優しさをたくさん貰って、愛されることを知る。 悠side
調は、綴のことをとても大切にしている――。
直接本人から聞いたわけではないが、綴へ向ける視線の向きとか声の低さ、名前を呼ぶ時の間の取り方なんかを見ていれば、よく分かる。
調は多少のことでは、動じない人。だから任務の後でどんなに疲れていても、忙しさで眠れていなくても、どこか調には余裕があって、気品すら感じるほどの雰囲気を纏っている。
だけど綴の具合が悪いときだけは、違う。元々あまり多くない口数はさらに減って、眉間には浅い皺が浮かぶ。
だけどそれを、本人はたぶん自覚していない。そんな不器用さが調の人間らしい優しさをあらわしていると、俺は思っている。
そしてそんな調の姿を、綴が何かしらで体調を崩すたび何度も見てきた。
勿論、綴以外が体調を崩した時も調は、甲斐甲斐しく世話をしてくれるが、調が醸し出す空気はやはり少し違う。
そして昨日見た調の顔には綴の心配に加え、疲労が色濃く出ていた。唯でさえ、任務が次から次に舞い込んできて忙しい調。
それに加えて、家事もこなす姿にはみんな頭が上がらないのだが、ここ最近よく体調を崩すようになった綴に調自身気を揉んでいるようで、どこか険しい表情を浮かべていることも増えた。
そしてその様子を周りは少しずつ感じ取り始めているのだが、それに全く気付いていないのは、当の綴本人くらい。
そんな調の負担が少しでも軽くなるようにと、俺に出来ることはすべて試してみてる。
昨日の映画だってそう。誰かが綴のそばにいるってわかったら、調は安心してくれると思ったし、あのタイトルだって大好きな綴に喜んでほしくて調べてた。
燎だってそう――。
「悠、これあとで綴と調に淹れてあげて」
「どうしたの、これ……?」
そう言って突然、差し出されたパッケージ。カモミールティーと書かれたそれは、燎が昨日外出した際に見つけた紅茶専門店で買ってきたものだという。
それと一緒に、綴が飲みやすいようにと調べたラテのレシピまで渡してくれた。
「調には、内緒にしてて」
そう言って、朝早く燎は任務へと向かって行った。
――素直じゃないなぁ。なんて、最初は思ったけど、きっとそれは燎なりの気遣いなんだと思う。
燎の事を見送り、几帳面な字で書かれたメモを見ながら、俺は鼻歌交じりに、朝の準備を進めていく。
小さい頃の俺は、今よりももっと単純で。お手伝いをすると、調は必ず優しく笑って褒めてくれる。それが嬉しくて、俺はずっと調の後ろをついて回ってた。
料理をしていたら側で調の手元をじーっとみて俺でも出来そうなことをさせてもらったり、洗濯物を取り込むのを手伝ってみたり。
今考えると役に立っていたのかはわからないし、もしかしたら邪魔になってたのかもしれない。
「じゃあ、次はこれをお願い」
だけど調はそう言って、必ず俺でもできそうなことを任せてくれた。
危ないことはさせてくれなかったけど、見てるだけにはせず、ちゃんと教えてくれる。
「危ない作業は、ひとりのときはしちゃだめ」
火を使ったり、包丁を使う時。あとは洗濯を取り込む時に台に上がるのも、誰かと一緒のときに。
それが、調との約束だった。
「しらべ、おれもこれ、やっていい?」
「うん。一緒にやろうね」
約束は守らないといけないもの。だから俺は、必ず声をかけた。
その約束を当時は少しだけ残念に感じていたけど、今はちゃんと大事にされていたからこそのものだと分かっている。
それにちゃんと言えたら、調は手を止めて「おいで」って、当然みたいに場所を空けてくれた。
包丁を使う時は、俺の利き手の上からそっと手を重ねて「手は猫さんの手にしてね」とか「焦らなくていいから、ゆっくりね」と声を掛けてくれる。
火を使う時は「熱いからね」って、少し心配そうな顔をしつつも、見守ってくれていた。
お手伝いの時間は手伝っているというよりも、俺がここにいてもいいのだと教えてくれているみたいで。その約束があったから、俺は料理が楽しいものだと知れた――。
◆
「調は、家事やりたくないって思うことないの?」
ある時、ふと聞いたことがある。確かあれは、俺が高校生くらいのときに、二人でキッチンに立っていたときだったと思う。
「ないな」
調は一瞬も迷わず、即答だった。
「洗濯とか掃除はみんなが協力してくれるし、料理は元々好きだからな」
調は手を動かしながらも、当たり前みたいに続ける。ただそれだけで、無理をしている様子なんて全くなくて。
調はやっぱり、かっこいいな。凄いなぁとあの時、思ったんだ――。
◆
燎のメモの通り牛乳を小さな鍋に注ぎ、温めていたら、ふとリヒトに来るより前のことを、思い出す。
俺の髪と瞳は生まれつきのもので、他の人とは違う。だけど俺の周りの人は、それを受け入れてはくれなかった。
気持ち悪い――。
実の母親の家にいた頃も、施設に連れていかれてからも、同じ事を言われた。
理由はいつも同じ。銀の髪と、紫の瞳。俺だけが持つ、少し変わった色。
気味が悪い――。
不吉――。
悪魔の子――。
母さんは苛立ったようにそう言って俺のことを叩いたり、髪を引っ張ったり。そんなことが俺にとっては、当たり前。
髪色や瞳の色なんて自分にはどうすることもできないから、泣いて母の怒りが収まることを待つしか出来なくて。母に愛してもらえない自分の醜さが、嫌いで――。
父親もいたけれど顔なんて殆ど覚えていない。それに向こうも俺には無関心で、声をかけられたことすらなかったと思う。
物心ついてすぐの頃から、母さんの怒鳴り声と俺の泣き声を聞いて、児童相談所の人が家に来ていたらしい。
その辺りの俺自身の記憶は朧げなもので、大人になってから見せてもらった俺の過去の記録に、そう記載されていたのを閲覧して知った。
俺が六歳になったばかりの頃に母親の手を離れ、施設へ預けられることになる。そこへ行けば辛い日々が変わるのではないかと、当時の俺は思っていた。
ここには、同じ子どもたちがいるから。大人は、守ってくれるから。
でもそんなのは俺の幻想でしかなくて、現実は残酷だった。
最初は「珍しいね」と言って声をかけてくる子もいたけど、そんなのはすぐになくなって、周りの俺を見る目は母さんと同じものになっていった。
黒い髪に、黒い瞳。他の子は普通なのに、俺だけ違う。
「気味が悪いから、髪を隠しなさい」
「他の子が怖い思いをするから、あなたは人と目を合わせてはいけません」
そんな冷たい言葉を、浴びせられる。話しかけても無視されて、直接的な事を言われなくても周りは小さな声で俺のことを「気持ち悪い」と言う。
誰かの目に入るたび、空気感とか態度で嫌がられている事を痛感させられる。
だからだんだん人とどう接するのが正解なのかが、わからなくなっていった。
喋らず、目立たないように、怒られないように。いないみたいに毎日を過ごした。
——あの頃の俺は、自分が悪いんだと思っていた。
この色で生まれたことが、全部の原因なんだって。
やがて施設でも暴力を振られるのが、当たり前になった。
食べ物を少し零した――。
名前を呼ばれて、返事が遅れた――。
掃除が終わっていない――。
理由はいつも、些細なことだった。というより理由なんて、多分いらなかったんだと思う。
叩く側の気分ひとつで、今日の俺は「駄目な子」にされる。
痛くて、怖くて。抵抗しなければ……泣かなければ、面白くないから飽きてすぐ終わる。だから、必死に我慢した。
「お前は、問題を起こさなければいい」
「大人しくしていれば、何もしない」
大人たちは、よくそう言った。でも何もしなくても殴られて、暗い部屋に閉じ込められる。
――くらいのは、こわいよ……だれか、たすけて。
俺は耳を塞ぎ固く目を閉じて、膝を抱えて体を小さくして、ただひたすらに真っ暗な部屋で時間が過ぎるのを待つ。
そんな日々を繰り返していたある日、年上の子がひとりいなくなった。その子も同じように暴力を振るわれていて、見せしめのようにされていた。
施設の人は「転園した」と言っていたのに、その子の荷物は残ったままで、幼いながらにも違和感を感じたのをよく覚えている。
あの時の俺は幼くて、その違和感の正体をわかってはいなかったけど、これ以上痛い思いをするのは嫌だ。
俺もテレビで見た同じくらいの年齢の子のように、愛されたい。
だけどここにいたら、誰からも必要とされないまま本当に消えてしまうと思った。
俺のことを、誰にも知られないまま。
だから、逃げ出した――。愛されたいなんて、俺にとっては難しい願いなのかもしれない。だけど諦めることなんて、出来なくて。
昼食の後、強制的に取られる昼寝の時間。分厚いカーテンは閉め切られ、部屋の中は薄暗い。
夜以外に施設が静まり返るこの時だけは、監視の目が緩む。一時間の間に、見張りが来るのは一回だけ。
この時間が始まって二十分が経った、十二時五十分頃――。
俺は目を閉じて、見張りが来るのを待つ。しばらくすると当番の人の足音が聞こえてきて、五分しないうちに、その人は部屋を出ていった。
それ待って、俺はゆっくりと布団を持ち上げる。音を立てないように、慎重に。そして自分の体ひとつで、部屋を抜け出した。
廊下はしん――っと静まり返っていて、遠くから大人たちの話し声が微かに聞こえる。
それとは反対方向にある非常口の扉は前から知っていて、軋む音を立てないようにゆっくりと少しずつ開けた。
心臓は、ばくばくと大きな音をたてていて、手が震えてしまいそうになる。
扉が開いた先から差し込んでくる外の光は眩しくて、一瞬だけ世界が眩む。
一度だけ固く目を閉じて、目の前に見える外が見えないほど高い塀に手をかけた。
何とか上まで登り、塀の向こう側へ体を移す。
――のぼれた、こえられた。
そう思ったら、胸の奥が微かに緩む。
――あとは、おりるだけ……。
「……っあ……」
ゆっくりと足を下へ伸ばしたのに、靴底が滑って踏み外してしまった。
短い浮遊感――。声を上げる暇もなく、俺は地面に背中から叩きつけられた。
「……っか……は……」
息が詰まる。肺の空気が一気に押し出されて、喉から変な音が漏れた。
――いたい……だけど、思ってたほどじゃない。
叩きつけられた所がじんじんと痺れているが、血は、たぶん出ていない。
――だいじょうぶ。
そう言い聞かせて起き上がろうとしたけど、膝が震えて足にうまく力が入らない。
――どうしよ……たてない……にげないと……またたたかれちゃう……。
怖くなった。痛みよりもここで見つかったらという恐怖の方が、ずっと大きい。
――ないちゃいけない……。
そう思った、その時――。
「……大丈夫か!?」
低く、落ち着いた声がした。体がびくりと跳ねて、反射的に身を縮める。
怒鳴り声じゃない、施設の大人の声とも違う。そう頭ではわかっていても、体は恐怖に震えてしまう。
俺の口は、勝手に言葉を紡ぐ。
「ごめ、なさ……たたかないで」
声が掠れてしまう。小さすぎて、聞こえたかわからない。
――みつかっちゃった……またおれは、あそこにつれもどされちゃう。
「……叩かないよ」
涙が滲んでぼやけてしまいながらも視線を上げると、声をかけてくれたお兄さんは目を丸くした。
「驚かせてごめんね、怖いことはしないから安心して」
怒られる。そう思ったのに、お兄さんは柔らかい声でゆっくりと話してくれて、しゃがみ込んで視線も合わせてくれる。
――目のたかさが、おなじ。
「ほんと……?」
気付いたら、そう聞いてた。だめだったら、どうしよう……これがうそだったら……?
「うん、本当だよ。君の名前を教えてくれるかな?」
そう言って、お兄さんはにこっと笑った。
――この人はこわくない……?
「……悠」
「ありがとう、悠。俺は、調だ」
――しらべ……この人なら、おれのことをたすけてくれる……?
それから調に、いくつか質問をされた。逃げようとしてたの? とか、俺と一緒に来てくれる? って。
「しらべは、いたいことしない?」
それを聞く声は、震えてしまう。
「絶対にしない。約束する」
すぐに答えてくれて、調はゆっくりと小指を差し出してきたが、それが何かはわからなくて……俺はその指をきゅっとにぎった。
「悠、こういう時は小指同士を繋ぐんだよ」
調は、少しだけ困ったように笑う。
「……そう、なの?」
俺は教えてもらった通り、まねして自分の小指を調の小指に絡めてみた。
「上手にできたね……とりあえず、ここから逃げようか」
調は嬉しそうに目を細めてくれて、その声と言葉に胸の奥がぽわっと温かくなる。
「おいで」
次の瞬間、体がふわっと浮いた。少しびっくりしてきゅっとしがみつくと、温かい手が背中にふれる。
「大丈夫だよ、落ちないからね」
その声はとても優しくて。腕の中で守られる温かさと、安心。それにあの時貰ったマドレーヌの甘さを、今も忘れることができない――。
◆
「今でも、誕生日とかに作ってくれるんだよなぁ」
ふと思い出した温かい記憶が頭を過ぎり、呟いた言葉は甘いものだった。
「ふふっ……」
俺は調が昨日、湯がいてくれていたほうれん草を四センチくらいの長さに切ってから、調味料とあわせる。
初めて調に会った時、眠っちゃだめなのにそのままいつの間にか寝ちゃってたんだよなぁ……。
ふわふわと揺れるのが、心地よくて――。
それから意識がふわっと浮いたような感覚にぼんやりと目を開ければ、見覚えのない天井が見えたんだ。
――ここは、どこ?
最後に覚えているのは、温かい腕に抱っこしてもらっていたこと。
頭がぼうっとしてしまって……体は重いし、おでこにはひんやりとしたものが貼られていた。
何があったのかをすぐに思いだせなくて、怖くて仕方がなくて。
心臓がどきどきとうるさくて、手が震えてしまう。
「しらべ……?」
小さく言ったその言葉に返事はなくて、不安でいっぱいになる。
――あのやさしいひとは、ぜんぶおれの夢だった?
――それともおれが寝ちゃったから、おいていかれちゃった?
目の奥が熱くなってきて、布団の端っこをぎゅうっと掴む。
――こわいよ……たすけて。
怖さが一気に押し寄せてきて、施設での記憶が頭をよぎる。
まっくらなへや、おおきなこえ、たたかれる痛み。
「……ごめ、なさ……ご、めなさ……」
じわっと涙がにじんで、目の前がぼやけてくる。我慢できるようになったはずなのに、なんで……?
泣いちゃだめなのに、うまくできなくて。
――痛いのは、いやだ……おおきな声は、こわい……あやまらなきゃ、そうしないとまたくらいところに閉じ込められちゃう……。
――はやく、泣きやまないと……またうるさいって、たたかれるかもしれない。
その時、静かに扉が開いた――。
入ってきたのは、さっき俺のことを助けてくれた人。
「……悠?」
俺のことを呼ぶ優しい声が聞こえて、目が合ってしまったらもうがまんできなくて。
張りつめていたものが、ぶわって一気にあふれてしまう。
「……っ、ひっく……」
調はすぐにそばまで来てくれて、優しく背中を撫でてくれた。
「ひとりにしてごめんね、不安にさせちゃったのかな?」
勝手に目から涙が溢れちゃって、止められない。止めようと懸命に目を擦っていたら、調に優しくとめられる。
「悠、目を擦っちゃ駄目。痛くなるから」
柔らかいタオルで優しく拭ってくれて、抱きしめてくれた。
そのままふわりと抱き上げられて、布団の端に腰を下ろした調の膝の上に乗せられ、優しく背中をとんとんされる。
おこられないし、たたかれない。ぎゅっとされるのは、とても温かくて。
「起きて誰もいなかったの怖かったね、ごめんね……」
耳元で静かに言ってくれる声が、心の奥にじわーって染み込んでくるような感じがする。
今までどれだけほしくても、手に入らなかったぬくもり。
ほんとはまだ、調の事を信用していいのかわかってない 。今まで俺の周りにいる大人は、こわい人ばかりだった。
大きい声を出してきたり、叩いたり。だけど目の前のこの人は、不思議と大丈夫な気がした。
「ん? どうしたの? 悠」
「……なんで、もない……」
大きな手で頭を撫でてくれて、ようやく涙が止まってきた頃。
――どくん、どくん。
「大丈夫だよ。もうこわくないからね」
調の胸に耳を当てると、少しこもって聞こえる優しい声が心臓の音と一緒に聞こえてきて、すごく安心する。
ぎゅっと調の服をにぎりしめると、またゆっくりと頭をなでてくれた。
「悠、少しお水飲もうね」
そう言って体勢を変えられて、横抱きにされる。調はペットボトルにストローがささった状態のものを、口元に近づけてくれて、それをちゅーっと吸って水が喉を通っていくと、重い体が少しだけ軽くなったような気がした。
「ちゃんと上手に飲めたね」
そんなことが出来ただけで、褒められたことなんてなくて、心がきゅうっとなる。
「悠、ちょっとだけじっとしててね」
されるがままに脇の下へと何かを入れられて、落ちないように優しく腕をおさえられた。
しばらくして、ぴぴぴ……と小さな音が鳴る。
「……少し熱が上がってきたな……しんどいね」
心配そうに、俺のおでこへ手を当ててくる。そこには、怒ったり呆れたりする様子なんてひとつもなかった。
――今まで、こんなに優しくされたことない……。
熱のせいで体はしんどいけど、やさしさをもらえるだけで少し楽になるような気がした。
「大丈夫だよ、悠。ゆっくり休んだら絶対に、元気になるからね」
腕の中でぎゅっと、抱き寄せられる。体はさむいけど、心は凄くあたたかい――。
「……ごめ、なさ……い」
気づけば、小さな声でそう言っていた。
「悠、こういうときは、ありがとうって言うんだよ」
調はふわりと笑って、言う。
「ありがとう……?」
「そう。俺の大事な人がね、教えてくれたんだよ」
「しらべの……だいじなひと……?」
こんこん――。
部屋の扉が叩かれて、もうひとり別のお兄さんが入ってきた。
「……調、悠の様子はどう?」
その人はそっと部屋の中を覗き込んできて、調に声を掛ける。
「だれ……?」
俺は調の服を、ぎゅっと掴む。
「あ! 目が覚めたんだね。はじめまして、悠。俺は綴」
柔らかい声で声をかけられて、俺は少しびくっとしてしまったけど、ちゃんとお返事しなきゃと思って小さな声で返す。
「つづり……?」
「そうだよぉ。よろしくね、悠」
綴はふわりと笑ってくれて、少し体の力は抜ける。
「……よ、ろしく、おねがいします」
「悠はえらいねぇ、きちんとお返事できるんだね」
綴は目線を合わせてくれて、俺の手を優しく包みこんでくれた。
その手も、すごくあたたかくて――。
「悠、今日はもう眠って、明日またお話しようか」
「……うん」
調がそう言ったとき、心の奥の方がきゅうっとする。
――自分の部屋に戻っちゃうのかな……。
――もう少しだけ……そばにいてほしい。
――でも、そんなこと言ったら迷惑……かな。わがままは言っちゃだめだから、がまんしないと……。
「悠?」
不思議そうに覗き込んでくる、調。
――大丈夫って言わなきゃ……。
――今まではずっと、ひとりだったんだから……。
「ねぇ、調。今日は悠と一緒に寝てあげたら? 急に知らない所へ来て、不安だろうし」
「え……」
思わず俺は、顔を上げた。
――なんでつづりは、わかったの?
――おれのこころ……よんだ……?
心の中で考えていただけで、声になんて出していないのに。
「それもそうだな。悠は俺と一緒なの、嫌じゃない?」
いやどころか、すごく……すごく嬉しい。俺は首をふるふると横に振りながら、答える。
「……いやじゃない、その……うれしい」
「そっか、よかった。準備してくるから、ちょっと待ってて」
調は目を細めて優しく笑ってから、着替えるために部屋を出ていった。
途端に部屋の中がしんとして、少しだけ心細くなる。
「よかったね、悠」
だけどそれは一瞬で、綴が優しく頭を撫でてくれたから、平気だった。
「ありがとう、つづり」
「いえいえ」
そんな時、綴の後ろから大きな声が聞こえた。
「つづりっ! はやくぼくのとこきてよ!」
そこにいたのは、たぶん俺と同じくらいの身長の男の子。扉を掴んで、こっちをじーっと見てくる。
――あまり年齢は、変わらなさそう……?
「桜、しーっ。ちょっと待って。というか、こっちおいで」
桜と呼ばれたその子は、頬をふくらませながらも、綴の背中にぴったりくっついて覗いてくる。
「桜、この子は悠だよ。はじめましては?」
「……はじめまして……はるか」
綴は優しく笑いながら、俺の方を向いた。
「悠、この子は桜。君と同い年だよ。仲良くしてね」
俺は少し緊張しちゃって、手をぎゅっとにぎった。
「……はじ、め、まして、……さくら」
「二人共、えらいぞー!」
綴は俺と桜の頭を、一緒に撫でてくれる。
それがすごく、くすぐったくて、心がふわりと温かいものに包まれた。
「おまたせ、悠」
その時。開けっぱなしだった扉から、調が戻ってくる。
そばに来てくれた調の服の裾を、俺は無意識のうちに掴んでしまっていたから、慌ててその手を離す。
調は少し困ったように笑ってから、何も言わず頭を撫ででくれた。
「よし、じゃあ今日はもう寝ようか。俺たちも部屋へ戻るよ。行こ、桜」
「んぅ。ぼく、ねむい……つづり……だっこ」
ためらいもなく桜は綴へと手をのばして、甘えていた。
「仕方ないなぁ、桜は……おいで」
苦笑しながらも綴は、桜の事を軽々と抱き上げる。桜は安心したように綴に抱きつき、その胸へと顔をうずめた。
――いいなぁ……。
抱っこしてもらう桜が、少しだけ羨ましくて。
「おやすみ、悠。また明日ね」
「おや、すみ、なさい……」
本当は俺も甘えたかったけど、どうしていいのか。俺が甘えてもいいのか、分からなくて。
俺はぐっと、それ飲み込んて心の奥の誰にも見えないところへ隠した。
「悠、もう遅いから横になろう」
そう言いながら、調は布団を広げて俺が入りやすいようにと持ち上げてくれる。
何でもないその仕草に、本当は羨ましいって思っていた気持ちが少しだけ溶かされていった。
「……ありが、と」
小さな声で呟いた俺の声を調はしっかり拾ってくれて、「ん」という短い返事ではあったが、返してくれた。
優しいことをしたつもりなんて、調にはないのかもしれない。
だけど、俺はそんな小さなことがすごく嬉しくて。
誰かと一緒の布団で眠るというのは少し不思議な感じがして、ふわふわと柔らかい布団の中は、すぐそばに調がいてくれるからか、もっと温かく感じた。
だけど、桜みたいに抱っこしてほしいとは……言えなくて。
でも、こうしてちゃんとそばにいてくれる。それだけで心の中にあったさみしい気持ちが、少しずつ消えていった。
とんとん、と胸の辺りを優しく叩かれれば、瞼は重くなってきて眠気が押し寄せるなか、反対の手を探してきゅっとつかまえる……。
調のふふっと笑った気配と、温かいぬくもりに包まれて静かに夢の中へと落ちていった。
◆
翌朝、目が覚めた時――。
重くてたまらなかった体は軽くなっていて、あんなにしんどかったのが嘘のようだった。
隣では調が寝ていて、穏やかな寝息が聞こえている。
昨日――桜が綴に抱っこされていた姿が、ふと頭に浮かんだ。
――しらべ、まだおきてない……いまなら、だいじょうぶかな?
心臓がどきどきする。勇気を振り絞って、そっと調の胸元に潜り込んだ。
「……ふふ」
優しいにおいに包まれれば、あったかくて、ほっとして。安心したら眠くなってきちゃって、そのまま目をつぶってしまった。
ふわふわのなかにいたら、誰かが頭を撫でてくれる感覚。
――まだ、ここにいたいなぁ……。
「……悠」
優しい声が聞こえて、ぱちっと目を開ける。
「……ごめんね、そろそろ起きてくれるかな?」
声がした方を見ると、調がこちらを見ていた。自分の手が調の服をぎゅっとつかんでいることに気がついて、慌てて離す。
「……あ、の……ごめ、んなさい……」
――こっそりあまえたの、ばれちゃった。
――きっと、怒られる……。
――嫌われちゃったら、どうしよう……。
布団をきゅっとにぎって、涙が出そうになるのをがまんする。
「……悠」
名前を呼ばれて、調は優しく頭を撫でてくれた。
「謝ることなんてないよ」
低くて落ち着いているけど、凄く温かい声。
「俺は悠が甘えてくれるの、全然嫌じゃないよ。むしろ嬉しい」
その言葉に、心がぎゅうってなった。
「ほんと……?」
調はこくんと頷いて、また頭を撫でてくれる。
「ほんと。だからね、甘えたいって思ったら遠慮なく甘えていいんだよ。俺だけじゃなくて綴も、他の子も絶対に嫌がったりしない」
「……うん」
調はにこりと笑ってから、ベッドの横にあった体温計に手をのばす。
初めて「だめ」って言われなかった。嫌がられなかった。
「悠、熱を測ろう」
そう言って昨日のように、脇の下にはさまれる。
ぴぴぴ――。
「よかった、熱は下がったね。体はどう?」
「もう、しんどくないよ」
「そっか、よかった……おいで、悠。リビングに行こう」
そう言って両手を広げてくれる、調。
――だっこしてくれるの?
――おれ、ほんとうにあまえてもいい?
こくんと頷いて、ためらいながら手をのばすと、体がふわっと浮いた。
抱き上げられると、心臓がどきどきして緊張するのに、調にふれたらすごく安心できて、遠慮がちに身体を預ける。
――いいのかな。
心の中で何度も繰り返したけど、それでも離れたくなくて。
歩くたびにゆらゆらと揺れるのが、心地よい。
すごく安心できて、ついぎゅっと服をにぎってしまったけれど、調は優しく笑ってくれて、落ちないように抱きしめてくれる。
――あまえてもいいんだ、ほんとうに……。
それが嬉しくて肩のところに顔をうずめれば、外の世界の眩しさも少しずつ怖くなくなった。
――もう少しだけ、このままがいいな。
今でもあのときのことの多くを、調が語ることはない。
これも後から知ったことだけど、俺がいたあの施設の人間は、人身売買に手を染めていた。
殴られるのは罰じゃなくて、壊れないか確かめるための選別方法。
どれだけ言うことを聞くか、逃げる意思はないか、手をあげても声を上げないかを図るため。
今にして思えば、あの大人たちは「守る人」じゃなかった。
実の母親ですら、俺がくっつくのは「邪魔」で、泣くのは「駄目なこと」だった。
でも、調は違った――。
温かい腕の中で守ってくれて「泣いていい」とも「我慢しろ」とも、言わなかった。
小さかったとはいえ、十五キロ以上はあったであろう子供を、長時間抱えたまま連れて帰るのは大変だったはずだ。
なのに、重くても、歩くのが大変でも、下ろそうとはしなかった。
リヒトにきてからだって、甘えていい。ここにいていい。と伝え続けてくれたから、俺は愛される喜びを知れた。
◆
だから、次は俺の番。
「調のもあるから、たまにはゆっくり座ってて」
そう言ってマグカップを差し出すと調は一瞬、目を丸くしてから、いつもの少し困ったような優しい顔になる。
――あぁ、この顔だ。あのとき「頑張ったね」って言って、抱きしめてくれたときと、同じ。
俺はもう、あの時とは違って守られるだけの子どもじゃない。
でも調やみんながくれた愛された記憶は、今もこうして俺の中に存在している。
次は俺がその感謝を返す番で、それを出来ることが俺はうれしくてたまらない――。




