第15話『Get home after work』ウォースアベニューの黄昏
「アリサ!」
オフィスの大きな窓が、茜色に色付いて黄昏時を美しく演出していた。
翼からかけられたその声に、我に返る。
「今日は会食の予定がないでしょ? それなら私のおすすめのお店があるんだけど、このあと、どうかしら?」
「ええ、喜んで」
『ランドルフ』の店舗から表通りに出て、少しずつ灯りが点き始める街並みに空の蒼が徐々に覆っていくのを仰ぎ見る。
「さぁ、行きましょう」
珍しく徒歩で案内されたのは、ウォースアベニューから一本南に入った路地にあるリストランテだった。
こじんまりした店構え。
しかしこの店の名前は覚えていた。
メニューに目を落としながら翼が言う。
「アリサ、なに食べたい? ここはね……」
「仔牛のポワレが最高なんですよね? それにワインの品揃えがいいとか……」
そう言った有紗に驚いて、翼はメニューから顔をあげた。
「そうだけど……ここは結構地元の人しか知らないお店なのよ? どうしてあなたは知ってるの?」
――ビンゴ!
心の中でそう呟いた。
それは誰に聞いたわけでもなく、あの手帳に書かれていた情報だった。
その店名を覚えていたのは、日本で行きつけのヘアサロンと同じ名前だったからだ。
「あ……近くにすんでいる親友から教えてもらって」
「そうなの?」
さすがに"裏のガイドブックを入手した"などというあやしい話を、翼にするわけにはいかない。
楽しく食事をとりながらも、ちょっとしたランドルフ家の内情や彼女の息子についての話も知ることができたが、聞けば聞くほど、そのLeonという人物を連れ戻すのは困難ではないかという不安が大きくなった。
思わず眉をあげるほど美味な食事と、味わい深い年代物のワインを堪能した有紗は、翼の迎えの車に乗せてもらい、家まで送ってもらった。
「明日フィリシアに報告するわ! あなたが中々な"ワイン通"だって事をね!」
「ありがとうございます、ご馳走さまでした」
優雅に手を振るその美しい姿を見送る。
「気さくでお優しい……本当に素敵なセレブだわ」
邸宅に戻ると、いつものように果てしなく広い空間が有紗を迎える。
「私もきっとかなり感化されてるんだろうな……日本に帰ったら感覚が戻せるか、ちょっと不安だわ」
そう言いながら、この家での生活基盤であるリビングのソファーに向かう。
コンパクトなパソコンを開いて、頭を整理しながらいつもようにその日に得た情報を事細かに記録し始めた。
翼からは息子のLeonの情報に加え、日本の彼の父親の会社の概要を送ってもらうところまでは容認してもらったが、今後本人にコンタクトをとったり、ましてや彼を説得すると考えると、その切り札が見つからず、とたんに気持ちが行き詰まってしまう。
この問題に関しては堂々巡り。
有紗は何度も頭を抱えた。
「ミセスランドルフ……彼女は自分の子供には恵まれなかったけど、夫を亡くした後も一人で大きなブランドを抱えながら、彼の成長を見守ってきたのね。そんな大切な彼に、守り抜いてきた大切な物を託したいと思うのは当然よ。なのに……" 親の心子知らず " って訳か……厄介だわ」
有紗は大きくため息をついた。
「まぁ、彼の事もあるけど、まずはこのパームビーチ全体の問題をなんとかしなきゃね」
ミセスランドルフとミセス翼だけの意向で、この街は動かせない。
もちろん彼女たちの後ろ盾はかなり心強いものではあるが、結局は自分が矢面に立ってこのアベニューのトップ達とやりやっていかなくてはならない。
そしてその後ろ盾を揺るぎないものにするためには、レオンと言う存在が必要不可欠になる。
ここ数日、あらゆる人物と会った際に、このパームビーチにおいての彼の存在の大きさを目の当たりにする機会が何度かあった。
彼をなんとしてでも、こちらに連れ戻さなければならない。
そしてゆくゆくはこのビジネスの中心に、彼が自分と入れ替わって立ってくれれば、それでようやく日本に帰ることが出来る。
その険しい道のりを、少ない猶予で成し遂げられるのか……
「……相当タフなミッションよね」
有紗は背もたれにのけ反って大きく息をついた。
ある程度の事を進め、時間ができたら日本に彼を探しに行かなくてはならないのかと思うと、とたんに気が重くなったが、とりあえず協力者たちと友好な関係を築きながら、できることからやっていくしかないと思った。
――それから
この地にはもう一つ、目的があった。
それは有紗自身も前へ進むために、遂げなくてはならない、ある "約束" だった。
それも果たせたら……ようやく日本に帰れる。
「ああ……まだまだ道のりは長いわね。いいわ! 抜かりなくやっていこう!」
果てしなく広い空間の片隅で身体を小さく丸めながら、今夜もまた一つ、フロリダの夜をくぐる。
デスクワークでオフィスにいる日は、その明るい室内の光の角度でおおよその時間を知ることが出来るようになった。
今日もまた、全面の窓からオフィスに緋色の光が差し込み始める。
それは終業時間が近づいている合図。
パームビーチのサンセットをすっかり気に入った有紗は、しばし手を止めてその黄昏時を感じる。
にこやかな表情で、事務長のMrs. |O'Neillがやって来た。
「Arisa. You can go home. Good job today! 」
今日と明日は、珍しくフィリシア・ランドルフと矢神翼は不在。
ニューヨークでの大きなパーティに出席するため、昨日の夜から二人は秘書と共にマンハッタンに飛んでいた。
「Okay」
デスクを手早く片付けて立ち上がる。
今日はMrs. O'Neillもパートナーとディナーの約束をしたと話していた。
久しぶりのデートに早く行かせてあげたくて、有紗は五分もしないうちにオフィスを後にした。
ウォースアベニューの夕暮れは刻々と変化を見せ、コツコツとヒールをならしながら邸宅の門が見えてくる所まで来る頃には、空一面に美しい紫のグラデーションが広がっていた。
「今日こそは日本と連絡を取って、ちゃんと調査依頼をしなくちゃね」
こちらの夕刻の時間がちょうど日本の朝の出勤前の時刻なので、今夜やり取りをしながら資料を送れば、明日の朝の時点で何らかの返答がもらえるはずだ。
玄関のセキュリティーを解除して中に入り、自動的に着く照明に照らされた瞬間、後ろから肩を掴まれた。
「Hey you!」
ひどく驚いた有紗は、のけ反るように振り向く。
強い口調のその相手は、若いプラチナブロンドの女性だった。
「Who are you?!」
勢いに押されて、声が出ない。
「あ……I'm Arisa……」
「What? I didn’t catch your name! Hey! What are you doing? This is not your home! 」
「Ah……I am using the room that I borrowed from my ……boss」
(上司から借りた部屋を使っているの)
「Boss? Who is your boss?
That’s really |off-putting《引くわ》! You are stranger here」
「No. She’s just an |acquaintance《知人》」
「She? Wait, who are you talking about now? 」
(今 誰の話してるの?)
「Mrs. Randolph じゃなくて……えっと、あ! Phylicia Randolphだった」
玄関先での緊迫したやり取りのなか、そのプラチナブロンドの女性の口から意外な言葉が出た。
「もしかして……日本人?」
有紗は驚いて目を見張る。
プラチナブロンドの女性の口から流れた日本語は、あまりにも流暢なものだった。
「え……ええっ! そ、そうだけど……日本語が話せるの?」
「ええ、この家の持ち主も日系人だから」
「ここはミセスランドルフの家じゃ……」
「いいえ。ここはレオンの家よ」
「レオンって……ミセスの甥っ子の?」
プラチナブロンドの彼女は首をかしげる。
「……もしかして、知らなかったとか?」
「ええ……」
「レオンの事は?」
「会ったことないから……」
「は? なのに、ここに?」
目を丸くした彼女に、有紗はばつが悪そうに頷いた。
「ええ……ミセスランドルフに、ここに住むように言われて……あ、ビジネスの話で先週知り合ったばかりなんだけど」
「へぇ……そうなんだ? それはすごい話だけど……あのさ、とりあえず暑いから、中に入れてくれる?」
「ああ! ご、ごめんなさい。どうぞ」
有紗がドアを大きく開けると、彼女は勝手知ったる足取りで、リビングにまっすぐ向かった。
促すまでもなくソファーに座った彼女の前で、ぎこちない空気が流れるなか、有紗は向かい合ったソファーに静かに腰を下ろした。
第15話『Get home after work』ウォースアベニューの黄昏 - 終 -




