第94話 すれ違う二人。
15.
マルセリスが自室に戻った後も、リオは居間に残って一人で考えこんでいた。
(あなたの心はきっと、もっと多くのものを望んでいる)
先ほどの会話の中で、マルセリスに言われた言葉が耳の奥に甦る。
穏やかで聡明な眼差しは、リオの心の内を見透かしているようだった。
(ただレニに付いて行きたいのではなく……)
「学府に行こう」と言い出したのは、レニだった。リオが本や学問に興味を持っているのを見て、ここまで連れて来てくれた。
自分はレニに手を引いてもらい、その後に従って来ただけに過ぎない。
学府に来たらどうするつもりだったのか。
本当に学府に入り、その一員となるつもりだったのか。
ソフィスに後押ししてもらい、マルセリスに誘ってもらった今でも、リオには自分の気持ちがよくわからなかった。
何かを望み、その望みについて考える。
それはリオにとっては、生まれた時から禁忌とされてきたことだった。
(リオ、ゆっくり考えてみて)
(学府のこと、世界のこと、旅のこと、あなた自身のこと)
(そしてレニのことも)
(心が動くままに)
その時、遠慮がちに居間の扉を開けようとする気配を感じ取って、リオは顔を上げた。
扉の隙間からレニが、辺りを伺うように顔を覗かせていた。室内にリオ一人しかいないことを見て取ると、怪訝そうな顔になる。
「マールは?」
「部屋にお戻りになられました」
リオは優美な仕草で椅子から立ち上がると、扉を開いて、レニを室内に招き入れた。
「レニさま、こちらへ」
所在無げに立ちすくんでいるレニを、リオは長椅子に掛けさせた。
赤い髪がまだ湿っていることを目ざとく見てとる。リオはすぐに乾いた布を持ってきて、レニの頭を壊れ物を扱うように丁寧に拭きだした。
「リ、リオ、いいよ。後で拭くから」
慌てたようなレニの言葉に、リオは手を止めずに答える。
「レニさまのお世話をすることが、私の役目ですから」
リオは、自分にとっての大切なものを、部屋の片隅にさりげなく置くように付け加えた。
「この先も……ずっと」
「そんなことないよ。リオは学府の人になるんだから」
レニはリオの言葉に込められたものに気付かず、反射的にそう言った。
レニの赤い髪をふくリオの手の動きが緩慢になり、やがて完全に止まる。
「リオ……?」
レニは驚いて背後を振り返ろうとしたが、頭に手を当てられているために動くことが出来なかった。
そのままの姿勢でジッとしていると、頭に被せられた布越しに、リオの囁く声が聞こえてくる。
「もし、私がここに、学府に残ったら……レニさまは、どうされるのですか?」
「え……」
戸惑うように呟いたレニの頭を包む布に、リオは微かに唇を触れさせる。
「お一人で……旅を続けられるのですか?」
ここに私を置いて……。
布に当てられた唇が伝えてきた言葉を聞いた瞬間、レニは息を飲んだ。
戸惑ったように黙り込み、頭から被せられた布の中で、身を縮こまらせるように下を向く。
「そ、その、リオが学府に残るなら……」
「残るなら?」
吐息と間違うような微かな声音が、髪を震わせる。
レニは落ち着かないように身じろぎしながら、小さな声で言った。
「しばらくは、いようかな」
「しばらくは?」
リオの声音に含まれる何かが、レニの口をつぐませた。
「レニさまは」
リオは感情が抜け落ちた、虚ろな声で呟いた。
「最初から、私をここに残して、お一人で旅立たれるつもりだったのですか?」
「えっ……」
強く肩を掴まれて、レニは困惑したように口の中で呟いた。
「だ、だって、リオは勉強が好きなんだし……入れるなら絶対に学府に入ったほうがいいよ。私は色んなところを旅をして、たまにここに帰ってきて、外の世界で見てきたことをリオやマールに話すよ。東方世界とか南方世界にも行ってさ、いっぱいお土産話を持ち帰るよ」
レニは気を引き立てるように、明るい声でそう言ってリオのほうを振り返ろうとした。
その瞬間。
不意に強い力で、後ろに引き寄せられた。
気が付くとレニは、リオの胸の中で固く抱き締められていた。
「リオ、どうしたの?」
自分を抱くリオの腕が僅かに震えていることに気付いて、レニは驚いて声を上げる。
レニの問いには答えず、リオはレニの耳元に唇を寄せて囁いた。
「レニさま……それはご命令ですか?」
「命令? 命令なんかじゃないよっ」
レニは慌てて言った。
「自由に、リオの生きたいように生きていいんだよ。私に仕えるとか……そんなことは考えなくていいよ。私はもう皇帝じゃなくなったし、リオは私の従者じゃないんだから。リオはリオの人生を……」
「モノではないのなら」
リオは強い口調でレニの言葉を遮った。
「私は、レニさまにとって何なのですか?」
思いもかけないことを問われたかのように絶句するレニの小柄な体を、リオはすがりつくように抱き締める。
そのまま震えを帯びた、消え入りそうな声で呟いた。
「レニさまは……私のことが邪魔なのでしょうか?」
「えっ……? ちっ、ちがっ……!」
慌てたようなレニの言葉を耳に入れず、リオは言葉を続ける。
「旅をしていて、私が足手まといだと思われたのですか」
「違う……違うよ、リオ!」
「なら何故……っ」
俺を置いていこうとするんだ。
心に直接届いた苦悩に染まった少年の声に、レニは瞳を大きく見開く。
リオの腕からゆっくりと力が抜け落ちていった。
リオはレニの体を放すと、顔を背けるようにして椅子から立ち上がる。
「申し訳ございません、レニさま。分をわきまえないことを申し上げました」
リオはレニの体にまとわりつく布を手に取ると、丁寧にたたみ、貴人に対する礼をする。
「レニさまが学府に残れとおっしゃるなら……残ります。マルセリスさまからも、助手としてでもいいから残って欲しいとお言葉をいただいておりますので」
「リオ、あっ、あのね……私は」
「レニさま」
リオは、レニの言葉を封ずるように、感情のこもらない儀礼的な口調で言った。
「今夜は下がらせていただいてよろしいですか」
リオは退出の礼をすると、レニの返事を待たずに部屋に引き下がった。
★次回
第95話「呼び出し」




