小さな手を掴めたあの日と、今この瞬間の幸せ。 調side
部屋へと戻ると言った綴のことを見送った後、俺は明日の朝食の準備だけでも終わらせておこうと、キッチンへと向かう。
冷蔵庫から食材を取り出し、まな板の上へと並べる。人参に大根、それからほうれん草。
鍋を二つ取り出して、片方に作り置きしている出汁を注ぎ、もう片方には水と少しの塩を入れてから火にかける。
俺は、野菜を切りながら考えてしまう――。
先ほどの綴の態度には、やはり少し引っかかるものがあった。
いつも通りに振る舞ってはいたが、視線の動きや間の取り方なんかがいつもとは違ったような気がする。
決定的なのは階段を上がるときの、ほんの一瞬の僅かな背中の揺らぎ。
また、無理をして隠そうとしている――。
そう結論づけるには十分だったが、俺は綴へ手をのばすことを躊躇ってしまった。
俺が綴に対して過保護になればなるほど、あいつは心配をかけたくないと思って、自分から言い出せなくなってしまっているのではないかと……。
――今は、考えるな。
俺は包丁を軽く洗ってから、そのまま手も洗ってしまう。
――俺の情けない思考も、この泡と一緒に流れてしまえばいいのに。
そんな思考を何とか切り替えるため、明日の予定をざっと頭の中に浮かべる。
確か……明日は任務に向かう子が、多かったはず。
そうでなくても、元々体の丈夫ではない和や、体調や食欲に比較的ムラのある弥。食べることがあまり得意でない葵に、好き嫌いが多く、少食な桜。たくさん食べる湊や燎といった子たち全員に対して、出来るだけ対応できる献立にしなければならない。
胃腸にあまり負担がかからず、栄養がしっかり摂れて冷めても食べやすく、且つ体調に波がある子がいても対応できるもの。
俺が食事を作るようになってから、ずっと心掛けていること。
そうなると必然的に和食中心にはなってしまうのだが、健康を守るには必要なことだ。
味噌汁用に出汁を入れた鍋へ野菜を投入し、しばらくしてから味噌を溶かし入れる。
――豆腐は崩れないように明日の朝に入れようかな……メインの鮭は朝に焼くとして、下処理だけ済ませておいて……あとは副菜系をいくつか……。
――納豆、きゅうりの漬物……その他に作り置きしてるものもあるから、大丈夫か。
あとは水を張った鍋へほうれん草を根本から入れて、三十秒ほどだけ軽く下茹でをして、冷水に二分くらい晒し、水分を軽く絞っておく。
――胡麻和えにするか、お浸しにするかは朝に決めればいいかな。
俺の手元は淡々と調理を進めていたが、頭の片隅では先ほどの綴の背中がどうしても離れなかった。
最後に炊飯器のタイマーをセットし、朝食の仕込みを終えた俺は、キッチンの灯りを落とす。
時計を確認すれば、時刻はもうすぐ日付をまたぐ頃。
――心配だから、念のために様子だけ見ておこう。
そう決めた俺はさっとシャワーを浴びてから、自室へと戻るため廊下へと出る。
俺の部屋は綴の部屋より奥にあるため、前を通りすぎる必要があるのだが、俺は綴の部屋の前で足を止めた。
その時――。
「……し、らべ……」
扉の向こうから、綴が俺を呼ぶ声が聞こえた気がして。
――寝言……か?
そうは思ったが嫌な予感がした俺は、静かに扉を開ける。真っ暗な部屋の中、徐々に暗闇に慣れた視界に映ったのは、ベッドの上で力尽きたように倒れる綴の姿。
「綴っ……」
布団も被らず、綴は体を投げ出すように倒れ込んでいて、片脚はベッドの外に落ちてしまっている。聞こえる呼吸は浅く、苦しそうに喉が鳴っていた。
俺は迷わず駆け寄り、肩に手をかけて無理に起こさないよう注意しながら、布団の中央へと寝かせ直した。
乱れた呼吸に合わせるように、胸が上下しているのを確認し、布団を首元まで掛ける。
――とにかく、熱を下げないと。
俺は一度部屋を出て、手早く必要なものを揃えるためリビングへと戻る。タオルを濡らして固く絞り、常温で常備してある水のペットボトルと、それから体温計に冷却シート。
足早に戻ると綴の額へ冷却シートを貼り、タオルで首元の汗を拭う。
――体に、熱がこもっている。俺が帰ってきた時は、平気そうだったのに……なんで……。
なかなか安定しない綴の体調に、不安が過ぎる。
――落ち着け……俺が焦るな。ここまでは、想定の範囲内だと思え。
そうしている内に、綴の呼吸はまだ完全には安定していないが、少しずつ深さを取り戻していた。
――よかった、とりあえずは落ち着いたみたいだな……。
しばらくベッドの脇へ腰を下ろし様子を見ていた俺は、綴の様子が落ち着いた安心と、一日の疲れもあったのかうとうとと勝手に瞼は落ちてきて、頭の方もガクッと船を漕ぎ始める。
「……や、だ……」
不意に、小さく掠れた声が耳に届いた。その声で一気に頭が覚醒し、意識が引き戻される。
「……っ……綴?」
慌てて覗き込んだ綴の表情は眉を寄せていて、苦しそうに喉がひくりと動いていて。
「し……べ……た、す……てっ」
綴の白く細い指が、シーツを掴むように強張っていた。
――魘されている。
そう理解して、起こすために声を掛けようとしたその時――。
「……っ!」
綴が息を吸い込む音と同時に、瞼がぱっと開く。だが焦点が定まらないのか、部屋の壁や天井をなぞるように揺れた。
「……綴、大丈夫か」
ゆっくりと揺れる瞳が、俺を捉える。涙の膜が表面張力を超えて、溢れてしまいそうで。
「……ゆ、め……」
掠れた声で呟く綴の表情に、胸の奥が掴まれたような、締め付けられるような感覚がして苦しい。
――どうして……綴の体には、何が起こっているのか。
――このままこいつの体は、悪化し続けるのだろうか。
――ある日突然、取り返しのつかない所へと行ってしまったら、どうしよう。
そんな不安が次から次に、頭の中で増殖する。
俺が変わってやれたら……苦しさも、恐怖も全て俺が受け取ることができれば。
そんな思考が無意味だとわかっていても、考えずにはいられなかった。
「……お前、魘されてたぞ」
そう伝えた時。綴は一瞬、言葉を失ったように瞬きをして、咄嗟に自分の両手を見た。
指を開き、確かめるように何度か動かすその仕草から、俺は目を離せなくて。
「……なんで……調が……俺の部屋に?」
「部屋へ戻るときの、お前の様子が変だったからな」
それだけ答える。本当は言いたいこともあった。
なんで体調の異変を隠したのかとか、このままお前は手のひらからすり抜けるようにして、俺の前からいなくなってしまうんじゃないかとか。
そんな考えが、頭から離れなかったことも。
だけど、言わない。その代わりに俺は手を伸ばし、汗で額に貼り付いてしまった綴の前髪を、そっとよけた。
「念のために部屋を覗いて、正解だったよ」
そう言えば、綴はきゅっと目を細めてから、ゆっくりと息を吐く。
「嫌な夢でも見たのか?」
綴は一瞬だけ言葉に詰まったが、小さく頷いた。さっきまで何かを確かめるように見ていた自分の手を、今度はぎゅっと握りしめる。
「……溶ける夢を……見たんだ」
頭が言葉を理解した瞬間、俺の手はぴたりと止まってしまう。
――溶ける……夢。
「痛かったりしなくて……ただ、じわりと熱いの……」
その声は、静かだった。だけどその表情には、苦悶の色が浮かんでいて。
腕には力が入り、指先が無意識に強張っていく。
俺は、それを見逃さなかった。声をかけるよりも先に、そっと手を伸ばす。
綴の腕にそっとふれて肘から手首へと、温度を伝えるように撫でる。
「……大丈夫だ。お前はここにいる」
安心させるように……だけど綴の存在を確かめるみたいに。
綴は、何も言わなかった。何かを考えているのか、視線を落としたままで。
けれど一度抜けた手の力はまたすぐに戻ってきて、次第に血の気が引いてしまった指先は、白くなっていく。
――きっとまた、こいつは自分の中だけで……感情を抱え込もうとしている。
「……綴」
俺はため息をひとつ零し、静かに名前を呼ぶと綴は、はっとしたような表情を見せた。
「……指先が白くなってる」
手の甲に指を添え、指先へとなぞるように滑らせた。絡めるのではなく、包みこむように。
そして、そのままきゅっと。力を込めた。
「一人で考えすぎるなよ」
そう言えば、綴の指先からは少しずつ力が抜けていく。今はそれだけで、十分で。
おそらく……綴は今、悪夢の中での体験によって、動画の被害者と自分を重ねてしまっている。
綴は昔から人の感情に聡いから、言葉にされる前の揺れをも、空気の温度で察してしまう。それは綴の長所でもあるが、それは同時に致命的な短所にもなりうる。
誰かが傷つく前に手を伸ばせるが、その分他人の痛みも自分のものとして抱え込んでしまう。
俺は包み込んだままの手を見下ろしながら、考えていた。白くなっていた指先は、少しずつ血色を取り戻してきていて安心する。
寝息へと変わった綴の呼吸を確認してから、俺はベッドへと突っ伏し、秒針の音を何となく聞いていたら、ふと昔のことを思い出す。
◆
俺たちがリヒトに来たばかりの、まだ幼かった頃。綴が怖い夢を見た。とだけ言って夜中に俺の部屋へ来たことがあった。
夢の内容は殆ど教えてくれなかったが、「星の夢」が怖いと言って泣くあいつを俺は放っておけなくて。
あの夜は震える手を繋いで一緒に眠ったのだが、翌朝にはけろっとしていて何事もなかったように振る舞う綴に、とても困惑したことを覚えている。
それはまるで、怖いと怯えていた震えすら初めから存在しなかったみたいで。
結局、今も綴はあの日のことを教えてはくれない。
あの時も、今のような感じだったのだろうか。
明日の朝も、何事もなかったように「大丈夫だよ」と言って、笑うのだろうか。
その想像に、胸の奥がざわつく。
俺は綴の手を包み込んだまま、離さない。離してしまったら、そのまま遠くへ行ってしまいそうで。
顔を上げて綴の呼吸が、安定していることを何度も確認する。
いつの間にか夜は薄くなり始めていて、カーテンの隙間から白に近い光が滲み込んでいた。
深い藍色だった部屋が、ゆっくりと輪郭を取り戻していく。
時折、綴の指先がぴくりと動くたび、俺は少しだけ力を込める。眠りは浅そうだが、先ほどまでの苦しそうな様子は見えない。
俺は、ここにいる。お前をひとりにはしない。
「……だから、頼むから」
零した声は、ほとんど息に近い。
これ以上、ひとりで抱えこまないでくれ……。
そんな言葉が、喉元まで迫る。だけどそれは結局、音として形になることはなくて。
俺はリヒトにきて……綴と出会って、大切なものがたくさんできた。この手で守りたいと思うものを持って強くもなったけど、同時に失う恐怖を知ってしまったことで、弱さも出来てしまった。
綴の手を包み込んだまま、目の下に落ちる睫毛の影を見つめる。
――俺の前から、いなくならないでくれ。
声にしなかった願いだけが、胸に残る。東の空がさらに明るくなって、夜と朝の境目で時間は静かに流れていく。俺は、綴の手を離さなかった。
夜が終わるまで……この手を離す理由はどこにもなかったから――。
◆
「……調、起きて」
浅い眠りの底。柔らかい声が聞こえて、意識が浮上した。
少し重さを感じる頭を起こすと、手は繋がれたままで、顔を上げたそこにはベッドの上で上体を起こし、こちらを見ている綴の姿。
カーテンの隙間から差し込む光が、綴の輪郭を淡く縁取っている。
顔色は昨日よりずっとよく見えて、それだけで胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ緩む。
「……もう、大丈夫なのか」
声は自分でも驚くほど、低くて……。綴は一瞬きょとんとした顔をしてから、いつもの柔らかい笑みを浮かべる。
「うん、だいじょうぶだよ」
その言い方が、昨日と同じで。だからこそ、安心していいのか分からなくなる。
俺は身を起こしながら、昨夜のことを思い出しかけて……やめた。夢の中で怯える姿も、白くなった指先も、今ここにはない。
「俺、お腹空いちゃった」
そう言ってふにゃりと笑う綴の表情には、昨日の辛そうな面影なんてなくて。
「……そうか」
――食欲があるなら、少し安心だな。
そっと離れた指先にはまだ微かに温もりが残っている気がして、自分の手をきゅっと握りそれを確かめる。
綴の後をついて二人でリビングへと降りると、出汁の匂いが鼻先を擽ってきて、俺は足を止めた。
「おはようー!」
明るく元気な声が聞こえて、キッチンには悠の姿。
「悠、おはよぉー」
「おはよう……悠」
きちんとエプロンをしている悠は火を弱めて、鍋の中をそっとかき混ぜていた。カウンターのところにはすでに、俺が昨日用意していた味噌汁やほうれん草の副菜が並べられている。
「綴、体はもう大丈夫なの?」
「もう、へーきだよぉ。心配かけてごめんね」
「そっか、よかったぁ」
にこりと人懐こい笑顔を浮かべる、悠。
「ありがとう、悠。助かるよ」
「どういたしましてって言いたい所だけど、殆ど調が用意してくれていたのを、温めただけだよ」
「それが、助かるんだよ」
「そっかぁ、ならよかった」
悠は小さい頃からよく、俺の手伝いをしてくれていた。まだ小さな体で一生懸命に背伸びをして俺の手元を覗いていた姿は、健気で可愛らしくて。そんな姿が、今ではとても懐かしい。
「これ、綴に渡してあげて」
そう言って渡されたのは、綴がいつも使ってる紫色のマグカップ。
湯気と共に、ふわりと甘い香りがする。
「これ、カモミールか?」
「そう。昨日、燎が買ってきてくれてたのをラテにしてみたんだ」
ティーパックのパッケージを見せられて、いたずらっぽく笑う悠。
「調のもあるから、たまにはゆっくり座ってて」
そう言って、もうひとつ俺の分も差し出される。
「……気が利くな」
「でしょ?」
悠は照れるでもなく、当たり前みたいに肩をすくめた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
そんなやり取りの後、俺は悠の好意に甘えて綴のもとへ向かう。
「綴。これ、悠から」
「そうなんだ、ありがとぉ」
差し出したマグカップを、綴は両手で受け取る。俺も同じように、ソファに座っている綴の隣に腰を下ろしマグカップへ口をつける。
カモミールの優しい甘さと温かさに、無意識に入ってしまっていた力が抜けるのがわかった。
湯気の向こうに見える悠の姿を見て、いつの間に、あんなに大きくなったんだろう。なんて、思った。
◆
悠は、俺が任務中に保護をした子だった。あれは葵が来てから、一年ほどの月日が経ったある日。珍しく俺に、単独任務の要請がきていた。
その内容は、人身売買の噂のある児童養護施設の偵察――。
戦闘の可能性は低いが、担当予定だった人が怪我によって遂行できなくなったという理由で急遽、俺に回ってきたものだった。
基本的に綴と組むことが多かったのだが、今回は俺一人。
施設の入り口付近が見える喫茶店の中から、人の出入りを見張っていた。
勉強中の学生を装い、二時間ほどの予定。視線は手元に落としつつも、意識の殆どを外に向けていた。
一時間ほどが経過した時点で、古い木製の窓枠から見える光景に特に違和感のあるようなことはなく、ただ時間だけが過ぎていく。
少し前までは子供たちが遊んでいて賑やかだった中庭も、今は静まり返っている。
そして眠気覚ましのために頼んだ、アイスコーヒーがなくなりかけた時。
「……は?」
俺の視界に、小さな影が映った。そこには大人でも容易には超えられないであろう高さの施設の塀を、外に出るべく小さな手で必死に登ろうとしている子供の姿。
「……何してんだ」
その子は何度も滑り落ちそうになりながら、それでも必死に手をのばす。
「すみません、お釣りは結構です」
俺は慌てて荷物をまとめ、レジに千円札を置いて店を出る。
外に飛び出し、辺りを見回すと地面にへたり込んでいる姿を見つけ、急いで駆け寄った。
「……大丈夫か!?」
辺りには人はおらず、状況が分からないために小さな声で話しかけたのだが、その子は尋常じゃなく怯える。
「ごめ、なさ……たたかないで」
「……叩かないよ。驚かせてごめんね、怖いことはしないから安心して」
恐る恐る見上げてきたその子は、紫色の瞳に銀色の髪をしていて、その大きな瞳いっぱいに涙をためて、怯えきった視線を向けてくる。
「ほんと……?」
「うん、本当だよ。君の名前を教えてくれるかな?」
「……悠」
「ありがとう、悠。俺は、調だ」
「しらべ?」
「そう。悠は、逃げようとしてたの?」
「……うん。いたいこと、いっぱいされるから」
そう言う悠の体には、そこかしこに紫に染まった痣があった。
腕、足、首元。
――これは、報告では済まない。
「……悠、俺と一緒に来てくれる?」
「しらべは、いたいことしない?」
「絶対にしない。約束する」
俺は小指を出して、悠の方に差し出した。悠は首を傾げた後、俺の小指をそっと小さな手で握ったのだった。
その健気さというか、可愛いさにやられた。こんな状況でそんな場合ではないのに、つい笑みがこぼれてしまう。
「悠、こういう時は小指同士を繋ぐんだよ」
「……そう、なの?」
悠はそっと、俺の小指に自分の小指を絡めてきた。
「上手にできたね……とりあえず、ここから逃げようか。おいで」
俺は悠を抱え上げてその場を離れ、しばらく周囲を警戒しながら足早に歩いていた。
しがみつくように強く俺の服を掴む指先からは、離れたくないという必死さが伝わってくる。
施設から十分なほど、距離を取れた頃。
くぅっ――。
そんな小さな音がどこからか聞こえて、初めは気のせいかとも思ったが、悠が体をきゅっと縮めたことによって気付く。
「……? ……悠、お腹すいた?」
「……うん」
そう聞けば、悠は恥ずかしそうに俺の肩の辺りに顔を埋めた。俺は一瞬だけ足を止め、持っていた鞄の中を探る。
「ちょっと待ってね……あった。これ、あげる」
鞄の中には今朝、桜にあげようと思って渡し損ねたマドレーヌが入っていた。
桜には悪いが、これは悠に渡そう。マドレーヌはまた作ればいいだけだ。
「……これ、なぁに?」
その小さな両手に包みを渡せば、目を輝かせる悠。
「マドレーヌだよ」
「まどれーぬ?」
「そう、甘くて美味しいよ」
「……たべてもいいの?」
「いいよ」
一口マドレーヌを齧った悠は、猫が驚いたように目を丸くしたかと思うと、ふにゃりと音が聞こえそうなほどの笑顔を見せてくれた。
そしてそれからすぐ、瞳から大粒の涙をぽろぽろと落とす。とめどなく頬を伝い、マドレーヌを握る小さな手は震えている。
「おいしい……」
「よかった……頑張ったね。悠」
そう呟いて、俺は腕に込める力をもう一段だけ強くした。
壊れものを扱うように、大切に――。
しばらくして少し緊張が緩んだのか、俺の腕の中で悠は眠ってしまった。
規則正しい呼吸に、小さな寝息。服の隙間から覗く痣はあまりに目立つため、電車には乗れなくて、俺はただひたすらにアジトを目指し歩いて帰った。
その道中に、綴に電話を繋ぐ――。
3回ほどコール音が鳴って、聞き慣れた柔らかい声が聞こえる。
「もしもーし、どうしたの?」
「綴……」
俺は自分が思っていたより緊張していたらしく、綴の声に強張っていた力が抜けていくのを感じた。
「調? どうしたの?」
「……今日俺が行った任務先の施設は恐らく黒だ。すぐ縁に報告してくれ」
「ちょっと待ってねぇ。調が行ってた任務……あぁ、ここか。りょーかい」
「あと、ひとり男の子を連れて帰る。だから、準備を頼む」
俺は腕の中で、ぐっすりと眠りに落ちた悠の顔を見る。
――この子を、助けられてよかった。
「えぇ!? 男の子? 怪我してるの?」
「大きなものは、ないと思う。ただ、劣悪な環境にいたみたいだから……」
「……わかった。俺も迎えに行こうか?」
一瞬、綴の声のトーンが下がったのがわかった。だが次の瞬間には、いつもの柔らかい声に戻る。
きっとあいつも何か、思うことがあったのだろう。
「いや、あと十分もすれば着く」
「りょーかい。待ってるよ」
だがそれを話すのは、まずこの子を安全なところに連れて帰ってからだ。
出来るだけ人通りを避け、腕が痺れ始めても、足が重くなっても、止まらずアジトへの帰り道を進み続けた――。
◆
「……調?」
綴の声で、意識が現在へと引き戻される。
「悠が、準備できたよって」
「……そうか」
「珍しいね……調がぼぉーっとしてるの……体調よくない?」
そう言って俺のことを覗き込んできた綴の顔は笑おうとしているけれど、不安そうな……心配を隠せていないものだった。
綴のことだから、自分のせいかもしれない。自分が体調を崩してしまったから……なんて考えてるんだろう。
「言っとくが、お前のせいじゃないからな」
綴から視線を外さず、俺は続ける。
「昔のことを少し、思い出しただけだ。それに、体調も問題ないよ」
俺はそう、言い切る。こいつが背負う必要のないものまで、抱え込む癖があることを、誰よりも知っているから。
「……ほんと?」
「ほんと。俺が綴に、嘘なんてついたことないだろ?」
「ふふ。そうだね」
ふわりと音がしそうな笑みを浮かべた綴に、俺は安心する。
――お前は、そうやって笑ってるのが一番だよ。
「ふたりともー! 冷めちゃうから、はやくー!」
そんな明るい声が聞こえ、俺たちはダイニングテーブルへと移動する。いつの間にかリビングにはみんな揃っていて、温かな空気が流れる。
——あの頃、腕の中にいた小さな子を俺は「救った」つもりだった。
だけど救われていたのは、もしかしたら俺の方だったのかもしれない。
そんな考えが、ふと過ぎる。
「はい、どうぞー!」
悠から差し出されたお茶碗を受け取り、俺は「ありがとう」とだけ言って、箸を取った。
湯気の立つ朝食は、昨夜仕込んだものに悠なりの手が加えられていて、とても優しい味がする。
咀嚼しながら、自然と視線が綴の方へと向いた。マグカップを両手で包むように持ち、少しずつ大切そうに口をつけている。
そんな綴の様子に柄にもなく俺は、この時間がずっと続きますようになんて願いながら、幸せの味を噛みしめていた――。




