ちゃんとお別れを言いたくて来たのです」
「……」
ランダルは、シルヴィアの言葉に力なく目を伏せた。しばらく時間を置いてから、ランダルはシルヴィアのことを見上げた。
「……君は、どうしてあの時、僕のことを助けてくれたの? 僕は君に対して、あんなに酷いことをしたのに」
「ランダル様に、生きていて欲しかったからです」
シルヴィアは、微かな笑みを浮かべると、ランダルの瞳を見つめた。
「私、幼い時分から、ランダル様に助けていただいていたことを、とても感謝していました。自信のなかった私の側に、ランダル様はいつも寄り添っていてくださいましたよね。……今まで、ありがとうございました」
シルヴィアは、遠くを見るような瞳で、思い出を懐かしむような口調で話していた。ランダルは、シルヴィアの言葉が完全に過去形になっていることに胸が痛むのを感じながらも、一言も聞き漏らすまいと、シルヴィアの言葉に全力で耳を傾けていた。
シルヴィアは、その澄んだ薄黄色の瞳で、改めてランダルを真っ直ぐに見つめた。
「ランダル様の火魔法は、素晴らしい力です。そのお力は、きっと将来、このデナリス王国を支えるものになると思います」
「シルヴィ……」
ランダルは、自分の力はシルヴィアを守るために使いたいと、そう幼い頃から思っていたのだと言いたかった。けれど、シルヴィアへの私欲のために力を使おうとした自分に、そのような言葉を言う権利はないことも自覚していた。
「もう、ランダル様とこうしてお話しすることも、今後はないことでしょう。けれど、ランダル様がそのお力を活かしてこれからご活躍されることを、陰ながらお祈りしています」
ランダルの瞳に、薄らと涙が浮かんだ。シルヴィアを引き留める言葉さえ言うことが許されない自分を歯痒く思いながら、ランダルは、椅子から立ち上がろうとしているシルヴィアを見つめた。
必死な思いの滲むランダルの視線に、シルヴィアは少し躊躇ってから、再度、彼の枕元の椅子に腰を下ろした。シルヴィアは、一度はランダルの気持ちがまったくわからなくなっていたけれど、あの森の中で耳にした彼の言葉から、どのような形であったとしても、確かに彼は自分のことを愛していたのだと、そのことだけは理解していたのだった。
シルヴィアは、少し口を噤んでから、ぽつりと溢した。
「……このようなことを言っても、ランダル様を困らせてしまうだけかもしれませんが。私、ランダル様と婚約していた八年間は、本当にランダル様のことが大好きだったのです」
「……」
ランダルは、潤む瞳で縋るようにシルヴィアを見上げたけれど、シルヴィアは首を横に振った。
「ごめんなさい。今は、私の心はもう、別の方の元にありますけれど」
ランダルは、シルヴィアが誰のことを言っているのかは、聞かなくてもはっきりとわかっていた。ランダルは、まだ自由には動かない右手をようやく動かすと、ポケットの中から取り出した彼女の髪飾りをシルヴィアに手渡した。
「……すまなかった、シルヴィ」
「よかった……!」
シルヴィアは、アルバートから贈られた髪飾りが、元の姿のままきらきらと美しく輝いているのを見て、受け取った髪飾りを嬉しそうに胸に抱き締めた。ランダルは、そんなシルヴィアの姿を寂しく見つめていた。シルヴィアは、最後にランダルにもう一度視線を向けた。
「もう、貴方様のお側は離れましたが。あの八年間、私の心は、確かにランダル様だけのものでした。……何のお役にも立たないかもしれませんが、それだけを最後に。どうか、お元気で」
「……シルヴィ。君からもらった八年間は、これからの僕の人生を含めても、間違いなく一番の宝物だよ……」
ランダルは、病室の扉が閉まる音を聞きながら、右腕で顔を覆った。次から次へと溢れ出す涙が、とめどなくランダルの頬を伝っていた。
シルヴィアと過ごした八年間の思い出が、ランダルの頭の中を走馬灯のように駆け抜けて行った。初めてシルヴィアに会った時、一目で心を惹かれた彼女の可愛らしい微笑みが、柔らかく温かな彼女の掌が、遠く懐かしく思い出された。
ランダルに会う度に、いつもシルヴィアが彼に向けてくれた、にこやかで嬉しそうな笑顔も、恥ずかしそうに頬を染める様子も、そして彼女の隣にいるだけで感じられた穏やかで優しい幸せな時間も、そのすべてが、ランダルにとって、もう戻らない過去のものになっていた。
ーーもし、シルヴィアのことを、ただ心から大切にしていたのなら。
ーー彼女が向けてくれた、ひたむきで真っ直ぐな愛情に、真摯に応えることさえできていたのなら。
ランダルのことが純粋に好きだったシルヴィアの気持ちを逆手に取るようにして、自己中心的に二人の関係を歪めてしまったために、結果、すべてを失ってしまったことを、ランダルは今になって悟っていた。駆け引きや主導権など考えることなく、最も単純な方法で、彼女に自分からの愛情を返せていたのなら、何があっても彼女は自分を見捨てることなどなかったのだろうと、ランダルは、シルヴィアから向けられていた愛情の深さを知って、ようやく気が付いたのだった。
(シルヴィ。……ああ、僕が間違っていたよ)
まるで宝石のように感じられる、二度と戻ることのない、シルヴィアから深い愛情を受け取っていた八年間を思い返しながら、ランダルは声を殺して、静かにベッドの上で咽び泣いていた。




