第1話 密書を運ぶ仕事
戦国の世に生まれた男には、大きく分けて三つの生き方がある。
刀を持って主君に仕える武士。
鍬を持って田畑を耕す百姓。
そして、誰にも知られず、人の命令を運ぶ忍びである。
もっとも、忍びというものは世間で思われているほど華々しい仕事ではない。
闇夜に紛れて敵将の首を取る。
城壁を飛び越え、百人の敵を一人で斬り伏せる。
そんな芸当ができる忍びは、ほんの一握りだ。
大半の忍びは、敵の城下町で商人に化け、茶屋で噂話を聞き、時には百姓に混じって畑を耕す。
そして誰にも気づかれぬよう、密書を運ぶ。
それが自分の仕事だった。
鴉羽朔、二十四歳。
忍びの組織「影綱」に属する下忍である。
剣の腕前は並。
手裏剣もそれほど得意ではない。
ただ、人の顔を覚えること、道を記憶すること、そして誰かに化けることだけは、仲間内でも評判がよかった。
そんな朔の一日は、夜明け前から始まる。
「朔! いつまで寝ておる!」
障子の向こうから怒鳴り声が聞こえた。
朔は薄い布団の中で目を開けた。
「……もう朝でござるか」
「鶏が三度も鳴いたわ!」
「それは鶏がせっかちなのでござろう」
「たわけ! 早う起きぬか!」
怒鳴っているのは、同じ影綱に属する年配の忍び、権六である。
朔は起き上がると、部屋の隅に置かれた水桶で顔を洗った。
鏡代わりの磨いた銅板には、寝癖のついた若い男の顔が映っていた。
特に目立つ顔立ちではない。
鼻が高いわけでもなく、目つきが鋭いわけでもない。
頬には小さな傷が一本あるが、武士のような迫力もなかった。
だが、その平凡な容姿こそが朔の武器だった。
人混みに紛れれば、すぐに忘れられる。
旅の商人に化ければ商人に見え、寺男に化ければ寺男に見える。
忍びにとって、覚えられない顔は何よりの財産だった。
朔は着物を整え、腰に小刀を差した。
黒装束ではない。
くすんだ茶色の木綿の着物に、古びた草鞋。
腰には銭袋と小さな道具袋。
どこから見ても、ありふれた旅人だった。
台所へ行くと、権六が囲炉裏の前に座っていた。
台所へ行くと、権六が囲炉裏の前に座っていた。
「遅い」
「まだ日も昇っておらぬではありませんか」
「忍びは日の出を待って動くものではない」
「承知しております」
「ならば早う飯を食え」
膳の上には麦飯と味噌汁、漬物が少々。
肉も魚もない。
影綱の下忍に与えられる食事は、いつもこんなものだった。
朔は箸を取った。
「権六殿」
「何じゃ」
「本日は魚など出ませぬか」
「出ぬ」
「昨日も出ませなんだ」
「一昨日も出ておらぬ」
「それでは明日は?」
「出ぬ」
朔は深くため息をついた。
「忍びとは、まことに腹の減る稼業でござるな」
権六は鼻で笑った。
「飯が食えるだけありがたいと思え。戦場では、その麦飯一杯を奪い合っておる」
朔は黙って箸を動かした。
戦国の世では、飯が食えるというだけで恵まれている。
そのことは十分に理解していた。
それでも、たまには魚くらい食いたい。
そう思うことまで禁じられているわけではなかった。
朝食を済ませると、朔は屋敷の裏庭へ向かった。
そこでは十人ほどの若い忍びたちが、木刀を手に稽古をしていた。
影綱の修行場である。
「朔!」
声をかけてきたのは蓮だった。
二十五歳。
朔より一つ年上で、幼い頃から同じ師匠の下で修行してきた男である。
長身で身体の動きが軽く、剣術は影綱の若手でも指折りの腕前だった。
「また寝坊か」
「寝坊ではない。十分に眠っただけでござる」
「同じことだ」
蓮は木刀を一本放ってよこした。
「一太刀、付き合え」
「朝飯を食べたばかりでござるぞ」
「ちょうどよい。腹が重いほうが稽古になる」
「どういう理屈じゃ」
朔は渋々木刀を構えた。
蓮が正面に立つ。
次の瞬間、木刀が鋭く振り下ろされた。
朔はどうにか受けた。
だが二撃目で体勢を崩され、三撃目には木刀を弾き飛ばされた。
カラン。
木刀が地面に転がった。
「……参った」
「相変わらず弱いな」
「それがしは、力で勝負する忍びではござらぬ」
「敵にそう言えば斬られずに済むのか?」
「できれば、そういう敵に出会いたいものでござる」
周囲の若い忍びたちが笑った。
蓮は呆れたように木刀を拾い上げた。
「おぬし、本当に忍びに向いているのか?」
「少なくとも、おぬしよりは顔を覚えるのが得意でござる」
「顔など覚えて何になる」
「昨日、城下で見た女が今日も同じ道を歩いておれば、何かあると気づける」
「ただの通りすがりかもしれぬぞ」
「ならば、それを確かめればよい」
蓮は肩をすくめた。
「面倒な男だ」
朔は落ちた木刀を拾いながら笑った。
幼い頃から、このやり取りを何度繰り返しただろう。
蓮は剣で敵を倒す。
朔は敵に見つからぬように動く。
同じ忍びでも、得意とする仕事はまるで違った。
だが互いの腕を認めているからこそ、二人は今まで生き残ってこられた。
そのとき、庭の奥から低い声が響いた。
「朔。蓮。そこまでだ」
二人は同時に振り返った。
黒瀬伊織が立っていた。
四十七歳。
影綱の中忍頭であり、二人の師匠である。
右頬に古い刀傷を持つ、無口な男だった。
「朔。おぬしに仕事がある」
「承知いたしました」
「城下の呉服商、近江屋へ行け。店の主人から帳面を一冊預かり、北の宿場にいる紀州の商人へ届けよ」
朔はうなずいた。
いつもの仕事である。
影綱の忍びは、表向きは商人や職人として暮らしている。
呉服商、薬売り、寺の僧、旅芸人。
その中には単なる協力者もいれば、影綱の正式な忍びもいる。
互いの正体をすべて把握している者は少ない。
仕事を知らなければ、敵に捕まっても口を割りようがないからだ。
「帳面には何が記されているのでござるか」
「おぬしが知る必要はない」
「承知いたしました」
「合言葉は『今年の蚕はよく育つ』。
相手が『桑の葉が足りませぬ』と返したら渡せ」
「心得ました」
「ただし、道中で帳面を盗まれるな」
「それは当然でござる」
伊織は少しだけ眉を動かした。
「三月前、銭袋を盗まれたのは誰だったか」
蓮が吹き出した。
朔は渋い顔をした。
「……あれは油断いたしました」
「二度と油断するな」
「承知いたしました」
伊織はそれ以上何も言わなかった。
朔は頭を下げ、修行場をあとにした。
今日もまた、ありふれた密書運びが始まる。
つづく




