第2章:舞踏会の夜、二度目の誓い -6
それから、どれほど時が過ぎただろうか。
真夜中までずっと、舞踏会は続いていた。
絶え間なく演奏される音楽に合わせて踊り、時には祝いの言葉を告げにきてくれた人達と言葉を交わして。
さすがに疲れを感じるようになって、ネリネは先に立って手を引いてくれるダリルの後に続いて、大広間の外――広々としたバルコニーに出ていた。
吹き寄せる夜風が清々しく、肌に心地よい。
バルコニーに設えられていた長椅子に腰掛けて頭上を見上げれば、月が冴え冴えとした銀色の光で夜空を明るく照らしていた。
……本当に、とても美しい夜だった。
月を眺めながら息をつき、ネリネは思う。
(きっと……、私、今夜のこと、ずっと忘れられない)
満ち足りた気分で、手を胸に当てて目を閉じる。
手のひらの下では、今も胸が高鳴ってとまらないほどだった。
……でも。
一つだけ、ネリネには気がかりなことがあった。
誰もいない静かなバルコニーに出たのは、だいぶ疲れてきていたし、少し身体を休めたかったというのも理由ではある。
けれど、それよりももっと切実な、本当の理由は――
「姫様、お待たせしました。こちらを」
ネリネをバルコニーに案内してすぐ、人々の群れの中へ姿を消したダリルは、すぐに戻ってきた。
その手にあったのはグラスに注がれた飲み物だ。
彼に飲み物を持ってきてもらって初めて、喉が渇いていたことにようやく気づく。
受け取ったグラスは、ひんやりと冷えていた。
鼻先をかすめるのは、苺の果汁の甘い香りだ。
「ありがとうございます……。あの、ダリル様は」
「お気遣い感謝します。ですが俺は先ほど、給仕の者にもらっていましたから」
「それなら、よいのですが……」
グラスの縁にそっと口をつける。
優しい甘さがとろけるような柔らかさを伴って、口の中いっぱいに広がっていった。
(おいしい……)
ふう、と人心地つきながら、ひそかにダリルを見上げた。
彼は立ったまま、ついさっきまでネリネがそうしていたように、夜空を見上げていた。
月の光に照らされたその横顔に、ネリネは胸の裡でよりいっそう確信を強める。
……やっぱり、そうだ。
一見すれば、ダリルの表情は、舞踏会が始まった時とほとんど何も変わらないように思える。
けれど。
ほんの少しだけれど、やはり違うのだ。
「…………」
沈黙を保つ彼の面差しは、確かに翳りを帯びている……
もともと人見知りのひどいネリネだ。
見知った人が相手でも、自分から話を切り出すのはかなり勇気のいることだった。
……それでも。
意を決して、ネリネは顔を上げる。
「ダリル様」
「姫様」
お互いの声が重なったことがわかった途端、あっと声を上げ、思わず手で口を押さえる。
ダリルもはっと目を瞠って、それから気まずそうに謝ってくる。
「……すみません。俺は構いませんので、姫様からどうぞ」
「あ……っ、い、いえっ。その……私の話は、少しだけ、時間がかかってしまうかもしれないのです。なので、あの……ダリル様から、話していただけませんか」
「ですが、俺はあなたに仕える者です。主であるあなたを差し置いて先に話をするわけには……」
「い、いいのです! 私が……許しますから」
とっさに言い放てば、ダリルはそれ以上言い募ることは諦めたらしかった。
逡巡するような様子を見せた後に、彼はようやく切り出す。
「……わかりました。では、僭越ながら俺から。俺は……姫様に、お願いしたいことがあったんです。どうか、ダリル、と。俺のことは、普通に呼んではいただけませんか。それから、敬語もなくしていただけると」
「あ……」
そう言われて初めて、思い至る。
王族と、その専属となった騎士は主従関係にある。
普通、主は従者に対して敬語など使わないものだ。
それなのにネリネは、流れるように自然に、ダリルに対して敬語を使ってしまっていた。
なぜなら……
(ダリル様は、私よりも年上の人だから……)
ネリネは、今年で十八歳。
対してダリルはもう、二十を越えていることは間違いない。
ネリネとは年齢が離れていること、そればかりではない。
物静かで、落ち着いていて。
彼には年齢に見合わないほどの泰然とした雰囲気があった。
だからきっと、ネリネは彼に対して敬語を使わずにはいられなかったのだ。
「……でも」
「姫様、俺は……」
ダリルは言いかけて、口を噤む。
何かひどく……次の言葉を発するのを、恐れているかのように。
その瞬間、ネリネはすぐに見て取った。
もはや誰にも見間違いようがないほどはっきりと、彼の表情には影が差していると――
「俺は到底、姫様に敬語を使われるに値するような者ではないんです。それどころか、本当だったら姫様の前に立つことさえ許されない身なのですから」
「え……?」
「俺は、親の顔を知りません。まともな人間なら誰も寄りつかないような貧民街で生まれ、育ちました」
「…………!?」
ダリルが今、口にした事実の、意味に。
その重みに、ネリネは思わず言葉を失う。
(どういうこと……?)
ラウステラ国の騎士達――それも普段は王宮に勤めている者達が皆、おしなべて貴族や騎士の家系の出身だというのは、ネリネでも知っていることだ。
貧民街に生まれて騎士になるなど、聞いたことがない。
ダリルの話が本当ならば、その経歴は異例中の異例として見なされるものだろう。
親の愛を知らず、貧民街で過ごし。
騎士となってからも、周囲が皆、恵まれた出自を持つ者ばかりの中にあって。
こうしてネリネの騎士になるまで、彼はいったい、どれほどの苦労を重ねてきたのか――
あまりの衝撃に言葉を失う、ネリネの前で。
儀式の時のようにダリルが膝をつき、ネリネに向かって頭を垂れたのは、その直後のことだった。
驚いて、ネリネは声を上げる。
「ダリル様……!?」
「何をしようと、卑しい生まれは決して変えられない。身の程知らずだと、わかっています。俺に本来、こんなことを願う資格など望むべくもないことも。……それでも、どうか」
――どうか。
その言葉が、これ以上ないくらいに痛切な響きとともに、ネリネの耳朶を打つ。
「……姫様。あなたにまた会うためなら、何にだって耐えられた。あなたはずっと、俺にとって唯一の光だったんです。だから、どうか」
そして、跪いたまま、彼は願った。
「どうか、姫様。――俺を、あなたの騎士として。お仕えすることを許していただけませんか」
「…………!」
ダリルの告白を。
その願いを聞かされた、その途端。
……胸が、いっぱいになる。
こんなにも強く、深く、誰かに想われたことが、これまでにあっただろうか。
それは、何か、抗いきれないほどに力強く、突き上げるような。
胸の奥深くからせり上がってくる衝動に、ネリネは居ても立ってもいられなくなる。
気づけば、ネリネもダリルと向かい合うようにして、膝をついていた。
愕然とするダリルのその手を、上から包むようにして握り込む。
「……卑しい生まれ、なんて、言わないでください。そんなふうに、自分のことを悪く言わないで。あなたは全然、卑しくなんかないです。身の程知らずなんかじゃない……。私は……あなたが私の騎士になってくれて、とても、とても……嬉しかったんです」
「姫様……」
「私の騎士になってくれて……、ありがとうございます」
心からの思いを込めて、ネリネは告げる。
「私からも、お願いします。私は、騎士になってくれるのなら、ダリル様……他の誰でもない、あなたがいい。だから……どうか。これから先、ずっと、私の騎士として。私のそばに、いてくれませんか?」
ネリネの手の中で、ダリルの手が大きく震える。
それから、彼が息を呑む音がした。
「……すみ、ません。…………」
ダリルは掠れかかった声でそう言うや、急いだ様子でネリネから顔を背けた。
そのただならない雰囲気に、ネリネは慌てて声を上げる。
「ダリル様……!?」
まさか、急に具合が悪くなってしまったのか。
焦ったネリネだったが、その心配はいらなかった。
すぐにダリルから返事があったからだ。
ただしその顔は、なおもネリネから背けたまま。
すみません、ともう一度繰り返して、彼は言う。
「今、たぶん俺は……あなたに見せられるような顔をしていないんです。頭がどうにかなりそうなくらい。……嬉しくて」
澄み切った神秘的な光を注ぐ、月の下。
ネリネの前で、ダリルは再び誓いの言葉を告げたのだった。
「お仕えします、姫様。たとえ何があろうとも、俺の剣も、この命も、すべてはあなたのために。俺の主は未来永劫、この世界でただ一人きり――あなただけだ。ネリネ姫様、今日この日から、俺はあなたに、絶対の忠誠を誓います」