第78話 重なり合う心音
雫さんが置いていった紅茶の湯気が、冷房の効いた部屋の中でゆらゆらと揺れている。
皿の上には、俺が買ってきた洋菓子の甘い香りが微かに残り、静まり返った密室の空気をいっそう濃密にしていた。
雫さんの「そういうことはもう少し経ってから」という言葉。
そして俺の「まだしません!」という、墓穴を掘ったような叫び。
その残響が、ラグの上に並んで座る俺たちの間に、絶妙に気まずくて甘い沈黙を横たわらせていた。
「……。……。一真」
先に口を開いたのは凛だった。彼女は膝を抱えたまま、横目で俺の様子を伺ってくる。
「……なんだよ」
「……。さっきの、お姉ちゃんに言ったこと。……本気?」
凛の問いに、俺の心臓がドクンと跳ねた。
『まだしません』。
それはいつかする、と言っているも同然の言葉だ。俺は熱くなった顔を隠すように、少しだけ姿勢を正した。
「……。……凛。……あのさ」
「……。なに?」
「……。改めて、ちゃんと話しておきたいことがあるんだ。……恋人として」
俺が真面目なトーンで切り出すと、凛は少しだけ驚いたように目を見開いた。
「……話? 何、急に。……改まっちゃって」
「……。俺たち、付き合い始めてまだ数日だろ。……。でも、俺……お前とは、その、一学期だけの浮ついた関係とか。……そんな風にはなりたくないんだわ」
俺は視線を落とさず、凛の瞳を真っ直ぐに見据えた。
三年間、電子の海で魂を預け合ってきた相棒。
そして、ようやく手に入れた「東雲凛」という一人の女の子の隣。
俺はこの場所を、何があっても守り抜きたいと、心の底から思っていた。
「……せっかくこうして、三年間もお互いの中身だけを見て信じ合ってきたんだ。……。だから、俺は……凛と、ずっと良好な関係でいたい。……。……長く、一緒にいたいんだよ」
凛は、俺の言葉を一言も漏らさないように聞き入っていた。彼女の手が、俺のシャツの袖をぎゅっと握りしめる。
「……。なんで、いきなりそんなこと言うのよ。……。恥ずかしいじゃん」
「なんでって……。……。……。……あー、もう」
俺は自分の不器用さに呆れながらも、もう一度、心の奥底にある本音を吐き出した。
「……。……ずっと、凛と一緒にいたいんだよ。……。……だから、嫌がることはしたくないし、お前が不安になることもしたくない。……。俺は、お前の隣っていう特等席に、これから何年も、何十年だって座り続けていたいんだわ」
「――――っ!!」
言い切った瞬間、自分の顔が沸騰しそうなほど熱くなるのがわかった。
「ずっと一緒にいたい」なんて、まるでプロポーズじゃないか。俺は自分の心臓が肋骨を突き破るんじゃないかという鼓動に晒されながら、凛の反応を待った。
凛は、石像のように固まっていた。
大きな瞳が、みるみるうちに潤んでいき、月明かりを反射した宝石のように輝き始める。
「…………っ!!」
凛は耐えきれないといった様子で顔を伏せた。
そして次の瞬間――。
「……わっ!?」
ドン、という衝撃。
凛が膝立ちのまま、俺の胸元に勢いよく飛び込んできた。
反射的に彼女の身体を支えるように腕を回すと、腕の中に、小さくて、温かくて、けれど力強い彼女の体温が収まった。
「……。……。お、おい、凛!? どうしたんだよ」
「……っ。……。……。バカ。……バカ一真。……。……。……急にそんなこと言うの、反則だもん……っ」
凛は俺の首筋に両手を回し、しがみつくような格好で俺の胸板に顔を押し付けてきた。
ふわりと広がる、あの清潔な石鹸と彼女自身の甘い香り。
密着した身体を通じて、彼女の激しすぎる心音が、俺の心臓に直接響いてくるようだった。
「……。ごめん。……。でも、急に……。……。……抱きしめたくなっちゃったんだもん」
凛の声は、俺の胸に遮られてくぐもって響く。
彼女の身体が、幸せな予感に震えているのがわかった。
「……。……私も、同じだよ。……。……。一真以外の相棒なんて、逆立ちしたって見つからない。……。……。学校での『東雲凛』は、いつか卒業しちゃうかもしれないけど。……。……カズの『ハル』は、死ぬまでカズだけのものなんだからね」
凛は、俺のシャツの背中を、爪を立てるようにして強く握りしめた。
その確かな力強さが、彼女の言葉が本物であることを教えてくれる。
「…………。……。ああ。……。……わかってるよ。お前の『ハル』は、俺が一生独占してやるわ」
「…………にひひ。……。……。当たり前でしょ。……。……。一真の『カズ』だって、……。……誰にも、一ミリだって触らせないんだからね」
凛は俺の胸元で小さく顔を動かすと、スッと力を抜いた。
けれど、離れることはせずに、そのまま甘えるように体重を預けてきた。
静かな部屋。
窓の外から聞こえる蝉の声は、この部屋の幸せな沈黙を際立たせるためのBGMに過ぎない。
一階には雫さんがいるし、夕方にはご両親も帰ってくる。
けれど今、この瞬間だけは。
この六畳の空間だけが、世界で一番甘くて、世界で一番安全な、俺たちだけの『聖域』だった。
「……一真」
「なんだよ」
「…………。……。……好き。……大好きだよ、一真」
不意に、耳元で囁かれた彼女の本当の名前の呼びかけ。
俺の心臓は、今日何度目かわからない爆発を起こした。
「……。……。ああ。……。……俺もだよ。……。……凛」
俺は彼女の細い身体を、壊れないように、けれど二度と離さないという意志を込めて、強く抱きしめ返した。
三年前。
画面越しの声に救われていた俺たち。
今。
こうして重なり合っている心音。
夏休みは、まだ始まったばかり。
俺たちの「恋人としてのログイン」は、言葉の契約よりもずっと重くて甘い、この初めての抱擁によって、後戻りできない場所まで深く、刻み込まれていった。
「…………。……。にひひ。……。……。……。ねえ、一真。……。もうちょっと、このままでいてもいい?」
「……。……お前の気が済むまでな、相棒」
俺たちは、夕暮れの光が差し込み始める部屋の中で。
いつまでも、いつまでも、お互いの熱を確かめ合っていた。




