第90話 これまでのことを聞かせて・1
9.
「学長?」
マルセリスの言葉に、レニとリオは驚いて声を上げる。
「そんなに偉い人だったんだ」
「クレオ学長には私から話をしてもいいけれど」
マルセリスは言葉を途切らせて、すっかり暗くなった窓の外に視線を向ける。
それから口調を改めて言った。
「どちらにしろ今日はもう遅いから、明日になってからね。今日は、これからどうするつもりだったの?」
マルセリスの問いに、コウマが行儀の悪い体勢のまま答えた。
「まだ今日の宿は決めてねえんだ。これから探さねえとな」
ちょうどいいわ、とマルセリスは明るい笑いを浮かべた。
「私の部屋に客室がついているから、そこに泊まったら?」
「いいのかよ? 外からの客を泊めても」
コウマの言葉に、マルセリスは微笑む。
「研究会や講義のために、外から人に来てもらうなんてしょっちゅうなのよ。好きなだけゆっくりしていって。レニと会うのは十年ぶりだもの」
話したいことがたくさんあるわ、と言いながら、マルセリスはレニに茶色の瞳を向ける。
その視線の中に「後でちゃんと事情を説明してね」という言外の意味が込められているのを感じとり、レニは小柄な体をますます小さく縮めた。
10.
街で夕食を食べたあと、コウマは「ちょっと外すわ」とあっさりした口調で言い置いて学府とは反対の賑やかな方向へ足を向けた。
「どこに行くの?」
「命の洗濯だよ」
「命の……洗濯?」
不思議そうに首を傾げるレニの額を、コウマは指で弾く。
「いっ! った、あ」
「お前みたいなお子さまには、関係ねえところだよ」
「もうっ、何なんだよ、一体!」
雑踏の中に消えていくコウマの後ろ姿を、レニは頬を膨らませて見送る。
「命の洗濯って何だろう? 一緒に連れて行ってくれたっていいのに」
歩きながらぼやくレニの手を、不意に隣りを歩いているリオが捕らえた。
驚いてレニがそちらを向くと、フードの陰からのぞくリオの精巧な人形めいた横顔に固い表情が浮かんでいる。
「ど、どうしたの? リオ」
リオは前を歩くマルセリスが後ろに注意を払っていないことを確認すると、レニの手を引き、その耳朶に唇を寄せる。
「レニさま、レニさまのお世話は私がいたします」
囁きと共に、リオの形のいい唇がレニの小さな耳を弄ぶように撫で、転がす。
「外の者など必要ございません。私がレニさまが望まれることを……全ていたしますので」
「えっ……あ、あ、う、うん」
言われている意味はわからないが、控えめな言葉とは裏腹のリオの意思の強さを感じさせる口調と、耳朶を撫でるように動く唇の感触の心地よさが、レニの言葉を封じた。
顔を赤くして俯くレニの姿を、リオはしばらく見つめていたが、もう一度自分の意思を示すかのように、小さな手を握る力を強めた。
11.
学府の中でマルセリスに与えられている居住空間は、一般の学生とはかけ離れた待遇ではある。だが、前女帝であり現在の王妃であるエウレニア・ソル・グラーシアの従姉である元公女が住まう場所としては、信じられないほど質素だった。
趣味が良く実用的な調度が揃えられた広めの居間と続き部屋となっている書斎、寝室、他には小さな客室が二つついているだけだ。
身の回りの世話をする者は置いておらず、他の学生と同じように寮の使用人や小間使いに雑用はしてもらっている。
「ご不便はございませんか?」
王宮での贅を尽くした生活に慣れているリオが思わず口にした言葉に、マルセリスは笑って答えた。
「もう十年もこういう生活をしているもの。今だったら、きっと宮廷生活のほうが不便に感じるわ」
「てすが、レニさまのお従姉君でもある公女さまともあろうかたが……」
「その従妹の元女帝は、家出してここまで来ちゃったけどね」
マルセリスは悪戯っぽく笑い、レニのほうに瞳を向けた。
その表情がにわかに固く、真剣なものになる。
マルセリスは口調を改めて、従妹に尋ねた。
「レニ、リオと二人で旅をしている、って言ってたけれど、王宮を抜け出してきたの?」
レニは黙ったまま、小さく頷いた。
マルセリスはレニを見つめたまま、再び口を開く。
「国王陛下は……イリアス様はご存知なの?」
レニは顔を上げた。
「陛下は、私が王宮の外に出て旅をしたい、って言ったら許して下さったんだ。国のために十分尽くしてくれた、残りの人生は自由に生きてくれっておっしゃっていた」
レニが夫であるイリアスの名前を出した時、隣りに座っているリオの表情がわずかに強張った。
マルセリスはそんなリオの様子を注意深い眼差しで捕らえたが、口に出しては何も言わなかった。
★次回
第91話「これまでのことを聞かせて・2」




