第6章:想いを告げる -8
そしてついに、ネリネはその日を迎えていた。
一日の執務が終わった後。
ネリネは緊張に胸を高鳴らせながら扉の前に立っていた。
(いよいよだわ……)
この扉の先にあるのは、国王アーノルドの執務室だ。
窓辺に赤や橙の木の葉が舞い、秋も終わりを迎えつつある今日。
ネリネはついに、父王に報告し、許しを願う日を迎えていたのだった。
(ダリルを心から愛していること……、彼とともに生きていきたいと思っていること)
父王と会う約束を、もうずっと前から取り付けた。
父王の前に出たらどう話すか、今日までに何度も頭の中で練習した。
緊張は大きいが、ネリネは今、思いのほか落ち着いてこの時を迎えることができていた。
それはきっと、あの舞踏会の夜と同じ――隣にダリルがいてくれているからなのだろう。
「そろそろね。行きましょうか、ダリル」
「はい。……姫様」
見つめ合い、互いに心の準備が済んだことを確かめる。
ネリネは前に進み出て、扉を数度叩いてから、言った。
「お父様、ネリネです。今日は大事なお話があって来ました」
ややあって、お入り、と声がした。
部屋に入ると、壁の両側を埋め尽くす本にいつも圧倒される。手前には来訪客と話し込むためのソファとテーブル。その奥に執務を行うための机がある。
「来たか、ネリネ。ダリルも」
アーノルドは執務に一区切りをつけ、ソファで待っていてくれたらしかった。
そしてアーノルドの隣には――
「ネリネ。久しぶりね。元気にしていたかしら」
「お母様! お帰りになっていたのですね」
「ええ。ちょうどさっき帰ってきたばかりなのよ。外行きの格好のままでごめんなさいね」
「お帰りなさい、お母様」
ネリネは王妃オリヴィアと抱擁を交わし、互いに頬に唇を触れる。
今年は夏から秋にかけて、ラウステラ国の各地でいつもより多くの雨が降った。川が溢れ、家や田畑を流されて苦労している人々も多く、オリヴィアはここしばらくの間、被害の大きかった地方へ慰問の旅に出ていたのだった。
オリヴィアとの挨拶がすむと、アーノルドは空いていたソファを目で示しながら言った。
「さあ、座りなさい。お前達の話を聞こうじゃないか」
「失礼します」
勧められた位置に座り、居住まいを正す。
話し始める前に、ネリネはもう一度、心の中で自分に言い聞かせた。
(……大丈夫。ちゃんと、話せる)
隣に座ったダリルと視線を重ね、うなずき合う。
それから、アーノルドとオリヴィアにまっすぐに視線を向け、ネリネは口を開いた。
――目をそらさないで。前を見て。
「今日は、お父様とお母様に報告をしたくて来ました。――私は、ここにいる騎士のダリルを、愛しています。彼とともに、この先の未来を生きていきたいのです」
――言えた、と思った。
ネリネはきちんと、自分の思いを話すことができたのだ。
続いて、ダリルが告げる。
決意に満ちた彼の声が、部屋の中に凜と響いた。
「俺も、姫様を愛しています。誰よりも、心から。これまでは騎士として、姫様をお守りしてきました。けれどこれからは、姫様の……彼女の隣で。夫として、彼女をお支えしたいのです」
ダリルの言葉を聞きながら、今までにないくらいに、ネリネは心臓が激しく鼓動を打つのを感じていた。
二人で、意志を伝えた。
後はただ、アーノルド達からの答えを待つだけだ――
「まあ……」
オリヴィアが感嘆の声を上げながら、大きく目を見開いた。
アーノルドは黙ったまま、じっとネリネとダリルを見つめていた。その表情は穏やかで、驚いたような様子はない。
やがて。
そうか、と、噛みしめるように父王は言った。
「そうだったか」
「お父様……?」
「いや、もうずっと前から、いずれこうなるだろうと思っていたんだよ。お前達が互いに向ける眼差しは、誰の目にも、深い想いに溢れているように見えていたからね。私やオリヴィアだけではない、お前達を微笑ましく見守っていた者は多かったよ。あれはまさしく恋人に……愛する者に向ける眼差しだとね」
「み、見守り……? まさか、お二人とも気づいていらっしゃったのですか?」
「おや。誰にも気づかれていないとでも思っていたかね。私はいつお前達から話があるものかと、指折り数えて待っていたのだが。お前もそうだろう、オリヴィア」
「ええ。最近では、あなた達二人が仲よくしているところをこっそり見るのが、ひそかな楽しみだったのよ。ばれていなかったのならよかったわ」
にこにこと微笑む両親を、ネリネは愕然として見つめた。
みるみるうちに頬に熱が集まっていくのが、鏡を見なくてもわかる。
隣を見遣れば、ダリルも同じようにネリネに視線を向け、狼狽していた。
――もうとっくに、父にも母にもお見通しだったなんて。
(は、恥ずかしい……!)
しばらくして、アーノルドはダリルに向き直って、言った。
「さて、ダリル。この子の……ネリネの伴侶になるからには、もうわかっているね。きみは王配として、この子を助けていくことになる。歴史を遡って前例がないわけではないが、騎士の身分にある者が王女と結ばれるというのは、なかなかないことだ。その上、かつてのきみのこともある。多くの人がきみを祝福するだろうが、中にはきみを口汚く罵る者もいるだろう。それでも、きみはネリネとともに生きていきたいかい? きみを慕ってくれる者ばかりではなく、きみを嫌い、蔑む者をも含めて、この国を――この国の皆を、守り導いていくと誓えるかい?」
「誓います」
迷いなく、ダリルは答えた。
「この身をもって彼女とこの国を守ると誓います。生涯のすべてをかけて」
「……そうか」
アーノルドがゆっくりと目を閉じる。
やがて再びダリルに向けられたアーノルドの瞳には、優しい光が宿っていた。
「頼もしいな、きみは。見ていて、なぜだかとても眩しくなってくるほどだ。そうやって、きみは何度も困難を乗り越えてきたのだね」
「陛下……」
「任せたよ、ダリル。私の愛する娘を、どうかよろしく頼む」
「……! はい……!」
「ネリネ。お前は、本当によい青年と出会えたな。お前の幸せを、心から願っているよ」
「……お父様」
ネリネは呆然と、アーノルドを見つめた。
(お父様は、今、なんて……? 私達は、お父様達に認めてもらえたの……?)
ゆっくりと、父の言葉が胸に染み渡っていく。
ああ、と、思わず深いため息がこぼれ落ちた。
……どうしたらいいか、わからない。
こんなに嬉しくて幸せな気持ちを味わったのは、生まれて初めてだったからだ。
「ダリル……!」
喜びのあまりに、両親に見られているのさえ忘れて抱き合ってしまう。
抱きしめ合って、口づけまで交わして。
ようやく、アーノルドとオリヴィアの視線があることを思い出し、顔を真っ赤にして縮こまる。
それからしばらくの間ずっと、部屋には温かな笑い声が響き続けていた――
挨拶をすませ、父王の部屋を後にする頃には、あたりはすっかり暗くなっていた。
昼間は使用人や、王宮に用があって来た貴族達がひっきりなしに行き交う廊下も、今やしんと静まり返っていて、燭台の蝋燭の炎が明々と灯っているだけだ。
ネリネの前に出て手を差し出しながら、ダリルが言った。
「部屋までお送りします。行きましょう、姫様」
「ええ。ありがとう」
藍色の空から澄んだ月灯りの注ぐ、美しい夜だった。
手をつないだまま、しばらくの間言葉もなく、月の光に満ち満ちた廊下を歩いていく。あたりに誰の目もないことがわかると、もはや手を触れ合っただけではいられなくなった。身を寄せ合い、何か抗いようもない強い力に急き立てられてでもいるかのように、足取りは自然と速まっていく。
そうしてやっとネリネの部屋の扉までたどり着く頃には、もうそれ以上耐え続けることはできなくなっていた。
もつれ合うようにして扉を押し、二人で部屋の中に入る。
急いで扉を閉めるのと、深く唇を塞がれるのとは、ほとんど同時のことだった。
「あ……っ、ダリ、ル……、待っ――んぅっ……!」
夢中になって抱きしめ合い、口づけを重ねる。いつもより息が上がるのが早かったのは、互いに歯止めが利かなくなっているからなのだろうか。
これまではずっと、他人の目を気にして、ひそかに関係を続けていくほかなかった。
……けれど、今夜からは、違う。
ネリネの腰を抱き寄せたまま、ダリルが頬に触れてくる。そうして顔を傾けられたかと思うと、ネリネの唇の上に深く熱い口づけが落とされた。
肌が、熱い。
身体の一番奥深いところに火がつけられたかのように、熱くて熱くて仕方なかった。
「……っ、すまない、ネリネ。だが、もう――」
膝の下に手を差し入れられ、ふわりと抱き上げられる。
……これから何が起こるのかは、わかっていた。
今まで話に聞いたことしかなかった、口づけの続き。
まったく未知のことだ。けれど恐ろしさは少しも感じなかった。
むしろずっと、心から待ち望んでいたことだった。
銀色に揺らめく天蓋の、透き通ったカーテンの内側。月の光を帯びるベッドの上に、ネリネの身体がそっと横たえられる。
なめらかなシーツの肌触りが涼やかに背を包むのを感じながら、ネリネはゆっくりとベッドに沈んでいった。真っ白なベッドの上に、亜麻色の髪が花咲くように広がっていく。
「ダリル」
名を呼び、手を伸ばす。
ネリネの手は長い指先に絡め取られ、もう片方の手がネリネの頬に添えられた。唇に降りてきた口づけは身体の芯が震えるほどの熱を宿し、うっすらと瞼を上げれば、熱情の灯った赤い瞳に呼吸を乱され、胸を灼かれる。
「愛しているわ。あなたのことが、大好き。これからもずっと……」
ほのかな月灯りが、窓辺を白々と照らしている。
ひそやかな吐息をこぼし、両手を伸ばして、広く大きな背中を抱きしめて。
ネリネは深く優しい夜の底に身を委ねた。




