第26話『Morning Routine』慌ただしい朝
ここへ戻ってきてから、玲音は実にのんびりした生活を送っていた。
ゆっくりとベッドから足を下ろすといつものように真っ先にカーテンをオープンさせ、まぶしい朝日に目を細める。
「やべぇ……ニート生活が心地よくなってやがる」
日本では人並みに、目覚ましを止める事から始まるバタバタした朝と戦っていた。
ここに比べればずいぶんとこじんまりした部屋から出社し、一端のビジネスマン気取りで、日本社会に馴染もうとしていたが、ここに戻ればカーテンさえも、スイッチひとつ指一本の便利すぎる生活に舞い戻ってしまう。
「なまっちまうよな……なら、今日からトレーニングメニューを再開するか!」
顔を洗ってから部屋を出て、階下に向かう。
踊り場に差し掛かった辺りで、芳醇なコーヒーの香りが漂ってきた。
「あれ? アイツ、今朝も行ったのか? 確か昨日の朝も……」
そう呟きながら、先にキッチンに立ち寄る。
コーヒーミルの中に挽きたての豆が入っているが、その豆を挽いた本人はいない。
淹れたコーヒーに、チーズを挟んだベーグルを焼いて無駄に広いダイニングテーブルで簡単に朝食を済ませると、玲音はその場でパソコンを開いた。
ふと視野に門扉の解錠ランプが映る。
「お帰りか。ご苦労さんだな」
ほどなくして、勝手口がガチャリと開いた。
「おかえり。今日も早えぇなぁ。今朝はどこのオーナーと一緒だったんだ?」
頭の先からつま先までジョギングスタイルの有紗が、大きく肩で息をしながら入ってくる。
「あらおはよう、起きてたのね。今朝は『BERNHARD』の広報担当者の女性とね」
「へぇ、furniture shopも押さえにかかってんのか? なるほど、雑誌にはインテリアも必要って訳だな。頭が下がるねぇ」
汗を拭きながら、有紗は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、その場でカリッと開けた。
「朝からよく喋るわね」
玲音を一瞥すると、大きく息をついてそのまま二階に上がっていく。
途中でペットボトルを呷る有紗の後ろ姿を見て、玲音は苦笑いしながら肩をすくめた。
「ご機嫌斜めだな。ありゃ、たいして収穫がなかったか……仕方ねぇな、また話を聞いてやるとしよう」
ほどなくして、髪を濡らしたままルームウェアに身を包んだ有紗が階段を下りてきた。
冷蔵庫からスムージーを取り出しながら玲音をじっと見つめる。
「そんな熱い視線で見られちゃ、気が散るだろ。何せここ最近は視線に慣れてないんだ。こんなにも人に注目されないなんて、生まれて初めてだからな」
有紗が鼻で笑う。
「ねぇ、いつも見るたびにずっと同じポジションにいるけど、根っこでも生えてるわけ?」
その言葉に、玲音はパソコンから顔をあげる。
「なに言ってんだ。仕事してるに決まってんだろ」
「あなたのお父様の会社、こっちにも支社があるんでしょ? 帰ってきてから一回も行ってないんじゃないの?」
玲音の方に目もくれずキッチンのカウンターに腰かけたまま、手に持ったスムージーを呷る。
「だから! そんなことしたらここにいるのが叔母にバレんだろ? フロリダ支社はランドルフと筒抜けなんだ。それよりさ、その変な色の飲み物、ウマイのか? とてもそうは見えないが」
有紗はそれに答えずに続けた。
「じゃあ仕事もしないでずっと家の中でゴロゴロするつもり?」
玲音はパタリとパソコンを閉じた。
「なんだこの会話? ニートとその母親か? あのなぁ、俺は日本にいることになってんだぞ。見つかってみろ、大変なことになる。だから仕事はテレワークで済ませてるんだ」
彼女はため息をついた。
「なんか」
「なんだよ」
「男らしくないわね、このシチュエーション。コソコソしてミセスランドルフの目を盗むとか」
今度は玲音が深い溜め息をついて立ち上がると、つかつかと有紗の側へ歩いて行った。
「あのな、俺はビジネスチャンスをつかむために、いや、あの手帳の持ち主と共有するために、やむなく帰国したんだ。誰が好き好んで自ら"鳥かご"の中に舞い戻るかよ!」
「言っておくけど、私のビジネスマップの中心にはミセスランドルフの存在があるのよ。それ、わかって言ってるの? 私が話を進めていくと当然ながらミセスランドルフとの関わり合いは増えるし、私は彼女とあなたを引き合わせるミッションだって課されているわ。接触しないわけにはいかないでしょ?」
玲音は有紗の手から飲みかけのスムージーをサッと取り上げて、残りを一気に飲み干した。
「ちょっと!」
「わかってる。ゆくゆくはちゃんと接見して今後を話し合うことになる。でも今はまだだ」
「どうして」
玲音はボトルを置いて、溜め息をつきながら有紗に近付いた。
「ったく、言わなきゃわかんねぇか? 何度も言ってんだろ。今俺がのこのこ出て言ったら、お前のプランが狂うぞ。お前はひとつミッションを達成したように思うかもしれないけど、叔母にとったらお前はひとつ用無しになるだけなんだから」
「だから、ミセスランドルフはそんな人じゃないわ!」
「そうかもしんねーけど……俺は、まだ今の段階では出て行かない。お人好しのお前とは違って、最大限、有利な立場で事を運びたいからな」
「勝手にすれば」
有紗が立ち上がった。
フワッと薔薇のような芳醇な香りが鼻先をかすめて、玲音は無意識にその肩に手を置いた。
想像よりもずっと華奢なその感覚に、一瞬戸惑う。
「なに?」
「あ、いや……髪、早く乾かせよ」
「わかってるわよ」
有紗は一歩踏み出してから、思い出したように振り向いて空のボトルに手を伸ばした。
「いい。俺が片付けとくよ。半分飲んじまったしな」
「そう」
素っ気なく階段を上がっていく有紗にまた声をかけた。
「なぁ、色のわりに味は悪くなかったけど、これ、何が入ってるんだ?」
その言葉に足を止めた有紗はにっこり不適な笑みを浮かべた。
「聞かない方がいいんじゃない? そこで嘔吐されても困るしね」
笑顔のまま消えていった有紗の足音を聞きながら、小さく息をつく。
「ったく、お姫様との生活は気苦労が絶えないな。聞かない方がいいって……ヘビやカエルでも入ってんのかよ」
そう言いながらシンクでコップを洗った。
「やべっ、想像したらちょっと気分が悪くなってきたぜ。ったく、毎日こんなもんよく続けられるよな。オンナってのは思ったよりストイックなのか。それとも美的な野心か……」
玲音はまたパソコンの前に座った。
しばらくすると慌ただしく階段を降りてくる音がした。
有紗が忙しなく部屋を行き来するのを視野の端で見ている。
「じゃあ、私ミセスランドルフと約束してるから。美味しいランチを食べに行くんだけど、あなたは?」
玲音はパソコンから目を離さないまま答える。
「一流のシェフのケータリングで、一人静かな昼下がりを楽しむ予定だ」
「あらそう。いつも騒がしくて悪かったわね!」
有紗は白のパンツスタイルに、赤いパイピングの入ったシンプルな白地のTブラウスで、リビングをうろうろしている。
「あれ? 私ジャケット、どこへやったっけ?」
玲音はおもむろに立ち上がった。
「おい、ここだ。さっきこのソファーにポンと置いて、なにか忘れ物を取りに行ってただろ? 覚えてないのか?」
「あ……そっか」
「ほら」
そう言って玲音は彼女の肩にそのジャケットをフワッと羽織らせた。
「ありがとう」
「どうせ現地までジャケットなんか着ないだろ?」
「ええ、今日も暑そうだしね。じゃあ、行ってくるわ」
「ああ」
有紗が思い立ったような表情で、くるっと玲音に向き直った。
「そうだ! ミセスランドルフに伝言は?」
玲音は目をむく。
「お前なぁ、俺の話聞いてなかったのか!」
有紗はいたずらっ子のような表情で笑った。
「あはは、冗談よ! 行ってきます」
「早く行けよ!」
笑いながら手を振る彼女の後ろ姿を、睨みながら見送った。
「ったく、なめられたもんだ、からかいやがって!」
庭を見渡す大きな窓から、玄関アプローチへ向かう有紗の姿が見えた。
袖を通さないままのそのジャケットと同じ色のパンプスをコツコツ鳴らしてリズムよく石畳を歩いていた彼女が、急に速度を落としながらバッグを探り始めた。
「おお? なんだ? また忘れもんか」
探し物はなかなか見つからないようでバッグの奥まで手を入れてゴソゴソしている。
「何やってんだ、遅刻するぞ。叔母は時間にうるさいんだ」
ようやくお目当てが見つかったのか、彼女は背筋を伸ばした。
そして取り出したものを、扇状に広げる。
「は? 扇子? まさか扇ぎながら歩くんじゃないだろうな? そんなことしてる人間、ここには居ないぞ。それよりアイツ! またカバンの口、開けたままだ」
有紗は扇子を片手に数歩進んだところで、ピタッと止まった。
パッと後ろを振り向く。
玲音は慌ててしゃがみ、身を隠した。
「なにやってんだ俺は……」
自分の行動が滑稽で、玲音は笑い出す。
彼女はまたスッと前を向いてバッグの留め金をしっかり止めた。
そして開いた扇子をゆらゆらとはためかせながら歩き出す。
「おいおい、Japanese style だなぁ! 目立つぞ、ホントに」
そっと立ち上がりながらそう呟くと、見えなくなるまで彼女を目で追っていた自分に気づき、玲音は小さく舌打ちした。
「らしくねぇか……」
そう呟きながらも、胸の奥が妙にざわつく。
「そういえば、初めて会った時も、あのカバンは、開きっぱなしだったな……」
ヒューストン空港ですれ違った時の事を思い出す。
本当のところ、彼女のカバンが開いていることに、先に気がついた訳ではなかった。
先に目に入ったのはその洗練された雰囲気だった。
モデルの身長ではなかったから、ファッション関係者だろうと思いながら、近付いたところで、たまたまそのカバンに気がついて声をかけただけだった。
コーヒーラウンジの前でぶつかった時は、最初は彼女だとは気づいていなかなかった。
ただあまりにも物が散乱し、その開いたカバンを見て思い出したものの、確かに自分は通話中で、取引先との交渉が難しいと報告を受け、イラついていた。
皮肉を言ったかどうかまでは覚えていない。
そこからは搭乗ギリギリまで何本も電話をかけていたから、そんなことすらすっかり忘れていたが……
離陸してから、大いに彼女に興味が湧いた。
あの手帳に気付いた時から——何かが動き始めていた。
あれほどのビジネスプラン、真っ向から挑むその計画は、馬鹿正直すぎて流行りではないかもしれない。
だが誠実さも感じたし、プラン自体には斬新で、チャレンジ精神も感じた。
若干の青さも見えなくはなかったが、そこはスペシャリストが傍らにいれば済むことだ。
何よりも、そのプランの中心が、偶然にも今の自分の一番の悩みの種である、あの叔母のブランドだったことに、どれ程驚いたことか。
自分自身もどう形にしていいかわからなかったことを、その手帳の中の文が代弁してくれるような、そんな気分になった。
なにより、この奇跡的な出逢いを運命だと大いに感じた。
偶然なんかじゃない。
そう思った瞬間、胸の奥で何かが静かに音を立てた。
「よし……一歩前進してみるか!」
定位置に戻って再びパソコンに向かった玲音は、ある人物のアドレスをクリックした。
第26話『Morning Routine』慌ただしい朝 - 終 -




