第1話 師匠の黒瀬伊織
忍びは、誰のために人を殺すのか。
主君のためか。
国のためか。
それとも、金のためか。
鴉羽朔は八年前、師匠の黒瀬伊織に同じ質問をしたことがある。
当時、朔は十六歳だった。
忍びの修行を始めて間もなく、初めて人を殺すための技を教わった日のことである。
『師匠。それがしらは、いずれ人を殺さねばならぬのでござるか』
伊織は木刀を置き、少年の顔を見た。
『その日が来るかもしれぬ』
『それがしは、人を殺しとうござらぬ』
『ならば、殺さずに済む道を探せ』
『忍びなのに、でござるか』
『そうだ』
伊織は静かに答えた。
『忍びとは、人を殺すためだけにあるのではない。戦が始まる前に敵の動きを知り、城が落ちる前に味方へ知らせ、無用な戦を避ける。それも忍務だ』
朔はその言葉を聞いて、少し安心した。
『では、師匠は人を殺したことがないのでござるか』
伊織は答えなかった。
ただ、しばらくしてこう言った。
『朔。いつか、おぬしにも分かる日が来よう』
『何がでござる』
『人を殺すことよりも、人を殺せと命じることのほうが、恐ろしい場合もあるということだ』
その言葉の意味を、朔は理解できなかった。
八年後。
二十四歳になった朔は、初めてその意味を知ることになる。
自分を殺せと命じた者が、ほかならぬ師匠だったからである。
西の宿場町、八重市。
そこは三つの街道が交わる、大きな商いの町だった。
東からは米と塩。
北からは鉄と馬。
南からは魚と薬草。
さまざまな品が集まり、行き交う商人たちの声が絶えることはない。
もっとも、近頃の八重市には、商人以外の者も増えていた。
戦で家を失った百姓。
仕える主君を失った浪人。
故郷を捨て、仕事を求めて流れてきた者たちである。
町外れには粗末な小屋が立ち並び、幼い子供を連れた女たちが食べ物を求めていた。
鴉羽朔は、そんな人々の中に紛れて歩いていた。
背中には炭俵。
頭には古びた笠。
顔には炭の粉を塗り、髪も無造作に結んである。
どこから見ても、山から炭を売りに来た若者だった。
その後ろを、日向与七と梔子が歩いている。
与七は右肩を痛めていたため、腕を布で吊っていた。梔子はいつもの薬売り姿で、背中に木箱を背負っている。
「……腹が減った」
与七がつぶやいた。
「またでござるか」
朔は振り返った。
「昨日から何も食うておらぬではないか」
「それがしも同じにござる」
「おぬしは炭俵でもかじっておれ」
「それでは腹を壊してしまう」
「ならば、腹を壊す前に飯を探せ」
与七は不機嫌そうに言った。
朔は苦笑した。
つい数日前まで、二人は同じ影綱の忍びとして働いていた。
今では二人とも、組織から命を狙われる逃亡者である。
それでも、腹は減る。
身体が痛む。
眠くもなる。
忍びといえども、人間だった。
「お二人とも、お静かに」
先頭の梔子が振り返った。
「ここは宿場町です。影綱の者が紛れているかもしれません」
「承知しております」
朔は周囲を見渡した。
町は賑わっていた。
荷車を押す商人。
酒屋の前で喧嘩をする浪人。
魚を売る女。
子供を背負った百姓。
誰もが普通の人間に見える。
しかし、その中に影綱の忍びが潜んでいる可能性は十分にあった。
朔自身も、これまで幾度となく商人に化けて町へ入り込んできたのだから。
「梔子殿。どちらへ向かうのでござる」
「知り合いの薬師がおります」
「信用できる者でござるか」
「私にとっては」
朔は眉をひそめた。
「それがしらにとっては?」
「さあ。どうでしょう」
梔子は微笑んだ。
朔はため息をついた。
この女は、いつも肝心なことを教えない。
密書の朱印についても。
霞ヶ城へ自分の名を使って密書を届けた人物についても。
そして、梔子自身の正体についても。
彼女は知っていることの一部しか話さなかった。
それでも、二人を助けてくれたことは事実である。
今は頼るほかなかった。
つづく




