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未完成なイデア  作者: 綴 朔哉


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15/33

確かな温もりと愛おしい日々。



 意識がゆっくりと浮上する――。

 

 夢の中で俺は笑っていた。理由はよく覚えていないけれど、調がそばにいて、二人並んでリビングのソファに座り、何でもない話をしていたような気がする。

 

 調はどんなにくだらない話でも相槌を打って、ちゃんと聞いてくれる。

 途中で少しふざけてみたりすると、最初は面倒くさそうにするのに、仕方ないなぁ……なんて顔をして同じように合わせてくれて、最後は二人で笑いあう。

 

「……ほんと、くっだらねぇ」

 口調は呆れているのに、声は柔らかい。二人でたくさん笑って、ただ一緒に同じ時間を過ごす。

 

 そんな日々が、本当に幸せで――。

 

 瞼を開けると視界の端には調がいて、夢の中と同じだ、なんてぼんやりと思った。俺の手は包まれていて、その手を少しだけ握り返すと指先にまで、熱が伝わってくる。

 

 その温度が夢の続きみたいで、ひどく心地がよくて。このまま眠ってしまえば、また夢に戻れるような気がした。

 だけど現実のほうが、夢の中よりもずっと温かくて。

 

「……しらべ……おきて」

 俺は握られた手に、そっと力を込めてみる。発した声は、思ったよりも小さくなってしまった。 

 俺が出した殆ど吐息のような声では、調は特に反応を示さず、眉をわずかに寄せたまま眠り続ける。

 だけど手だけは繋いだまま、離れることはない。

 

 いつも俺のことを引っ張ってくれる、頼りになる手。それは夢の中でも、現実でも変わらない。

 

 心の奥の方の誰にも見えないところに言葉にならない感情が、静かに滲む。

 

 こうして大切にされることは、少し切なくて……ふわりとあまい。

 

「……調、起きて」

 今度は、ちゃんと言えた。調は小さく身動きをしてから、ゆっくりと目を開ける。

 

 一瞬、状況を確かめるみたいに彷徨った視線が、俺を捉えた。

 

「……もう、大丈夫なのか?」

 低い声。だけど、その中には確かな心配の色が滲んでいて。

 まだ眠りが残っていそうなのに、何よりも先に俺のことを気遣ってくれる。

 それが、妙に調らしくて。少し面白くて、同時にすごく嬉しい。


 ――俺、調に迷惑かけてばっかりなのに。


 だけど、そこには僅かな罪悪感もちらつく。

  

「うん、だいじょうぶだよ」

 そう答えたけれど、調の表情はどこか曇っていて。

一瞬だけ、眉がわずかに寄って、視線が俺の顔から手へと移る。

 

 探るような視線が少し痛くて……そんな空気を変えてしまいたくて。


「俺、お腹空いちゃった」

 少しだけわざとらしく、だけどふにゃりといつもみたいに笑う。


「……そうか」

 調はそれ以上、何も言わなかった。空気を変えようとしたのなんて、きっと調にはばれているんだと思う。

 その沈黙は優しくて、苦しくて。


 俺はそっと繋いだままだった、手を離した――。


「リビングに行こ、調」

 そう言って部屋を出てから階段を降りて、リビングへと足を踏み入れたとき、キッチンに立つ人影を見つける。

 

 ――悠……?

 

 一瞬、時間が止まったみたいに、俺の隣で調の足が止まった。

 僅かに目を見開いて、懸命に状況を整理しているみたい。

 

 ——びっくりしてる……?

 

 調がこういう反応をするのは、珍しい。そんな様子に、俺は自然と口角が上がってしまう。

 

「おはようー!」

 こちらに気付いた悠は、ぱっと表情を明るくして、すぐに人懐こい笑顔を浮かべた。

  

「悠、おはよぉー」

 あんなに小さかった子が、キッチンにこうしてひとりで立っているのは、未だに不思議な感じがして、そして感慨深いものがある。

 

「おはよう……悠」

 多分、調も同じような感じじゃないのかなぁ……なんて。


「綴、体はもう大丈夫なの?」

 カラーグラス越しの悠の猫のような目が、窺うようにこちらを見てくる。

 

「もう、へーきだよぉ。心配かけてごめんね」

 本当にもう大丈夫だから、安心してほしくて。

 

「そっか、よかったぁ」

 悠は特別なことをしたつもりはなさそうで、ふわりと微笑んでから、手はまた鍋の方へと戻る。

  

「……綴は、座ってろ」

 隣で話を聞いていた調の有無を言わせない、でも強制したりするものではない声。

 俺が何か言う前に、肩に軽く手を添えられてソファの方へと誘導されてしまう。

 

「んー。わかったよぉ……」

 特に逆らう理由もなく、素直に腰を下ろした。クッションに沈むと、思ったよりも身体に重力が掛かるような感覚。

 そのまま俺は、二人のやりとりを何となくそこから眺めていた。

 交わす言葉はそんなに多くはないけれど、長い時間を一緒に過ごしてきたのが、見ているだけでわかる。

 

 温かい部屋にいると意識はぼんやりとしてきて、視線だけが自然と二人のことを追っていた。

 聞いていたはずの会話の内容は、徐々にふわふわとしてくる。

 

 ——こういう時間、嫌いじゃないなぁ……。

 

 守られているとも、気を遣われているとも違う。ただここにいていい、という感じ。

 俺はソファの背にもたれて、ゆっくりと息を吐いた。


 ふと、悠がまだ小さかった頃を思い出す――。


 今よりずっと背が低くて、小さな足で調の後ろをちょこちょことついて回っていた。

 

「しらべ、それおれがやりたい」

 気になることがあれば背伸びをしながら、調の袖を掴んで声を掛ける。それを調は優しく笑いながら、そばで見守ったり、時には補助をしつつ任せてあげていた。

 

 たとえ失敗してしまったとしても、最後には必ず「助かる」と言って頭を撫でる。

 その光景を、俺は少し離れた場所からいつも微笑ましく見ていた。


 不意に、視界に影が落ちた――。


「綴。これ、悠から」

 そう言って、調の手には俺が使ってるマグカップ。紫色の中で、淡いクリーム色のラテが静かに揺れていた。


「そうなんだ、ありがとぉ」

 両手で受け取って包み込むとじんわりと温くて、立ち上る湯気には、ほのかにお花のような香りが混じっている。

 

 そっと一口飲んでみると、爽やかさが鼻を抜けて、甘くて飲みやすい。


「……おいしい」

 体だけでなく、心まで温めてくれるみたいで。


 桜もそうだけど、悠も大きくなったなぁ。そんなしみじみとした感覚に、過去の記憶がよみがえる。




 初めて悠が、ここへ来た日の夜。悠は、多分調に甘えたいんだろうと思った。


 だけど調は、意外とそういうところに滅茶苦茶……疎い。周りが、まぁ……びっくりするほどに……。


 だから、一緒に寝てあげたら? なんて言って、悠が甘えやすいように取り計らった。

 俺の作戦は功を奏したようで、悠も嬉しそうにしていたから、どうやら読みは当たっていたようだ。

 

 でもその後すぐに、桜が俺を呼びに来て「眠たい」と言いながら、小さな手をのばして抱っこをねだられてしまえば、俺にそれを拒否する選択肢なんてなくて。


「おやすみ、悠。また明日ね」

「おや、すみ、なさい……」

 だけどそう言って部屋を出る間際、悠が僅かに悲しそうな、寂しそうな表情を浮かべたのが少し気になって。


 そのまま軽い体を抱き上げて部屋まで連れて行き、桜を寝かせてから俺も布団へと横になると、すぐに胸元に潜り込んでくる桜。


「つづり……、は、ぼく……の」 

 まるで自分の場所なのだと言わんばかりのその行動は、俺に対して信頼を寄せてくれているのだとわかる。

 小さな体から伝わる体温が心地よい眠気を誘ってきて、瞼が重くなっていく。


「……おやすみ、桜」

 

 ――悠は、調に甘えられるだろうか。調ならきっと大丈夫だとは、思うけれど……。

 そんなことを考えながら、あの日は俺も眠りについた。

 

 次の日――。朝の光が柔らかく差し込む中、目を覚ますと、桜がぴったりとくっついていた。

 

 ――かわいい。


 俺がつい甘やかしてしまうのと、この子の元々の気質もあるのか、桜は順調にあまえたさんへと育ちつつあった。 

 甘えたいが故の我儘すら微笑ましく、俺はすぐ叶えてしまうのだが、それを毎回、調には少し怒られている。


「桜ー、そろそろ起きようねぇ」

 今日は休日で学校は休みなのだが、朝から纏さんとの任務がある調に変わって、悠の今後必要になる身の回りの物を買いに行かねばならない。


 せっかくの休日だから、本当はもう少し眠っていたいけれど、とても大切な任務を任されているので、起きないわけにはいかない。


「……ん――ぅ。だっこ……」

 まだ目も開いていないのに、小さな手をのばしてくる桜に、つい笑みがこぼれてしまう。


「はいはい、おいで」

 これも毎朝のことなので慣れているのだが、毎回その可愛さにはきゅんとさせられる。


 そっと抱き上げれば、寝起きでいつもよりも体温の高い小さな体が、ぎゅうっと首元に抱きついてきた。

 

 桜の頭を撫でながら階段を下りてリビングへと向かえば、調はすでに朝食の準備をはじめていて、ふわりと優しい出汁の匂いが空腹を誘う。

 

 調と一緒に起きてきたのか、悠もちょこんとソファに座り、流れているアニメ番組をみていた。


「おはよう、悠」

「……おはよう……つづり」

 悠は俺の腕に抱かれている桜に、視線を向ける。

 

「桜、悠と一緒にアニメみよう?」

 桜は全く腕の中から降りようとせず、俺にべったりとくっついているまま。

 

「や、……み、ない」

 俺にしがみついたまま、小さく言った。


 いつもだったら、熱心に見ているアニメを見ないという桜。

 不思議に思いつつも、気分屋なところのある子なので、俺は悠の隣に桜を抱っこしたまま腰を下ろし、隣に座らせようと脇の下へ手を入れる。

 

「やーぁ。……だっこ、がいい……の」

 ぎゅっと俺の服を掴み、小さな声でぽそぽそと呟いて、さらに胸元へと顔を埋めた。

 

 一瞬、体調でも悪いのかと心配したが、どうやらそういうわけでもなさそうな感じ……。

  

 まぁ……時間の許す限りはいいかと、このままにさせておく。

 

「悠、昨日はよく眠れた?」

「……うん、ねむれたよ」

「顔色もいいし、熱は下がったみたいだね」

 そっとおでこにふれても、そこは熱を持っていなかった。

 

「うん。もう、しんどくないよ」 

  俺が「よかった」なんて言いながら頭を撫でると、悠は少し恥ずかしそうな、嬉しそうな笑顔を浮かべた。

  

 桜は、悠とは反対側の肩の辺りにぐりぐりとおでこを擦り付けてきて、俺に自分の事を守らせるみたいにして甘えてくる。

 

 何か不安に感じるようなことでも、あったのだろうか。

 だけど、まだその感情をうまく言葉にすることが出来ない感じかなぁ……。

 その様子が気にはなるけれど、その必死で可愛い姿にくすりと笑みが溢れてしまう。


「おはよう、君が悠?」

 しばらくして穏やかな声が聞こえ、振り向くと和が下りてきていた。

 

「おはよう、和」

「……おはよう、ございます」

 悠は小さく頷いてから、きちんと挨拶を返す。


「僕は和、よろしくね」

 ふわりと穏やかな笑みを浮かべる和に、悠の緊張は少し緩んだみたい。

 

「おはよう、和。ちょうどご飯できたから、手伝ってくれる?」

「はぁーい!」


「綴、桜と悠をテーブルに連れてってあげて」

 キッチンから、調の声が飛んでくる。

 

「りょーかい。おいで、悠」

 こうなったら桜は絶対に自分では歩いてくれないから、このまま連れて行くことにして、反対の手を悠に差し出し手を繋ぐ。

 

 目と鼻の移動距離だけど、桜は嬉しそうに顔を肩へとうめ、悠は少し羨ましそうにしながらも、俺の手をぎゅっとにぎってくれる。

 片腕に重みを感じながら、もう一方の小さな手を引いて食卓へと向かう。


 テーブルに着いて、まず悠を座らせる。お行儀よく座ってくれて、少し緊張をしたように俺の方を見上げて「ありがと」と小さな声で呟いた。


 俺はにっこりと笑ってから、反対側の席へと移動する。

 

 桜の方は俺の首にぎゅうっとしがみついたまま、離れようとしない。


「やだぁ! ぼく! ごはんのときもだっこがいい!」

 頬をふくらませて駄々をこねてくる桜に、思わず苦笑してしまう。


「ふふ、桜がちゃんとご飯食べられたら、また抱っこしてあげるからね」

 そう言うと少しむくれながらも腕をほどいて、渋々といった感じで椅子にひとりで座ってくれた。


「桜、あまり我儘言いすぎると、今日のお菓子はなしになるよ」

 鍋掴みの手袋をして、朝ごはんのおかゆが入った土鍋を持ってきた調の声に、桜は「だって……」と小さく反論しかけたのだが、言葉は続かなかった。


「まぁまぁ、二人共そこまでにしよ? 僕、お腹空いた」

 何とも言えない空気に包まれたそこへ和が、小鉢の乗ったお盆を持ってくる。


 テーブルの上には、あっという間にお味噌汁や、南瓜と人参の煮物、鱈の塩焼きが並ぶ。

 悠と桜の分のお魚は、しっかりとほぐされている。

 

 忙しい朝の時間に、これだけの朝食を出してくれる調の手際の良さには、本当に驚きしかない。

 

「冷蔵庫にりんごもあるからね」

「りんご!」

 嬉しそうに足をぱたぱたさせる桜、どうやらご機嫌は回復したみたい。


「あたたかい……ごはん」

 悠は目の前に置かれた、ほかほかと湯気を立てる器をスプーンを手に、じーっと見つめていた。

 調が隣に座り、そっと手を添えてあげる。


「ゆっくりでいいんだよ」

 小さく頷いた後、ゆっくりと口に運んだ。


「……おいしい」

「よかった、無理せず食べられるだけでいいからね」

 調の言葉に、にこりと笑った悠。


「ねぇ、つづり、たべさせて」

 目の前で繰り広げられる、微笑ましいその様子を見ていると、くいっと袖を引っ張っられる感覚。

 

 そちらに目を向ければ、少し不満げな瞳がこちらをじーっと見ていた。

 いかにも不満ですと言うその表情ですら、かわいい。

 

「ちょっと待ってねぇ、ほら、あーん」 

 桜のスプーンを取って口元に運んであげると、ぱくっと嬉しそうに食べる桜。


「おいしい!」

 先ほどの表情が嘘だったかのように、笑顔になった。


「ねぇ、綴。僕にもあーんして?」

 桜の奥に座っていた和まで、首をこてんと軽く倒して甘えてくる。


「えぇー和も? 仕方ないなぁ」

 甘えられるとつい嬉しくなってしまう俺は、和の口元にもスプーンを持っていってあげる。


「ふふ、美味しいね」

 そんなやり取りをしていたら、悠が自分のスプーンを持ったまま、俺の方をみていることに気付く。

 悠は俺の視線に気付き、慌てて自分のごはんを食べようとしていたけど、その瞳の中には羨望の色が滲んでいるように見えた。


「悠も、あーんする?」

「……いや、おれは……」

「んー? 貸して、貸して」

 ふにゃりと笑ってから、悠のスプーンを貸してもらう。


「ほら、悠、あーん」

 恥ずかしそうにしながらもそっと口を開けたので、ひとくち食べさせてあげれば、嬉しそうに微笑んでくれる。

 

 優しくその様子を見守っていた調が、俺の方を向いて言った。

 

「そういえば、今日綴だけじゃ不安だから、燎にも頼んでるよ」

「わかったぁ」

  

 ――俺だけじゃ不安は、ちょっと不服だけど……まぁ俺としても、燎が一緒なら安心。

 

「そういえば燎は?」

「今日は葵と一緒に食べるって言って、綴たちが起きてくる前に部屋に持っていった」

 調はそう言いながら悠のことも見つつ、無駄のない動作で箸を進めていく。


 常に凛とした空気を纏う調の所作は、優雅でありながらも自然体で、とても美しい。

 そして作ってくれる料理には、その優しさが表れている。


「この煮物、甘めの味付けですごく美味しい!」

 和は目を輝かせ、手を口元で広げて、ふふっと無邪気に笑った。 

 普段は凄くしっかりしていてとても賢い子から、こうして突然こぼれる子どもらしい表情。

  

 その仕草は少し計算めいたものを感じさせるのだが、それを含めてもかわいくて、場を包む空気を自然と和ませていく。

 調はそんな和を見て、ふっと優しく目を細める。

 

「和はいつも、美味しそうに食べてくれるね」

「だって調のごはん、全部美味しいんだもん」

 少しあざといくらいに首をかしげて言う和自身は「調のごはんが大好き」という気持ちを、そのまま表しているだけ。

  

 だからその無自覚なあざとさに、見ている側は余計に心臓を撃ち抜かれてしまう。

  

「じゃあ、もっと色々作れるようにならないとね」 

 俺はその光景を見て、いつもつい口角が上がってしまうのだ。

 普段の調は誰に対しても凛としていて、自分にも他人にも厳しいところがあるのだが、こうして和をはじめとした年下の子たちに甘えられると途端に口元は緩み、声も柔らかくなる。


 そして和に対しては、よりその傾向が強い。


 ――調はほんと、和にはあまいのね。


 今ではその姿を見るのが、俺のちょっとした朝の楽しみになっている。

 和は嬉しそうに、ふんわりと笑ってからスプーンを口に運んだ。

 

 一通り食べ終わったあと、調が冷蔵庫からりんごを取り出して持ってきてくれた。

 これも桜と悠の分は、食べやすいようにとすりおろしてある。


 桜の分を食べさせてあげつつ、俺や和が食べる用に小さく切られているりんごを口に運んでいれば、桜に聞かれた。

 

「つづり、今日おでかけ?」

「そうだよ、桜は、今日は和とお留守番しててね。はい、あーん」

 美味しい? と聞けば、にっこりと笑う桜。とりあえず、気は逸らせたかなぁ……。


 ご飯のあと、和に悠の痣を治療してもらうことになっている。

 簡単に食器を片してから、俺は桜を抱っこした状態で、少し離れたところから様子を見ていた。

 

「悠、こっちおいで」

 調に呼ばれた悠は、ソファの方へと向かう。調の膝の上へ乗せてから、和がひとつひとつ怪我を確認していく。


 小さな体に、たくさん残る痛々しい傷の数々――。


「ごめんね、少しだけ怪我してるところにさわるね」

 やわらかい光が怪我を包みこんで、ふわりと消えた瞬間にはそこにあったものは綺麗になくなっている。


 何度見ても和の治癒能力は魔法みたいで、悠の体にあった傷はすべて消えていた。


「……いたくない、なんで?」

 不思議そうに、傷のあったところにふれる悠。


「もう、痛いところはない?」

 優しく悠の腕を確認する和の様子にも変わった所はなく、俺は胸を撫でおろす。


 あまり強くはない和の体を心配して、本当はできるだけ力を使わせたくないのだが、今回は調とも相談した上で本人にお願いした。

 

「綴は、僕のことを心配しすぎだよ。でも僕のことを守ってくれようとしてるのは、すごく伝わってる。だから、僕にできることなら何でも協力させて」

 例え怪我が綺麗に治ったとしても、心の傷までは治癒することはできない。

 そんな事は、俺も調もわかっている。それでもせめて、体の痛みだけでも取り除いてあげたくて。


 悠の怪我はそれくらいに、酷いものだった。俺は和と入れ替わるようにして、悠のそばへ行く。

 桜は一旦、和に預かってもらう。


「ねぇ、悠。今日ね、午後から悠の必要なものを買いに行こうかと思うんだけど……行けそうかな?」

 悠は少し迷ってから、小さく頷いてくれる。


「ありがとう、悠。でも、無理はしなくていいからね。しんどくなったら、すぐ俺に伝えて? 約束ね?」

 小指を差し出すと、素直に繋いでくれた。

 

 そしてそのまま和と、葵の部屋から下りてきた燎に、それぞれ桜と悠のお世話を任せて俺は調と一緒に後片付けをしていた。

 

「調は、何時に出るの?」

「これ終わったら、出るよ」

「そう。悠、何がいるかなぁ……その前に桜は、大人しくお留守番してくれるかなぁ……」

 

「必要なものはリストアップしてあるから、後でスマホに送っとく。あと綴は、桜の事を甘やかしすぎ」

 調は俺の方を見て、少し眉を寄せて言った。


「あはは……かわいくてつい……」

 俺は苦笑するしかなく、その様子を見て調はため息をつく。


「まぁ……ほどほどにしてくれ」

「……気をつけます」 

 そして調のことを、悠と燎、俺の三人で見送った。


「三十分後くらいに集合にしようか」

「わかった」

「じゃあ、また後でね」





 燎とざっくり予定の話をしてから、自室へと戻り服を着替えていると、裾を引っ張られる感覚。


「ねぇ、ぼくも行きたい」

 そこには桜がいて、その少し後ろには少し申し訳なさそうにしている和の姿。

 桜はその目いっぱいに涙の膜を張り、小さな口を引き結んでいる。


「ごめんね、桜。さっきも言ったけど、今日は和と一緒にお留守番しててほしいんだ。桜の好きなお土産なんでも買ってきてあげるから、ね?」

 膝を付き、目線を合わせる。


 俺の言葉で桜の瞳からは一筋、涙が溢れた。それを機に、決壊する涙腺。

 

「……やだ。つづりは、ぼくといっしょにいてよ」


「うーん……泣かないで、桜……じゃあ次のお休みは、桜の番にして、今日は悠に順番譲ってあげてくれないかな?」


「……やだっ」

 困ったなぁ……どうしようか。


 ぐすっ。と鼻を鳴らす桜。泣き声は次第に大きくなって、ぽろぽろと大粒の涙を落とす。 


「……つぎのおやすみは、ず、っといっしょにいてく、れる?」

 俺といられないからってこんなに泣いてくれるのは、正直めっちゃ可愛い……。

 

 だけど今日、桜がいれば、悠は俺たちに甘えられない。それに調がいない事を、ただでさえ悠は不安に感じているはず。

 

「うん、絶対! 約束だよ」

「ん、やく、そく……」

 顔をべしゃべしゃにして泣いた桜は、俺が出した小指に自分の小指を絡めてくれた。


「おいで、桜」

 泣き止ませようと、桜を抱き上げる。


 テイッシュで優しく涙と鼻水を拭ってあげてから、背中をとんとん、としつつ体を軽く揺らせば、小さい手が懸命に俺の服を掴む。


「……っ……ぐすっ……」

 ふとこんなにも全力でわがままを言ったり甘えてくれるのは、もう後何年もないのかもしれないと思ったら、少しだけ寂しいなんて思ってしまった。


「桜、次は和に抱っこしてもらおうね」

「……う、ん」

「ごめんね、和。桜をお願いします」

「大丈夫だよ。おいで、桜。今日は僕と一緒に遊ぼうね」


 泣き声を聞きつけたのか、燎が部屋に様子を伺いにきた。 


「……綴、どう? 準備できた?」

 燎は少し困った表情をしていたが、和に抱っこされている桜の様子を見て、少し安心したように見える。

 

「あ! 燎、できたよ。じゃあ、いってくるね」

「いってらっしゃい」

 頼もしくも可愛らしい笑顔を見せてくれる和と、泣きすぎて顔が真っ赤な桜。

 

「いって、らっ、しゃ……」

 ほら桜も、なんて和に言われて泣きながらも、手を降ってくれる。

 

「悠、遅くなってごめんね……」

 鞄を持って燎とリビングに向かえば、すでに悠は待っていた。


「おれ、そんなに待ってないから、だいじょうぶ……」

「ありがとう。じゃあ行こうか、おいで」

 手を繋いで、玄関まで向かう。


 靴、どうしようかな……と、靴箱の前で悩む。身長は桜とそんなに変わらないから、同じの履けるかな。

 

「悠、そこ座って、足だしてごらん?」

 俺は先に自分の靴を履いてから、悠の前にしゃがんで、選んだ靴を手に取る。

 

 もしかしたら、悠は今日の外出を不安に感じているかもしれない。

 だから、少しでも安心させてあげたい。自分が大切にされるべき存在なのだと、知ってほしい。

 俺が縁や調から貰ったような、温かい感情をたくさん経験してほしい。


「え……、おれ、じぶんで……はけるよ?」


「うん、だけどね、今日は俺に任せて? こっちの足からいくよ」

 悠の体は少しこわばっていたけれど、声をかけながら丁寧に優しくふれた。


 ゆっくりと足を持ち上げて、靴の中にそっと小さな足を入れる。


「爪先とか、きつくない?」

 

「……うん、だいじょうぶ」

 小さな声で返してくれるのが、なんだか可愛くて思わず微笑んでしまう。


 反対側も同じようにして、履かせ終える。

 

「はい、できた! 上手に履けたね、悠」

「……ありがと……」

 こうして小さな信頼と安心を積み重ねていくことが、今の悠にとって何より大切なことだと、俺は思う。

 靴を履いた悠の小さな手を包みこんでから、玄関の外へと俺たちは踏み出した。

 

「よし! じゃあ、出発ー!」





 あの時の悠は何かをしてもらうことに、まだ慣れていなかった。

  

 マグカップの縁から、またふわりと湯気が上がる。


 俺は視線を戻して、キッチンに立つ悠を見た。小さな頃、遠慮がちで引っ込み思案だった子は、今では天真爛漫で思慮深く優しい子に育った。

 

 今、キッチンに立つその手つきは落ち着いていて、昔みたいに背伸びをする必要もない。 

 あの日々は、悠がここに居場所を作っていく途中だったんだと思う。 

 

 ラテを飲み干す頃には胸の奥が少しだけ軽くなって、俺はもう一度、マグカップを両手で包み直した。

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