第59話 未来の約束
体育館から響いていたバッシュの擦れる音や、ボールが床を叩くリズムが、遠くで静かに途絶えた。
七月の夕暮れ。窓の外からは、熱を帯びた風に乗って、部活終わりの生徒たちの賑やかな声が屋上まで微かに届いてくる。
俺――佐藤一真は、オレンジ色に染まった屋上のフェンスに背を預け、自分の掌が不自然なほど熱くなっているのを感じていた。
一ノ瀬さんとのあの「宣戦布告」から、約二時間。
部活が終わるのを見計らって送った一通のLIMEに、彼女は『すぐ行く』とだけ短く返してきた。
(逃げない。もう、絶対に逃げないぞ)
何度目か分からない深呼吸を繰り返す。肺に入り込む空気は夏特有の重さを含んでいて、喉の奥がひりついた。
――ガチャン、と重い鉄の扉が開く音が静寂を破った。
現れたのは、部活用のTシャツにハーフパンツ姿の東雲凛だった。
練習の熱がまだ冷めていないのだろう。彼女の白い首筋には微かな汗が夕日に光り、さらさらとした黒髪のポニーテールが、屋上の風に吹かれて躍った。
彼女は屋上をぐるりと見渡して、俺しかいないことを確認すると、いつもの「東雲さん」としての仮面をふっと解き、スタスタと迷いのない足取りでこちらに近づいてきた。
「どうしたのカズ。急に呼び出したりして。今日、夜にログインする約束だったでしょ?」
彼女はいつものように、にひひと「ハル」としての余裕を見せながら歩み寄ってきた。
けれど。
俺の顔を正面から見た瞬間、その足が、俺の三歩手前でぴたりと止まった。
彼女の大きな瞳が、戸惑ったように揺れる。
「カズ? どうしたの、その顔。何か悪いことでも考えてる?」
「悪い。疲れてる時に呼び出して」
「いや、私は大丈夫だけど……」
俺の声は自分でも驚くほど低く、けれどどこか吹っ切れたような響きを帯びていた。
夕日の光が彼女の顔を逆光で隠すが、それでも俺には分かった。彼女もまた、この場に流れる張り詰めた空気の意味を、本能的に察知している。
「東雲さん。いや……ハル」
俺が呼び名を変えると、彼女の肩がビクッと跳ねた。
「昨日、一ノ瀬さんがお前を夏祭りに誘ってるのを、偶然見てたんだ」
「そうなんだ……」
彼女は目に見えて息を呑み、気まずそうに視線を泳がせた。
「あ。うん。咲希には誘われたよ。言おうと思ったんだけどさ。ほら、咲希も『凛りんと二人で行きたい』って張り切ってたし。カズは、その、海斗くんたちと行くのかなーって思って……」
「いや、もうそれは過去の話だ」
「え? それはどういう――」
「一ノ瀬さんは、俺に譲ってくれたよ」
「………………え?」
東雲さんが、金縛りにあったように固まった。俺はその隙を逃さず、一歩彼女に向かって踏み出す。
「さっき、部活前に一ノ瀬さんと二人で話した。全部、正直に話してきたよ。俺が、東雲凛を、独り占めしたいって。言い方は悪いけど、親友同士の予定を壊してでも、一人の男として、お前を誘いたいんだって。そう、一ノ瀬さんに頼み込んできたんだ」
「カズは咲希に、そんなこと、言ったの?」
「ああ。思い切り茶化されたよ。でも、最後には『凛りんを悲しませたら許さない』って……最強の脅し文句と一緒に、お前の隣を俺に預けてくれたんだ」
俺は、彼女の目の前に立ち。
逃げようとする彼女の視線を、退路を断つように真っ直ぐ捉えた。
そして、俺は彼女の細い手首を、今度は屋上の時よりもずっと、しっかりと、熱く握り締めた。
「――――っ!?」
「ハル。いや……凛」
彼女の名前を、本当の、たった一つの名前を。俺は初めて、真っ向から彼女の心臓に向けて叩きつけた。
「俺は、もうお前との時間を、『親友』なんていう便利な言葉で誤魔化すのはやめる。球技大会のあの日、お前が俺の手を握ってくれた時。ネカフェで俺の胸に頭を預けてくれた時。本当は、俺だって気づいてたんだ」
握り締めた手首から、彼女の激しい鼓動が伝わってくる。まるで、二人の心臓が一つのリズムを奏でているかのように。
凛は顔を真っ赤にして、震える唇をぎゅっと噛み締めていた。
「こんなこと言ったらキモイって思うかもしれないけど、俺、お前を誰かに奪われるのが……死ぬほど怖いんだ。他クラスの男子が告白してるのを見たり、学校で他人のふりをしたりするたびに、心臓が自分のものじゃないみたいに……ぐちゃぐちゃになるんだよ」
俺は、握った手にさらに力を込めた。もはや指先が白くなるほどに。
「だから。来週の土曜日、俺と夏祭りに行ってほしい。相棒としてのパシリとか、そんなんじゃない。佐藤一真という一人の男の、『特別』として。二人きりで、隣にいてほしい。……ダメかな?」
「………………」
沈黙が流れた。
風が止まり、世界から余計な音が消えた。
オレンジ色の空の下。俺たちの視線だけが、火花を散らすように絡み合っている。
凛は、黙ったまま俺をじっと見つめていた。
やがて、彼女の瞳に見たこともないような、ひどく甘くて、ひどく熱い光が灯る。
「…………にひひ。遅いんだよ、バカ一真」
凛は、力なく、けれど心底幸せそうに小さく笑った。
「遅すぎるよ、カズ。私、ずっと、待ってたんだよ。カズが、その汚い檻から出てきてくれるのを」
「檻、って……」
「親友、とか。相棒、とか。そういう言葉で、私を遠くに追いやって、自分を納得させてたのはカズでしょ?」
凛は、俺に握られていない方の手をゆっくりと伸ばした。
そして俺のシャツの胸元を、ギュッと、引きちぎらんばかりの勢いで握り締めた。
「分かった。夏祭り、行くよ。二人きりで。学校の東雲凛の看板……全部、置いていく。佐藤一真の隣だけを、私が――東雲凛が貰ってあげる」
「………………っ!!」
俺の世界は、七月の夕暮れの色から、一気に真夏の、眩しすぎる光へと塗り替えられた。
「ああ。ありがとな。凛」
「…………っ!! にひひ、カズは不意打ちがすぎるんだよ。いきなり下の名前、呼んでぇ……。今まで東雲さんばっかりだったのに……もう一回」
「嫌だ。一回きりだ」
「バカ! ケチ一真! でも、いいよ。今日はもう既に最高の『バフ』、いただいてるので」
凛は、幸せそうに目を細めると、俺の胸板にこてんと自分の額を預けてきた。
部活終わりの、少し高い体温。
制汗剤と、汗と、彼女自身の甘い香りが、俺の全身の細胞を完膚なきまでに叩き伏せていく。
三年前。
ボイスチャットのノイズ混じりに始まった俺たちの物語。
「親友」という安全な防波堤は、今、俺自身の意志と、彼女の願いによって、跡形もなく崩れ去った。
残ったのは。
お互いの体温と、指先から伝わる、後戻りできない未来の約束だけ。
「凛。そろそろ帰らないと」
「そうだね、続きは夜のログインでたっぷりと……」
凛はそう言って、ニコッと微笑み、俺の右手を、さらに強く握り締め直した。
俺たちの「親友以上恋人未満」な日。
それは、この放課後の屋上で、誰にも邪魔できない二人きりの「真夏の恋物語」へと、その幕を開けた。
夕焼けの空。
一番星が、俺たちの新しく結ばれた指先を、祝福するように静かに瞬いていた。
「一真。大好きだよ。……相棒として。ね?」
「ああ。ハル……俺もだよ。……親友としてな」
そう言って俺たちは、わざとらしく、お互いの逃げ道を確かめ合うようにして二人顔を合わせて笑った。
震える声で交わされた言葉。
けれど、重なり合う二人の心拍数は。
どんな言葉よりも正直に、同じリズムで、新しい季節を刻み始めていた。




