第89話 クレオというかたは、いますか?
コウマは、この世慣れたふてぶてしい若い商人にしてはひどく珍しいことに、何をどうしていいかわからないといった様子で、ただ呆然としてマルセリスの顔を眺めた。
「し、信じらねえ。ルグヴィアの公女さまっていやあ、ザンムル皇国の初代皇帝の妹が母親で、二代目の女帝だった今の王妃さまと従姉妹同士。その公女さまに、こんなところで会うなんざ……」
ぎこちない仕草で貴人への礼をしようとしたコウマを、マルセリスは押し留めた。
「確かに私は、元々はルグヴィアの公女として生まれたわ。でももう十年以上、ここで学生として生きている。たぶんこの後も、一生学府で過ごすことになると思う」
マルセリスは、平板な淡々とした口調で言葉を続けた。
「コウマ、あなたは色々なところを旅しているみたいだから、ルグヴィアがどんな状態かも知っているでしょう?」
「あ、ああ」
コウマはまだどういった態度を取るべきか悩んでいるような顔をしながらも、とりあえず、といった様子で頷く。
「ルグヴィアは二十年くらい前にグラーシア将軍に滅ぼされちまって、今は空き家みたいなもんだ、っつうのは知っている。お上がいねえから、ルグヴィア領内はほとんど無法地帯だ。危なくって仕方がねえから、気の効いた奴なら避けて通るぜ」
コウマの言葉を聞くと、マルセリスは一瞬、表情を暗く陰らせた。だがすぐに、元の穏やかな顔つきに戻る。
「周りの国が取り分で揉めているから形としては残っているけれど、ルグヴィアは、私が生まれる前、グラーシア将軍に侵略された時に滅んでしまったの。私もルグヴィアの公女だということは忘れて学府で一生を過ごすから、生かしてもらえているに過ぎない」
だからね、とマルセリスは笑った。
「公女だっていうことは、忘れてもらえると嬉しいわ。ここでは、ただの学生のマルセリスだし」
コウマはマルセリスの真意を探るように、その姿をジロジロと眺めた。
「んじゃ、公女さまって呼ばなくてもいいのかよ?」
「ここじゃあ、誰もそんな風に呼ばないわ」
「まっ、そのほうがありがたいけどな。こちとら、宮廷作法なんて全然わかんねえからな」
コウマは肩をすくめる。
普段の調子を取り戻し、遠慮のない口調で言った。
「しっかし、公女さまや王女さまなんてえのは、さぞかしお高くとまったつまんねえ女だろうと思っていたけど、あんたを見ると、少し考えを改めねえといけねえかもな」
「そう言ってくれると嬉しいわ」
マルセリスは、悪戯っぽい視線をレニに投げながら言った。
「皇帝や王さまだって、実際に会ってみたら意外と気が合うかもしれないわよ。色々な人がいるのは、どんな場所でも同じだから。案外、近くにいるかもしれないし」
「そうそう王さまだの公女さまだのに行き会うとも思えねえけどな」
慌てたようなレニの様子には気づかずに、コウマは気のない風に答える。
それから何かに思い当たったかのように、レニのほうに視線を走らせた。
「それにしてもレニ、お前、何だって公女さまと知り合いなんだよ?」
レニが自分の身の上話として話した「爵位のない田舎貴族の娘」では、王国を形成する六つの公国のひとつルグヴィアの公女とは余りにも身分の差が大きい。
「そ、それは……」
レニが言葉に詰まっているのを見ると、マルセリスがにこやかな笑顔をコウマのほうへ向けて口を開いた。
「レニの叔母さまがね、私のお母さまのお気に入りの侍女だったの。ルグヴィアが滅んだあと、王都で寂しい暮らしをしていた私のために、遊び相手としてレニを呼び寄せてくれたのよ」
マルセリスの口調も表情も自然で、作り物めいたものは一切含まれていない。それが作り話である、と百も承知のはずのレニでさえ、一瞬信じてしまいそうになるほどだった。
「なるほどねえ」
コウマは疑う様子も見せず、納得したように頷く。
「お貴族さまも、意外と地味な暮らしをしているんだな」
「華やかな暮らしが出来るのは、権力がある時だけよ。没落した後なんて、貴族じゃない人と生活は大して変わらないわ。むしろ利用しようとする人もいるから、厄介なくらい」
マルセリスの表情は穏やかなままだったが、言葉には僅かに皮肉がこもっていた。その皮肉は公女という身分が、今や身を縛る重荷にしかなっていないマルセリス自身の境遇に向けられていることに気付いて、コウマは感心したようにその顔を眺める。
「リオ、ソフィスの爺さんの知り合いの何とかって奴のこと、公女さまに聞いてみたらどうだ?」
「『何とかって奴』?」
すっかり砕けた様子になったコウマの言葉に、マルセリスは怪訝そうな表情になった。立ったまま控えているリオのほうへ視線を向ける。
リオは青い瞳をマルセリスのほうへ向けた。
「ここに来る途中で知り合った学府出身のかたが、学府に着いたらクレオ、というかたを頼るといいと紹介して下さったのです。何でも紹介して下さったソフィスさまは、学府にいた時、クレオさまの同窓だったそうで」
「クレオ?」
マルセリスは茶色の瞳を驚きで軽く見張った。
「はい。クレオさま、というかたは今もいらっしゃるでしょうか? 学府にずっと残り続けることは難しい、と聞きましたが」
「いるも何も……」
まだ驚きから覚めない表情をリオに向けて、マルセリスは言葉を続ける。
「いま学府には、クレオという名前のかたは一人しかいらっしゃらないわ。ソフィスという人の知り合いのクレオさまと同じかたかはわからないけれど……」
「ソフィスは七十歳くらいの人で、学府に少なくとも五年はいたんだよ。ええと、『学問の徒の証』だっけ? 青いスカーフをつけていたんだ」
横から挟まれたレニの言葉に、マルセリスは考え込むのように呟く。
「七十歳くらいのかた。年齢は同じくらいだけれど」
マルセリスは顔を上げて、レニとリオの顔を交互に見つめる。
「今の学府には、クレオという名前のかたが一人だけいらっしゃるわ。導師クレオ」
マルセリスは一瞬躊躇ってから、言葉を続けた。
「今の学府の学長よ」
★次回
第90話「これまでのことを聞かせて・1」




