第九十一話 十歳の前
九歳。
洗礼が近づいている。
そう聞くようになったのは、少し前からだった。
母上が服の寸法を確認する。
使用人が予定を確認する。
父上のところには神殿から使いが来る。
兄も姉も。
「もうすぐだね」
と言う。
みんな知っている。
俺だけが、よく知らない。
「洗礼って何するの?」
朝食の時に聞いた。
母上が少し驚いた顔をした。
「今まで聞かなかったの?」
「聞く必要なかったから」
まだ先だと思っていた。
でも近づいてくると。
急に細かいところが気になる。
どこへ行く。
誰がいる。
何をする。
何を言う。
終わったら何が変わる。
「神殿へ行って、祝福を受けるのよ」
母上が答える。
「祝福?」
「神官様からね」
「何をする?」
「祈りを捧げて、これまで無事に育ったことを感謝して、これからの成長を願うの」
祈る。
感謝する。
願う。
まだ曖昧。
「魔法は?」
兄が笑った。
「やっぱりそこか」
「だって洗礼で何か分かるって聞いた」
前に町で聞いた話。
十歳になると。
洗礼を受ける。
その後から魔法の教育が少し変わる。
そんな話だった。
だから俺は。
何かを測るのだと思っていた。
魔素量。
適性。
使える魔法。
何か数字でも出るのかもしれない。
「何か測る?」
父上が首を振った。
「少なくとも、お前が想像しているようなものではない」
「数字は?」
「出ない」
「属性は?」
「決められない」
「称号とか?」
兄が吹き出した。
「どこでそんな話を覚えたんだ」
ないらしい。
少し意外だった。
俺の中では。
洗礼。
十歳。
魔法。
この三つが近くに置かれていた。
だから何か判定する行事だと思っていた。
でも。
「じゃあ何が分かる?」
父上は少し考えた。
「分かる、というより。区切りだな」
「区切り?」
「子供が一つ成長したことを、家族や周囲で確認する」
確認。
数字ではない。
測定でもない。
でも確認する。
「十歳になったって分かってるのに?」
今度は母上が笑った。
「日付だけなら分かっているわ」
「じゃあいらない?」
「そういうものでもないの」
また。
分かっているのに確認する。
少し変だ。
でも考えると。
似たものはある。
誕生日。
季節の祭り。
契約。
商会の登録。
冒険者になる時の手続き。
事実だけなら。
紙に書けば終わる。
でも人は集まる。
言葉を交わす。
決まった形を使う。
「みんなで同じことを確認するため?」
父上が頷く。
「それもある」
また、それもある。
一つではない。
「神様に見せるため?」
今度は母上が答えた。
「そう考える人もいるわ」
「母上は?」
少し困らせた。
母上は考えてから。
「私は、無事にそこまで育ってくれたことを感謝する日だと思っているわ」
人によって意味が違う。
同じ儀式なのに。
俺はそこが気になった。
昼。
先生にも聞く。
「洗礼って、何のため?」
先生は本を閉じた。
「随分広い質問ですね」
「みんな答えが違う」
「違ってもおかしくありません」
宗教的な意味。
社会的な意味。
家族にとっての意味。
本人にとっての意味。
地域によって細かい作法も違う。
「同じことするのに意味が違う?」
「同じ行動でも、そういうことはあります」
俺は紙へ書く。
『洗礼』
その下へ線を伸ばす。
神殿。
家族。
社会。
本人。
「また点が増えた」
先生が笑う。
昨日まで道を見ていたから。
何でも点に見える。
でも今回は地図ではない。
一つの行事を。
違う場所から見ているだけ。
「じゃあ、洗礼を受けたら何が変わる?」
「何もかも急に変わるわけではありません」
「何も変わらない?」
「それも違います」
難しい。
先生が続ける。
「周囲の見方が少し変わります。任されることが増えたり、学ぶ内容が変わったりすることもあります」
「体は昨日と同じなのに?」
「ほぼ同じですね」
「魔素も?」
「洗礼の前後で突然別物になるわけではありません」
やっぱり。
儀式そのものが力を増やすわけではない。
昨日までできなかった魔法が。
洗礼を受けた瞬間に使えるようになるわけでもない。
でも。
周囲の扱いが変わる。
学ぶものが変わる。
任されるものが増える。
「人が線を引く?」
十歳の前。
十歳の後。
本人の中身は連続している。
一日で急に変わらない。
でも社会は。
そこへ区切りを置く。
昨日見た一日の壁に少し似ている。
時間は続いている。
でも人が使う仕組みには区切りがある。
ただし。
同じにはしない。
物流の一日は。
人や馬が休む必要から生まれる。
洗礼の区切りは。
人が意味を決めて作ったもの。
「自然の境目じゃない」
「そうですね」
先生が頷く。
「けれど、人が共有すれば大きな意味を持つことがあります」
共有。
一人だけが十歳を特別だと思っても。
社会は変わらない。
でも家族も。
神殿も。
町も。
同じ頃を区切りとして扱う。
だから実際に変化が生まれる。
教育。
役割。
期待。
扱い。
「決めた線なのに、本当に何か変わる」
面白い。
道もそうだった。
人が何度も使えば。
ただの地面が街道になる。
洗礼も。
人が意味を共有すれば。
ただの日付が節目になる。
同じ仕組みではない。
でも。
人が作ったものが、次の人の行動を変えるところは似ている。
夕方。
マリーが新しい上着を持ってきた。
「少し大きくなりましたね」
「服?」
「アルス様がです」
袖を通す。
確かに。
前の服より少し長い。
鏡を見る。
九歳。
もうすぐ十歳。
見た目は。
昨日と今日でほとんど変わらない。
「洗礼の日もこれ?」
「これは普段用です。洗礼には別のお召し物があります」
「またあるの?」
「あります」
服まで違う。
「みんな期待してる?」
マリーは少し考えた。
「楽しみにしている、の方が近いと思います」
期待。
楽しみ。
似ているけど違う。
「何かすごいことしないといけない?」
「いいえ」
即答だった。
「立っていれば?」
「それだけではありません」
「じゃあ何する?」
マリーが笑う。
「当日までのお楽しみでは駄目ですか?」
「駄目」
知りたい。
驚きたいわけではない。
何が起こるのか知ってから見たい。
知らないまま参加すると。
どこを見ればいいか分からない。
「神殿で何をするか、順番を教えて」
マリーは少し困って。
結局、教えてくれた。
神殿へ行く。
家族と挨拶する。
神官の言葉を聞く。
祈りを捧げる。
祝福を受ける。
終われば家族で戻る。
「それだけ?」
「基本は」
「光ったり?」
「しません」
「石に触ったり?」
「しません」
「何か浮かんだり?」
「しません」
全部ない。
想像していたものが消えていく。
その代わり。
別のものが見えてきた。
洗礼は。
俺の中に隠れている何かを見つける日ではない。
少なくとも。
そういう日ではなさそうだ。
「じゃあ俺、何を見ればいい?」
マリーが首を傾げる。
「普通は、見るものを探して受ける儀式ではないと思いますけど」
それはそう。
でも俺は見たい。
神官が何を言うか。
家族がどうしているか。
周囲の人が何を期待しているか。
洗礼の前と後で。
本当に何が変わるのか。
夜。
帳面を開く。
『十歳の洗礼』
まだ当日ではない。
その下へ書く。
『何かを測る儀式だと思っていたが、違うらしい』
次。
『本人の身体や魔素が一日で急変するわけではない』
『それでも社会が区切りとして共有することで、教育や役割や周囲の見方が変わる可能性がある』
最後に。
『洗礼そのものより、洗礼の前後で何が変わるのかを見る』
頁を閉じる。
十歳までは、まだ少しある。
だから。
急がない。
当日だけを見ても分からない。
十歳になる前の俺。
周りの人。
言葉。
期待。
準備。
そこから見ておく。
洗礼はまだ始まっていない。
でも。
洗礼を待つ時間は、もう始まっていた。




