第71話 終業式、そして収集
教室の窓の外では、七月の太陽が容赦なく地面を焼き、視界を歪ませるほどの陽炎が立ち上がっていた。
テスト返却という、学生にとっての審判の時間を終え、俺たちの前には「夏休み」という名の広大なフィールドが広がろうとしていた。
「――よお、一真。……。終わったな、一学期。……。俺は今日、この瞬間に自由を手に入れたぞ!!」
隣の席の海斗が、返却されたばかりの赤点スレスレの答案用紙を天に掲げて叫んだ。
物理の平均点を大きく下回りながらも、なんとか補習を回避した男の、これ以上ないほど晴れやかな勝ち鬨だ。
なんだかんだ前回に引き続き回避するのなんなんだこいつ。
「……。ああ。お疲れ、海斗。……。球技大会も、テストも、本当によく生き残ったよ」
俺――佐藤一真は、苦笑いしながら自分の答案をカバンに仕舞った。
視線の先。
教室の中央で、東雲凛が女子グループに囲まれて笑っている。
さらさらとした黒髪。凛とした横顔。
彼女は、友達と夏休みの予定を話しながらも、時折、ほんの一瞬だけ。
にやりと微笑んだ。
(――にひひ。……。テストの結果、後でちゃんと教えてよね、カズ)
そんな、相棒「ハル」の声が聞こえてくるような、秘密のサイン。
俺は、彼女にだけわかるように軽く頷き、視線を逸らした。
恋人になった。
その事実は、この教室の誰一人として知らない。
あの花火の下で交わした熱い熱も、駅のホームで感じた彼女の温もりも。
すべては、俺たちの胸の中にだけしまってある、世界で一番甘い秘密。
******
「――これより、第一学期終業式を行います」
体育館。
全校生徒の熱気が籠もった、巨大なサウナのような空間。
校長先生の長い話が響く中、俺は整列した男子の列の中で、じっと前を見つめていた。
何列か離れた場所。
女子の列の中に、彼女の背中がある。
ポニーテールが風に揺れるたび、彼女の白いうなじが覗く。
(……一真、見てる?)
そんな声が聞こえてくる気がする。
不意に、東雲さんがふっとこちらを振り返った。
全校生徒と教師の目が集まるこの場所で。
彼女は誰にも気づかれないほどの速さで、ぺろっと舌を出し、片目を瞑ってみせた。
「…………っ!!」
心臓が爆発しそうになった。
あいつ。あの東雲凛が、終業式の真っ最中に俺にウィンクをしてきた。
周囲の男子たちが「あ、東雲さんがこっち向いた!?」「今の天使の微笑み、俺宛か!?」とザワつき始める中、俺は顔を真っ赤にして俯くしかなかった。
「他人のふり」どころじゃない。
彼女の方は、もう「秘密の共有」を全力で楽しみ始めていた。
******
終業式が終わった後の、騒がしい放課後。
教室に戻り、通知表を受け取った俺は、海斗と一緒にカバンを背負って立ち上がった。
「よし一真! これから古本屋寄って、それからネトゲの新作アプデに備えるぞ!」
「……。ああ、そうだな。……じゃあ、行くか」
俺がそう答えた、その時だった。
「――あ! カズッチくん!」
不意に、聞き慣れた弾けるような声がした。
振り返ると、そこには一ノ瀬咲希さんが、腰に手を当てて仁王立ちしていた。
そして。
その隣には、少しだけバツが悪そうに俯いている東雲凛の姿。
「一ノ瀬さん。……。……。なに。海斗に用か?」
「にひひ。海斗くんじゃないよ! 用があるのは、カズッチくんと……凛りんだよ!」
「ええ〜、仲間はずれかよ……」
落ち込む海斗。
そんな海斗を無視するかのように一ノ瀬さんは俺の腕と、東雲さんの腕をそれぞれ掴むと、力強く宣言した。
「今から、駅前のファミレスで『三人会議』! カズッチくん、拒否権なしだからね!」
「…………えっ!?」
俺と東雲さんは、同時に声を上げた。
海斗が「え!一真!?お前何をしたんだ!?」と絶叫しているが、一ノ瀬さんはそれを笑顔で無視し、俺たちを強引に廊下へと引きずり出した。
******
――数分後。駅へと向かう道中。
一ノ瀬さんが少し前を鼻歌を歌いながら歩いている隙に、俺のポケットでスマホが激しく震えた。
【凛:カズ。どうしよう!咲希、絶対全部気づいてるよ!】
俺は、冷や汗を拭いながら返信を打つ。
【一真:落ち着け。確信は持たれてないはずだ。ただの「相談のお礼」として押し通すしかないだろ】
【凛:無理だよ!私、さっき一真と目が合ったとき、ニヤニヤしちゃったもん!】
【凛:そしたら咲希に『凛りん、お顔がエロいよー』って言われたんだよ!? もう死にたい!】
【一真:お前が自爆しただけじゃねーか!】
【凛:までもさ、カズ、行くしかないよね。咲希から逃げたら、一生追いかけられるもん】
【一真:うん。俺も、覚悟を決めるわ】
俺はスマホをしまい、前を歩く一ノ瀬さんの背中を見据えた。
彼女は、俺たちの「親友」という嘘を、一番近くで支えてくれた共犯者だ。
そして、東雲凛にとって、世界で一番大切な親友。
そんな彼女に、嘘をつき続けることは、もうできない。
元はと言えば東雲さんの隣を奪い取ると宣戦布告したあの日。俺は一ノ瀬さんに「いつか全部話す」と約束した。
それが、どうやら早いことに今日になったらしい。
俺たち二人のやり取りのキリが着くのを待っていてくれたかのようなタイミングで前の一ノ瀬さんが振り向くと、
「――にひひ! 二人とも、そんなに顔見合わせなくていいから! 」
駅前のファミレスが見えてくる。
学校では、他人のふり。
けれど、このファミレスの扉を潜った瞬間。
俺たちの「第1章」が、本当の意味で終わりを迎えようとしていた。
「……ハル」
俺が小声で呼びかけると、東雲さんは足を止め、俺の手の甲を自分の指先で「ツン」と叩いた。
「(うん。……いこ。私たちの、……。……。答え合わせ、しなきゃね)」
俺の横を歩く彼女の瞳には、もう迷いはなかった。
あったのは、最強の相棒としての、そして俺の「彼女」としての、凛とした決意。
俺たちは、どちらからともなく頷き合うと。
一ノ瀬咲希という名の「最終ボス」が待ち構える、ファミレスの入り口へと足を踏み入れた。
七月の風は、俺たちの決意を煽るように熱く吹き抜け。
新しいログイン画面が、今、俺たちの目の前に鮮やかに映し出されようとしていた。
俺は、スマホの裏側に貼られたドラゴンのシールをそっと握りしめ、前を向いた。




