第70話 恋人じゃない振り
月曜日、朝。
俺は、自分の席に座りながら、目の前の「現実」という名の情報処理に、脳のCPUが悲鳴を上げているのを感じていた。
(……夢じゃ、なかったんだよな)
無意識に、あの時の感覚を思い出すように自分の右手の掌を握りしめる。
一昨日の土曜日。打ち上げ花火の下で、俺たちは「親友」という安全な防波堤を自らの手で壊した。
東雲凛――俺の三年来の相棒であるハルと、俺は、正式に「恋人」になったのだ。
帰り道の電車の中。改札での短い別れ。
凛は真っ赤な顔をして、「これからは、私が一真の特別なんだからね」と言って、俺の頬に小さく、けれど一生消えないような熱を置いていった。
その後、夜のログインで俺たちは短く話し合った。
『いきなり付き合ってるなんて言ったら、学校中がパニックになっちゃうよね』
『ああ。海斗もショックで消滅するだろうしな。……少しずつ、俺たちのペースで考えていこう。とりあえず、学校ではまだ「秘密」だ』
そう決めたはずだった。
はずだったのだが――。
「――よお、一真。おはよ。……。お前、なんか今日、顔に『幸せです』って書いてあるぞ。……キモい」
隣の席の海斗が、カバンをドサリと置いて俺を覗き込んできた。
バスケ部のエース候補。東雲凛の熱烈な信者であるこいつの観察眼は、核心には全然迫らないものの、こと「俺の異変」に関しては無駄に鋭い。
「……。幸せとか、そんなんじゃない。……。テストの結果が不安なだけだ」
「嘘つけ。ニヤけてんだよ、お前。……。さては昨日、ネトゲで伝説級のレアアイテムでもドロップしたか?」
「…………まあ、そんなところだ」
伝説級のレアアイテム。……どころじゃない。
世界に一つしかない、最高にわがままで可愛らしい「宝物」を手に入れてしまったのだ。
俺が必死に口角が上がるのを抑えていると、教室の扉がガラリと開いた。
「おっはよー! カズッチくん、海斗!」
一ノ瀬さんが、いつもの太陽のような笑顔で教室に入ってくる。
そして。
そのすぐ後ろ。さらさらとした黒髪を揺らし、朝の光を全身に纏った「天使」――東雲凛が続いていた。
「…………っ!!」
俺の全身の筋肉が、反射的に強張った。
凛は女子グループと喋りながら、ゆっくりと俺たちの席の横を通りかかる。
(落ち着け。他人のふりだ。いつも通り、視線を合わせずにスルーして――)
だが。
凛は、俺の机の真横に来た瞬間。
誰にも気づかれないほどの、けれど俺にははっきりとわかる、一秒にも満たない短い時間。
(――……。……。にひひ)
彼女は、俺をじっと見つめ、最高に甘くて不敵な「ハル」の笑顔を向けてきた。
そして。
俺の机の端に、自分の指先を「トントン」と、二回だけ弾いて通り過ぎていった。
「………………っ!!」
心臓が、今日一番のレベルの音を立てて跳ねた。
あいつ、学校でなんてことしやがる!!
とりあえず知らない振りをするんじゃなかったのか!?
彼女の意図がよく分からない。
「……凛おはよ。……今日もイカしてるな」
海斗が、骨抜きにされたような声で挨拶する。
いつもなら「ふふ、ありがとう」と余裕で流す凛が。
今日は一瞬だけ足を止め、顔を耳まで真っ赤にして俯いた。
「……え、ええ。……おはよ、海斗くん……。……。佐藤くんも、おはよ」
「…………おはよう。東雲さん」
俺の声は、自分でも引くくらいに掠れていた。
凛はそのまま、逃げるように自分の席へと向かっていった。
海斗が眉をひそめて首をかしげる。
「……。なあ、一真。……。今の、なんか凄く不自然じゃなかったか? 東雲さん、お前の名前呼ぶときだけ、声が裏返ってたぞ。……。お前、やっぱり何かしただろ。具体的にいえば東雲さんに」
「……。……。気のせいだ。……。……自意識過剰だよ、お前」
俺は必死に冷や汗を拭い、物理の教科書を広げた。
……全然、ダメだ。
「他人のふり」という、これまで完璧にこなしてきたはずのタスクが、恋人になった途端、最難関の無理ゲーへと変貌していた。
一時間目の休み時間。
俺のポケットの中で、スマホが短く震えた。
【凛:カズのバカ。……さっきの、机トントン、気づいた?】
俺は、周囲の視線を気にしながら、机の下でメッセージを打つ。
【一真:気づくわ!学校であんなことするな。海斗に怪しまれただろ】
【凛:にひひ。だって、我慢できなかったんだもん。……ねえ、一真。……早く放課後にならないかな。……一真の顔、ずっと見ていたいよ】
「…………っ!!」
俺は思わず、スマホを握りしめたまま机に突っ伏した。
……ダメだ。これ、今日一日持たない。
東雲凛という「最強の相棒」が。
俺に向けるその好意を隠そうともせずに、学校というパブリックな戦場に持ち込んできている。
ふと視線を感じて顔を上げると。
前方で凛に抱きついている一ノ瀬さんが、じーっと俺のことを見つめていた。
彼女は、ニヤリと……すべてを悟ったような、恐ろしい軍師の笑みを浮かべて。
口パクで、俺に向けてこう伝えてきた。
(――お・め・で・と・う!)
「………………」
バレてる。
一ノ瀬咲希にだけは、もう隠し通せる気がしない。
――そして、五時限目。テスト返却の時間。
名前を呼ばれ、俺は教壇へ答案を受け取りに行く。
その帰り。凛の席の横を通る際、彼女がふっと自分の解答用紙を俺の方へ傾けた。
そこには、テストの点数……ではなく。
余白の部分に、小さな文字で、こう書き殴ってあった。
『放課後図書室の奥で』
「………………っ!!」
俺は、自分の心臓の音がクラス全員に聞こえてしまうのではないかという恐怖に駆られながら、早歩きで自分の席に戻った。
学校では、他人のふり。
けれど、その仮面の下で。
俺たちは、新しい「秘密」を共有している。
昨日までのような「隠し事への後ろめたさ」はない。
あるのは、ただ、早く彼女の隣に行きたいという、純粋で、熱烈な想いだけ。
他人のふりは、もう限界だ。
けれど、この「バレそうでバレない」スリリングな日常が。
俺たちの新しい「恋人生活」というログイン画面の、最初のステージなのだと、俺は予感していた。
俺は、机の上の消しゴムのカスを払うようにして、凛の座る後姿をそっと見つめた。
俺と彼女の、ただの「相棒」を卒業した、最初の月曜日。
外から聞こえる蝉の声は、俺たちのこれからの熱い夏を、祝福するように鳴り響いていた。




