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第95話 呼び出し

16.


「リオ、大丈夫?」


 マルセリスに声をかけられて、リオはハッと我に返る。

 慌てて顔を上げると、半ば訝しげな半ば心配そうなマルセリスの表情が視界に入る。


「申し訳ございません」


 リオは慌てて、手元の資料と文献に意識を戻した。


 

 学府に着いてから数日経つ。

 マルセリスは学長のクレオに、リオを面談してくれるよう頼んだが、返答はまだない。


「お忙しいうえに、気まぐれなかただから」


 マルセリスは済まなそうにそう言った。

 クレオからの返答を待つ時間を有効に使ったほうがいい、ということで、リオはマルセリスから基礎学力を学ぶことと引き換えに、講義や研究のための調べものや資料の整理を手伝うことになった。

 一日の大半を学内の広大な書庫か、マルセリスの書斎で過ごしている。

 一方でレニは、コウマの商売に付き合って街に出かけることが多かった。



 再び資料を調べ出したリオをしばらく眺めた後、マルセリスは言った。


「まだ、レニと喧嘩しているの?」


 リオは手を止めて、俯いたまま呟く。


「喧嘩など……。私は……」


 マルセリスはリオが言いたげな「自分はレニの従者に過ぎない」という言葉を受け流し、言葉を継いだ。


「レニはね、思考が真っすぐなの。昔からそうだったわ」


 マルセリスの優しい光を帯びた茶色の瞳に、やや暗い翳りが射す。


「宮廷で誰かと争うなんて、本当は全然向いていないのよ。良かった、レニが外に出られて」


 それに。

 と、マルセリスは明るい笑顔をリオに向けた。


「リオみたいな人と一緒になれて」


 マルセリスの言葉に、リオは顔を下に向けたまま言った。


「レニさまは……そうは思われておられません」

「そんなことないわ」


 マルセリスは簡単な口調で言ったが、リオが何も答えないのを見て再び口を開いた。


「レニは、リオのことをとても大切に思っている。見ていればわかるわ」

「私にはわかりません。レニさまのお気持ちが」


 リオは開いたページの上で、白い手を握りしめた。

 マルセリスはその手をジッと見つめていたが、やがて言った。


「リオ、あなたはレニの気持ちはちゃんとわかっている」


 驚いたように顔を上げたリオの瞳を、マルセリスは真っすぐ見つめた。


「あなたは聡明な人だもの。レニのこともあなた自身のこともちゃんとわかっている。ただきっと、少し勇気が足りないのね」


 マルセリスは少し口を閉ざしてから、後悔したような口調で言った。


「ごめんなさい。知ったようなことを言って」

「いえ……」


 マルセリスはまた机の上の文献に視線を戻した。

 リオもそれ以上は何も言わず、黙って手元の本のページをめくる。

 しばらくの間、室内で聞こえるのは、二人がページをめくる音、資料を扱う音、たまにペンを走らせる音だけとなった。

 開けられた窓の外から柔らかい陽射しが射し込み、冬の割には温かい空気が室内に流れ込む。


(リオ、あなたはレニの気持ちはちゃんとわかっている)


 リオの心の中に、自然と先ほどのマルセリスの言葉が浮かび上がる。


 そうだ、自分はレニの気持ちがわかっている。

 レニはこの旅のあいだ、常に真っすぐにそのままの心を届けようとしてくれていた。

 身分というしがらみから解放された、ただのレニとして。


 だが、自分は。

 

 リオはページをめくる手を止める。

 静かな空間にいると、普段はことさら目を向けないようにしている自分の心が、形あるものとして目の前に現れる。


 レニの側にずっといる今でさえ、そのしがらみから逃れることが出来ない。心は宮廷という豪奢な牢獄に囚われたままだ。

 その扉をレニが開けてくれたのに、なおもその片隅にうずくまって、レニが手を取ってそこから連れ出してくれないかと期待している。


 このままの状態でレニの側にいれるならそれでいい。

 本当にそうなのか?

 そうではないから、学府に来たのではないか。

 今以上の『何か』を望んでいるから……。



 不意に静かな室内に、来客を知らせるベルの音が響き渡り、リオの思考を断ち切った。

 マルセリスは立ち上がると、室外とつながっている伝声管のほうへ歩み寄る。

 室外の人間とのやり取りを終えると、マルセリスはリオのほうを振り返った。その顔には戸惑いと困惑が浮かんでいた。


「リオ、急だけれどクレオ導師が今からあなたに会いたいそうよ」


 マルセリスの言葉に、リオは無言のまま青い瞳を大きく見開いた。



17.


 二人は部屋を出ると、学生寮から渡り廊下を通り、敷地の中で一番奥まったところにある研究棟へ向かった。


 明るく開放的な学生寮と比べると、研究棟は閉鎖された秘密めいた雰囲気がある。建物の中を移動しているだけなのに、深い穴の中にもぐっていくような奇妙な感覚があった。

「神々の遺跡」と呼ばれる、ザンム鋼によって作られている建物のため、作りがまるで違うのに王宮とどこか似た雰囲気がある。

 壁や床は全て滑らかに研磨された青みがかった鉱物で作られており、光が届かない場所ではほの明るく発光している。


 マルセリスは三階の一番奥まった部屋の前で足を止めた。

 他の部屋と何ら変わりのない簡素な木の扉の横に、「在席」と記された札がかかっている。


「クレオ学長、マルセリスです。入学を推薦したい者をお連れしました」


 マルセリスが扉をノックし、部屋の中に声をかける。

 しばらくの沈黙の後、「入れ」というひどく不機嫌そうな男の声が中から響いた。


 マルセリスは「失礼します」と断ると、木の扉を開けた。

★次回

第96話「学長クレオ」

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