翔、出立す
呑々撮は高さ十メートルはある密林に囲まれた水辺に、木々と葉っぱでこさえられた小屋の集落を見つけ、首にかけていたカメラを構えた。翔は水筒の蓋を開けて喉を潤し、今度はスマホを口に近づけて辺りの様子を音声で記録し始めた。呑々道場海外支部の伝手で雇ったガイドはそんな二人を置いて、洗いものをしている女たちに話しかけにいった。
撮と翔はさまざまな地域を巡って今は中央アフリカに来ていた。ここも携帯が普及しネットが通じているにもかかわらず、翔の作品が読まれていない地域だった。
呑々家の八人が和やかに映画を鑑賞した日の翌朝、翔は地図に点在していた青い地域に行きたいと言いだした。年末進行も乗り切り穏やかな新年を迎えようというところで、両親の奏と颯描、そのふたりに協力を請われた撮が奔走する日々が始まった。在日大使館に問い合わせた。道場に居合わせた海外道場の幹部たちに聞いた。青い地域の事情についてだ。識字率が低いだとか、ネットが繋がっていないだとか、内戦中であるとか、そんな事情だと翔を宥めたかった。確かにそういう地域はあった。しかしそうでない地域もあった。
年が明けしばらく経っても翔は青い地域に行きたいと言い続けた。地元の中学に進学するものと思っていた奏と颯描は行政に相談した。撮のほうは請われてもいないのに旅行計画を立て始めた。青い地域近隣の道場幹部と話をして、文化の違いに根ざすものだと理由に当たりはつけられた。だが詳しくは分からなかった。撮はどうして分からないのかと苛立った。ではお前は京都人の気質を説明できるのかと反論された。黙るしかなかった。奏夫妻より一足先に、これは現地に行くことになると見切りをつけた。そして自分に引率者の白羽が立つと予想した。むしろ引率したかった。渡りに船とばかりに最後の機会にしようと決めた。
翔が小学校を卒業すると、撮と翔は青い地域の訪問を開始した。一つ一つ丹念に訪問した。各国の呑々道場支部の力を借り、現地の人々と交流のきっかけを掴んだ。そこで生活をし言葉を覚え仕事を手伝った。その地の風習の理解に務めた。必要であれば特別な日や季節が到来するのを待った。同じ地で一年を過ごすこともあった。
そうして翔は物語が浸透しない理由を分析していったようであった。それは詰まるところ、言葉の限界、日本語や現地の言語の限界であった。彼ら彼女らの大切な心情を表す言葉が日本語にはなかった。日本人の大切な心情を表す言葉が現地にはなかった。翔は日本語や現地の言語に新しい言葉を創り、相互が理解し合えるようにしていった。そうして生まれた新語を翔は積極的に作品に用いた。巧みに既存の言葉で新たな言葉を表した。読者は未知なる気持ちに驚きながらも受け入れた。それは知らなかった知識を知るのとは似て異なる、心の開拓であった。翔の作品に長らく接しもうこれ以上はないと皆思っていた読書体験がまた一つ階段を上った。
翔は新たな漢字をも創り出した。各小説投稿サイトはすぐさま表示できるよう対応した。翔はそれらをためらいなく使用した。読者は新漢字の妙に感じ入り先を競うように憶えたものの、自らが利用できないことにもどかしさを感じた。故にやがて、文字コードを策定する国際非営利団体から事前に新文字を連絡して欲しいと依頼がくるようになった。最速で国際標準規格に反映したいという主旨だった。翔は協力した。こうしてフォントもさほど時をおかずに追加されるようになった。OSや機器のメーカーも必死だった。対応が遅れると売り上げに大きく影響するのであった。一方でそれほどの影響力を持つにもかかわらず、翔の新語や新漢字が年末恒例の一年を代表する言葉や漢字に選出されることはなかった。翔のそれらが代表にふさわしいのは当たり前だったからだ。こと人文界隈において、コンテストや賞は二番手を選出する営みになって久しかった。
翔は作品を生み出し続けたが勉学もおろそかにはしなかった。文科省の指導要領にそって中学の教科も学習した。ただ授業という枷が外れて学習速度は三倍を超え、つまりは最初の一年で三年分を学び終えてしまった。そして学びは指導要領の範囲にとどまらなかった。
翔は数式に興味を覚えた。中学に上がると算数は数学に変わる。答えを導く過程が重視されるのをきっかけに、数式という記法の発展に興味を持った。昔は文章で書き表していたものを試行錯誤を経て数式に至ったのだと過程を知った。翔はコンピュータ言語にも興味を持った。代表的なものでも数十あるそれらを次々と調べた。ただプログラムを組むことはしなかった。それらの思想を吸収した。
そうして翔は日本語の文法をも拡張するようになった。数式やコンピュータ言語の知見を反映し始めたのだ。それは自然言語に形式言語を組み込む試みだった。作品に多用した。撮には意外だったのだが、多くの読者は戸惑うことなくそれらを受け入れた。自らの思考が明瞭になるのを感じているようだった。取り巻く世界の解像度が上がるように感じるようなのであった。どのような言語も時代とともに変遷していくものだ。だが日本語のそれは極端であった。一人が生み出す作品群を通して急速に進化していった。変化によっては日本の日本語より、海外の日本語のほうが早いケースすらあった。地域の第一言語に左右されるのだ。筆名『どんどんかける』の正体は明かされなかったので、複数人いるのではないか、日本人では無いのではないかとさまざまな噂があがるようになった。
青い地域の多くには日本から見て独特の風習があり、撮はそれらをカメラに納め続けた。できる限りそのままを捉え続けた。感情に訴える写真は不要だった。次々と本にまとめ、爆発的な反響を呼びはしないものの着実に評価された。『どんどんかける』との関連性を示せば大ベストセラーになっただろう。だが撮はそのようなことはしなかった。そしてこの地でフォトジャーナリストの活動に区切りを付けることにした。
時が経てば若者は成長し、成人は衰える。
翔は撮の付き添いを必要としなくなっていた。いれば助けにはなるだろう。だが翔は気兼ねをするようになっていた。撮はそのことに気づいた。この集落を最後の被写体と決め、仕舞いのシャッターを切った。
「よし、と。」
レンズにキャップをはめ、カメラを胸のホルダーに戻した。
「ここはすごく蒸し暑いね。」
翔は振り向いて、これから何事も起こらないかのように言った。普段の翔はとても連日世間を感動させている作家のものとは思えない言葉を使う。撮も加わっている奏家のSNSのやりとりでは、美久や共と使う語彙は似たようなものだった。撮に推し量れるはずもなかったが、使う言葉の明瞭度の振り幅が広いのだと理解していた。例えれば色の「濃紅」を表現するのに「赤っぽい色」、「赤色」、「濃紅」、「R180、G9、B38」と適宜使い分けるのだと捉えていた。以前撮が若者は「かわいい」とか「すごい」とか語彙が乏しいよなと話を振ると、翔はそれでもいいしむしろ適切かもと返したものだった。そんな昔の言い方は今はしないよとも付け足された。
「そうだな、体調には気を付けろ。俺はここで帰るよ。」
撮は六年の旅を振り返りながら言った。右の手のひらで翔の頭を撫でた。
「おじさん、これまで本当にありがとう。」
ばさばさと伸びた髪をくしゃくしゃにされるがまま、翔は涙をにじませて月並みな言葉を返した。その背はもう叔父を追い越していた。
撮は帰国するやすぐ呑々流の師範を継いだ。結婚もした。写真集を何年も担当してもらっていた女性だった。子にも恵まれた。世界各地を連れ添ったカメラは三人の子に向けられるようになった。
木造家屋を建て替え、それを期に打撃と理科子は奏の家に移った。道場にも手を加えた。多数のビデオカメラを設置して門下生の動きをトラッキング、問題を見つけると即時に確認を促した。取り込まれて3Dモデルに変換されたデータによりフォームをあらゆる角度から再生して確認できた。呑々流は過去にとらわれず、良いものは積極的に取り入れる。撮の並外れた動体視力は長所、短所を的確に捉え、効果的な指導を可能にした。翔の拡張により表現の精緻化もできる日本語は、撮の指摘を行き違いなく門下生に伝えた。日本語の進化はスポーツの技量向上にも寄与していた。
撮が帰国して七年、当時高校一年生だった美久と共は大学を卒業し、晴れて社会人になった。美久は公務員に、共は教職に就いた。ふたりを待ち受ける日本社会では爆発的に効率化が進んでいた。会議や掲示板で議論が積み重なるようになり、残業は激減していた。あらゆる組織が白くなっていった。産業革命、ネット革命を凌ぐ革命が世界に先駆けて日本で始まっていた。翔の作品がもたらしたものであった。目敏い評論家はこうした社会の流れを言語革命と名付け、似たような書籍をいくつも出版しては報道番組で自説を披露し有料講習会の受講生を増やした。
更に四年が経ち、一通のメールが呑々家の皆に届いた。帰国の連絡だった。
そろそろ築三十年を迎える奏の家屋。居間のドアがガチャリと開き、日焼けがすっかり肌に染み込んだ屈強の男が、薄汚れたボストンバッグを手にして入ってきた。
「ただいま戻りました。」
男は帽子を取って軽くお辞儀し照れ笑いを浮かべた。
「お帰り、翔。」
理科子が皆を代表して答えた。まだ歩けるが車椅子に頼ることがすっかり多くなっていた。
「ばあちゃん、やっと地図が全部赤くなったよ。」
翔は今度は破顔して報告した。
「そうかい、翔は偉いね。」
理科子は涙を浮かべて翔を褒めた。
「さすが俺の孫だな。」
打撃が声の震えを隠さず続いた。呑々流に涙は御法度だと子を指導したが今は引退した身、何も問題は無かった。
「翔、妻と子どもを紹介するよ。」
撮は湿っぽくなった空気を変えた。撮の妻と子は翔と面識がなかった。翔は海外に出て二十三年間、一度も日本に戻らなかったのだ。小学校と保育園に通う三人の子は翔の荒々しい外貌を前にして父母の後ろにと身を隠した。
「兄さん、私、相談があるんだけど。」
皆の歓談が一息ついたあと、もどかしく待っていたのだろう、今は奏家を出て一人暮らしをしている美久がどこか尖った調子で言った。奏、颯描、美久、共の四人は翔の元へ観光をかねてたびたび訪問していたので再会の感慨はさほどない。
「美久、後にしなさい。」
奏がそれを窘めた。撮は美久の事情を聞かされており、この後に起こるであろう波乱に思いを馳せ、兄も破天荒な子を何人も抱えて大変だなとそのやりとりを眺めた。
撮の家で翔を交えた呑々家十二人の賑やかな夕食が終わった後、今度は奏の家で奏家五人と撮が険しい面持ちで顔を突き合わせた。打撃と理科子も奏の家に戻ってはいたが、居間から廊下一つ隔てた八畳の和室に籠もり、もう子らには関らないとばかりにその場には居合わせなかった。撮も同じ立場なのだが翔をよく知る者として奏に呼ばれていた。撮も翔と別れて十年以上が経ち知るも知らないもなかったが、断る理由もなかった。
「兄さん、私、首長選挙に立候補することにしたの。」
勝ち気な性格が表れているものの母に似て美しく成長した美久がソファーを乗り出して言った。公務員になって三年半、少し以前なら政治家を志すのはまだまだ早いと遇われる経歴に年齢だが、昨今の日本の事情は異なっていた。言語革命は政治の世界をも揺るがしていた。曖昧な言葉で議論を交わし、駆け引きで事を進める政治は終わろうとしていた。明確な根拠を元に方針を示し、建設的に議論を戦わせて政策を磨く時代の到来、従来の政治キャリアは意味をなさなくなり、若くても確かな展望を提示できれば有権者の支持を得られるようになった。名前の連呼はもちろんのこと、おぼろげな公約は見透かされ、票はたちまちに逃げていった。
翔は美久の言葉を黙って聞いていた。続く言葉を待っているようだった。
「私のスピーチライターになって。」
そんな美久の言葉に翔は身じろぎもしなかった。美久は続けた。
「私の政策が気に入らなかったら、書かなくていい。『どんどんかける』の名ももちろん出さない。選挙事務所の応援も不要。それは父さんも母さんも、呑々道場のみんなも同じよ。ただ有権者が少しでも私の政策を検討の俎上に載せてくれるよう、兄さんの力を借りたいの。」
そう言って最後に深々と頭を下げた。颯描は目を閉じて夫の奏に体を預けた。奏は妻の肩を抱いてじっと娘と息子を見つめていた。共は式典にでも参加しているかのように両拳を太ももの上で握り、何やら思索をしているようだった。撮は翔の表情を伺った。反応の予想がつかなかった。翔と政治の話をする機会はなかった。勉強の過程で質問されて答えたことはあるがそれだけだった。山間部の小さな自治体、奏夫妻による呑々家の知名度、昨今の若手政治家の躍進、見栄えのする女性候補者、翔の協力がなくても善戦できるように思えた。そこに翔の原稿が加われば当確は固い。
「その政策を聞かせてみろ。」
翔は短く言った。
「は、はい。」
美久は頭を上げて政策を語った。撮が見たこともない真剣な面持ちだった。
その話は正論だった。誰もが分かっている、分かっているが従来のしがらみにとらわれてできないが故に、ともすると反感を買われそうな話だった。こと美久の攻撃的な佇まいはその傾向を強めるだろう。撮の目にはそう映った。
美久は話を終えると翔を見た。そのまなざしは睨んだというべきものだった。
「何分にすればいい?」
翔はつまらなそうに言った。
「と、とりあえず、三分版が欲しい。」
美久は緊張を解き、顔を明るくして答えた。
「何本も書くのか。お前の欲張りは変わらんな。」
翔はスマホを取り出し口に寄せ、女言葉でしゃべりを始めた。美久の政策をなぞった即興の演説、しかしふたつは別物だった。
魂が揺さぶられた。
涙がこぼれそうになった。
撮はすっかり忘れていた。翔は言葉を文として記すのと同様、口にするのも得意なのであった。幼いときはそうやって美久や共に即興の物語を聞かせていたのだ。冷たい廊下でスマホを構えた、今では遠い冬の日のことを思い出した。
かっちり三分経ったか、翔は話を終えるとポケットにスマホをしまい込んだ。
「あとでメールするよ。」
先までとは調子を変えた翔の声に、呆然としていた皆が我を取り戻した。
「あ、ありがとう兄さん。」
美久も気を取り直して立ち上がり右手を差し出した。翔も立ったが、シッシッとその手を払いのけた。出口に向かいドアノブに手をかけたところでわざとらしく振り返り、
「俺の原稿も気に入らなかったら使わなくていいぞ。」
とにやりと笑い居間を出ていった。
撮はいちいち格好付けて照れを隠すなと思った。道場でしごきたくなった。
三ヶ月後、美久は当選した。言語改革の進む日本において突出した若さではなかったが全国最年少の行政区長になった。圧倒的な得票数を背景に政策を進め、その実行力は目を見張るものがあった。しかし美久が焦っているのを撮は、呑々家の面々は知っていた。その掲げる政策は本質的であるが故に即効性に乏しい。それは受け入れるべきことであり、それ以前に私情を交えてはならなかった。美久は密やかに奮戦したが、成果の一端を示す前に祖母の理科子は他界した。
二年後、美久は二期目を狙わず国政に出た。今度はかろうじてだが間に合った。選挙事務所で打撃にだるまの目を入れてもらうことができた。かろうじてというのはその翌々日に打撃は他界した。引退後も溌剌としていたのに理科子を失ってからの衰えは急だった。享年八十九歳、大往生だった。
その後も美久は何かに取り憑かれたように行動した。ある日珍しくも実家に顔を出した美久に撮がそう声をかけると、不合理が多くて片っ端から正しているだけよと答えが返った。そうして衆議院議員に就いて十二年、美久は初代の記録を二年縮めて史上最年少の内閣総理大臣に就任した。
翔は帰国してからも変わらずに投稿を続けた。そして親元を離れたかと思うとさほどの時も置かずに妻と子を連れて戻ってきた。それは撮にとって意外だった。翔がそれほど早くに結婚するとは思っていなかったのだ。早くいい人を見つけろよとけしかけたときのこと、自分の観察眼は相手の心の動きを読み取れてしまう、自分の言葉は相手の心を動かしてしまう、だから自分を好いてくれる相手の心は催眠をかけたようなものなのだと苦しむように答えられたのだ。撮はそれは程度の差こそあれ、誰もがやっているだろと慰めたものだった。しかして翔は足繁く通っていた大学の研究室で出会いを得ていた。投稿を始めた頃に感想を要約してくれた研究室に連なる研究室だった。そこで物語の自動生成の研究に協力を続けているようなのだが、撮は翔夫妻に何度説明されてもその内容を理解できなかった。
ともかく子たちが離れふたりだけと寂しくなっていた奏の家が再び賑やかになった。美久の立身出世を受け翔の経歴にも目が向けられたが、世間には呑々流道場の師範代だと通した。それは事実であったが収入は丸山書房からのものがほぼすべてであった。翔は書籍化しようとしなかったが、本として手元に置くことを望む読者も多く、丸山書房が実費とわずかな手数料とでその希望に応えた。翔も形ばかりの印税を受け取ったが、何しろ部数が膨大、食うに困らぬ程度の道場の収入などとは比べものにならない額になった。書籍として流通させていれば全世界のベストセラーは翔が独占するはずであった。すべて日本語版であるにかかわらず発行部数はそれまで世界一とされた宗教経典を超えていた。
翔は美久の支援も続けていたが、最初の原稿以降は美久が用意したものを手直しするにとどめているようであった。それでも美久の演説は有史随一だと定評を得ていた。
翔の作品は変わらず世界に影響を与え続けた。すべて赤くなった世界地図が国単位で青くなることがあった。独裁政権が国民への影響を恐れて禁書扱いにしたからだ。民衆は反撥したが武力の前に沈黙した。さすがの翔も現地に飛び込んで解決するわけにはいかなかった。しかしそうした状況も政権上層部から崩れていくのが常だった。外交儀礼に変化が生じていたからだ。人と人が親睦を深めるとき、翔の最新作は天気の話よりも定番の話題になっている。二カ国間の外交こそいざ知らず、国際会議の場でもそれは同じだった。独裁国家であっても、否独裁国家であればこそ身の丈を越えた気位を示すため翔の作品に触れぬわけにはいかなかった。外交に携わる高官たちが翔の作品を読みこんだ。すると感動し周囲に推薦する衝動を抑えられるはずがなかった。推薦の連鎖は止まることがなく、翔の作品は国にひかれた禁を解かれていくのであった。
美久が総理として辣腕を振るって四年、撮が七十の大台に乗った翌年、梅雨に入って帰省には季節外れなとある日に、共が奏家に顔を出した。撮はたまたま道場で翔と体を動かしていた。すでに師範は引退し、有望な次男が継ぐまで、翔に師範代理を任せていた。そこに共がやってきて、翔に相談があると言い、自分にも話を聞いて欲しいと声をかけられた。夕食後に奏家で美久のとき以来の家族会議が始まった。撮は末の子も一筋縄にはいかない兄奏に同情しながら参加をしていた。
「僕は人々の心を少しでも和らげたいんだ。」
そんな言葉から共の話は始まった。共は公立学校の教職に就いて二十四年目を迎えていた。多くの生徒とその家族に接していた。そうした中、美久の政治になって少しずつ世の中が良くなっているのを感じ始めた。少なくともそうなると希望を持つ人が多くなっていると感じていた。だが一方でその印象に間違いはないものの皆少しずつ我慢していることにも気づき始めた。
「兄さんに皆の痛みを少しでも和らげる話を書いて欲しい。」
それが共の頼みだった。全国でその話を語って回りたいと言う。日本の財政は言語革命によって健全化が進んだがまだ潤沢とはいえなかった。何もかも良くなる政治など不可能、何かを得て何かを失う。それでも全体で良くなると信じられたからこそ美久は支持されていた。だがその裏で人々は共のような徳ある者に苦しみを吐露しているのであった。
「話せる範囲で聞かせて見ろ。」
翔は言った。ぶっきらぼうだがその視線は共を射貫いていた。
「は、はい。」
共は自分が接した事例をいくつも披露した。颯描は目を閉じて夫奏に体を預けた。奏はその肩を抱いてじっとふたりの息子を見つめていた。翔も共もいい歳だ。父だといっても奏が口を出すような話ではない。撮は翔の表情を伺った。どう反応するか予想がつかなかった。苦しんでいる人々の話は分かるし、誰かと比較するような話でもない。だが翔は世界を旅していろいろな生活ぶりを目にしている。撮には共の話はずっとマシに思えた。
「何分にまとめればいい?」
翔はつまらなそうに言った。その言葉にどこか撮はほっとした。
「ま、まずは10分版が欲しい。」
共は安堵の表情を浮かべつつも遠慮無く答えた。
「何本も書くのかよ。お前も欲張りになったな。」
翔はそう言って左手首のスマートウォッチを口に寄せ、説話口調でしゃべりを始めた。共の希望を反映させた即興の説法だった。
魂に安らぎを憶えた。
希望に向けて活力が漲った。
撮はすっかり忘れていた。翔は自分から話を作るのと同様、他人の望みに合わせて話を作るのも得意なのであった。そうやって世界各地の人々に物語を聞かせていたのだ。夏の密林や冬の山岳、世界中の集落を巡った日々が目に浮かんだ。
翔は説法を終えた。左腕を振って軽くほぐした。撮は密かにスタートさせていたストップウォッチアプリを確認すると、きっかり十分が経っていた。
「あとでメールするよ。」
先までとは調子を変えた翔の声に、いつの間にか内省に没頭していた皆が我に返った。
「ありがとう兄さん。」
共は立ち上がって右手を差し出した。翔も立ち上がってその手を取り、
「世界にも目を向けろよ。」
と部屋を出ていった。
やはり旅の体験と比べていたのかと撮は感じた。それでも応じるのかと不思議に思ったが、自分にも美久の政策結果の責任があると捉えているのかなと思い至った。
年を越し寒さが和らぎ始めた頃、撮は共が教師を辞めたと伝え聞いた。たまに妻と連れだって都心に出かけると、駅前で説法を説く共の姿を見かけることがあった。ときおり翔の元を訪れては新たな説法を仕入れているようだった。やがて日に焼け逞しくなった共が全国各地の土産を撮の元にも届けてくれるようになった。
翔の説法には考えを押しつけるようなところは無かった。気の持ちようを提示し心が少し晴れる程度の話だった。なのであらゆる人に受け入れられた。どのような宗教を信仰している者でも耳を傾けた。各地で真摯に語る共の姿はスマートデバイスに撮られネットに拡散された。共がさまざまな集会や催しに引く手あまたになるのに時間はかからなかった。動画で説法を憶え、自ら説く者も現れた。だが話を改変する者はいなかった。翔の話にそのような余地があろうはずもない。更にそうした動きは海外にも広がった。ネットの世界も国によっては国境が設けられ、分断されていた。それでも日本語は世界に浸透し、新しい説法は人々の関心を呼ぶニュースになっていたので、わずかでも繋がっているのであれば共の説法が拡散するのは止められようがなかった。
美久は総理在任期間を延ばし国際政治にも存在感を示し始めていたが、国際ニュース雑誌の『今年の顔』には共のほうが先に選出された。
令和に打ち立てられた総理在任最長期間を美久が更新した頃には、世界は、否、人類は確実にその存亡の機を乗り越え始めていた。さまざまな国際学会がその集会や論文に用いる言語を英語から日本語に切り替えたのを皮切りに、各国の大学院や大学、国際企業が日本語を日常的に使い始めた。世界の知的活動がインターネット普及時以上にその効率を上げた。エネルギー技術が発展してCO2など環境諸問題も解消されていき、さまざまな物資に余裕が生まれ始めて紛争もその数を減らしていった。これには市井の人々にまで日本語が普及を始めたのも大きく寄与していた。相互理解の深まりは利害の対立解消には至らないまでも、妥協点を理性的に探ることを促進した。
世界中の紛争が収束に向かい犯罪も減ると、軍や治安組織に投じられていた費用が不要になり、これがまた世界を好転させた。この流れは呑々流にも変化を促した。元より殺人術から護身術へと転じて久しかった呑々流だが、撮の次男が師範に就く頃には健康促進に主眼を置いた武術へと様変わりした。身体に加え五感を鍛える他に類を見ない流儀は、世界の人々に広まりを始めた。
世界が大きな変革を遂げる中で撮は卒寿を迎え、更に数年の歳月が過ぎた。
「おじさん、始まるよ。」
布団の横、座布団に座る老人が大型TVに指をさしたようだった。TVは鮮明な映像を映しているのだろうが撮にはぼんやりとしか分からない。だが演説を始めた女性の声には聞き覚えがあった。流麗な原稿はここにいる老人が書いたものだということも分かった。撮が世界を駆けめぐった頃には想像すらしなかった地球連邦の発足、その初代連邦代表、呑々美久が大公園を埋め尽くす聴衆を前に所信を表明していた。世界標準語に採択された日本語による演説、通訳を介さず聴く者はネットやTV中継越しに耳を傾けている者も合わせれば数十億を下らぬだろう。それだけの新たな連邦の民が撮の横であぐらをかいている老人、翔の起こしたスピーチに胸を熱くしているはずだった。
「父さん、眠いのかい?」
枕もと、呑々流を健康体操へと開花させた次男ががたいに似合わぬ優しい声をかけてきた。長男も長女も哀しそうな顔をのぞかせた。翔も振り向いた。その涙を目にするのは久しぶりだと懐かしかった。
「ああ。」
発した声はしかし、思うほどに出ない。どうせなら百までと日頃うそぶいたが、ここでいいと思った。先立った妻も随分と待たせていた。
撮は笑みを浮かべ、その目を閉じた。