第58話 彼女の隣を
放課後、校舎裏。
かつて一ノ瀬さんが他クラスの男子からの告白を鮮やかに断り、そして俺が彼女の「秘密の相談役」に任命された、あの因縁(?)の場所だ。
七月の熱気がコンクリートの壁に反射し、遠くのグラウンドから響く掛け声が、この静まり返った空間の緊張感を際立たせていた。
約束の時間の五分前。
俺は、フェンスに背を預け、自分の掌がじっとりと汗ばんでいるのを感じていた。
これから話すことは、俺たちの平穏な関係を壊しかねない、あまりに自分勝手なワガママだ。
けれど、もう「親友」という言葉の裏に隠れていることはできなかった。
「――にひひ! カズッチくん、お待たせーっ!」
不意に、校舎の角から明るい声が響いた。
一ノ瀬さんが、パタパタと軽快な足取りでこちらに駆けてくる。ポニーテールにまとめた髪が元気に跳ね、いつもの太陽のような笑顔を俺に向けた。
「どうしたの? 咲希を二人きりで呼び出すなんて。……もしかして、カズッチくんもついに咲希の魅力に気づいちゃった? それとも、内緒のデートのお誘いかなぁ?」
一ノ瀬さんは俺の目の前でぴょんと止まると、あどけない仕草で首をかしげ、俺の顔を覗き込んできた。
「……。いや、一ノ瀬さん。そんなんじゃないんだ」
「えー、そんなんってカズっちくーん、残念! じゃあ、色々すっ飛ばした凛りんに内緒の『告白』だったりして?」
彼女はクスクスと喉を鳴らして笑う。その瞳は相変わらずいたずらっぽく、すべてを面白がっているように見えた。
俺は一度、深く息を吸い込んだ。肺の中に熱い空気が入り込み、覚悟を固める。
「……一ノ瀬さん。昨日の昼休み、一ノ瀬さんが東雲さんを夏祭りに誘ってるの、偶然聞いちゃったんだ」
「…………。……」
一ノ瀬さんの笑みが、一瞬だけ止まった。
「……ああ、あの時の。凛りんと浴衣で屋台巡りしよーって話だよね? それがどうしたの?」
「……わかってるんだ。二人が大親友で、ずっと前から約束してたかもしれないことも。俺みたいなのがそこに割り込むなんて、本当に失礼だってことも分かってる」
俺は、彼女の目を真っ直ぐに見据えた。
「……でも、俺が。俺が……東雲さんを誘いたいんだ」
どんな表情をされるかと思っていたが、彼女の顔に現れたのは少しの驚き、そして『納得』のようにも見えた。
「……一ノ瀬さんとの予定を壊してくれなんて、最低なことを言ってる自覚はある。でも、俺が……一人の男として。東雲さんを、今年の夏祭りに連れていきたいんだよ」
言葉にした瞬間、自分の顔がカッと熱くなるのがわかった。
「親友」という逃げ道を、俺は今、自分の手で完全に塞いだ。
一ノ瀬さんは、俺の言葉をじっと黙って聞いていた。いつもならすぐに「にひひ!」と茶化すはずの彼女が、今は真剣な、見たこともないような静かな瞳で俺を見つめている。
「…………。カズッチくん。それって、どういう意味かわかってる?」
「……わかってる。俺は、もう……東雲さんの『ただのクラスメイト』や『ただの友達』でいるのは、限界なんだ。……東雲さんが他の奴に告白されてるのを見たり、学校で他人のふりをしたりするたびに、心臓が……その、おかしくなりそうになる……」
俺の、剥き出しの本音。
東雲さんの隣を誰にも渡したくないという、エゴの塊のような独白。
「……一ノ瀬さんと東雲さんの時間を奪うことになる。本当に、すまない。……でも、お願いだ。東雲さんの隣を、俺に譲ってくれないか」
俺は、その場で頭を下げた。
一ノ瀬さんからすれば、俺は自分の大好きな親友を奪おうとする侵略者に見えるかもしれない。
長い沈黙。
コンクリートの熱気と、俺の鼓動の音だけがその場所を支配していた。
やがて――。
「…………。……ぷっ。……あはははは!!」
一ノ瀬さんが、耐えきれないといった様子で吹き出した。
俺が顔を上げると、彼女はお腹を抱えて、少しだけ涙目になりながら笑っていた。
「……一ノ瀬さん?」
「あー、面白い! カズッチくん、最高! ……あはは、まさかそんなに真剣な顔して、咲希に宣戦布告してくるなんて思わなかったよ!」
彼女は一通り笑うと、少しだけ乱れた前髪を整えて、俺をじっと見た。
そこには、いつもの「爆弾娘」の顔はなかった。
どこか慈愛に満ちた、本当の「天使」のような、柔らかい微笑み。
「……いいよ。夏祭り、譲ってあげる」
「――――え?」
「だってぇ、咲希が無理やり誘うより、カズッチくんの『覚悟』の方が、ずっと凛りんを幸せにしそうだもん。……咲希はね、二人がいつまでも『ただの友達』なんて雰囲気でいるのが、ちょっとだけもどかしかったんだよ」
一ノ瀬さんは、フェンスに背を預け、空を見上げた。
どこまで彼女は知っているのだろう。その笑顔の奥底をまだ俺は知ることができない。
「凛りんは、ずっと『完璧』を求められてきたの。まぁ私もだけどね。みんなが『天使の東雲凛』しか見ないから、きっと本当の自分を見てくれる誰かをずっと探してたんだと思う。……カズッチくんと凛りんの間に、何があったのかは、咲希は詳しくは聞かないよ。……まだね」
一ノ瀬さんは俺の方を向き、いたずらっぽく指を立てた。
「いつか、二人が自分たちの関係にちゃんと名前をつけたら。その時は、出会いから今までのこと、全部、一文字残らず白状してもらうからね!」
「……わかった。いつか必ず、全部話すよ」
「にひひ! じゃあ、交渉成立だね。……でも、カズッチくん。一つだけ、約束して」
一ノ瀬さんが、不意に俺の胸元に指を突き立てた。
その瞳が、獲物を狩る猛獣のように鋭く光る。
「……もし、カズッチくんが中途半端な気持ちで凛りんを傷つけたり、あの子を泣かせるようなことがあったら。……いくらカズッチくんといえど、咲希、絶対に容赦しないからね?」
「…………っ」
「凛りんは、咲希にとって世界で一番大切な親友なの。そのあの子を、世界で一番幸せにする責任、カズッチくんにはあるんだよ。……わかってる?」
冷徹なまでの、親友への想い。
彼女は、俺と東雲さんの関係を楽しんでいるだけではない。彼女なりに、東雲さんの幸せを一番近くで願い、守ろうとしてきたのだ。
「……ああ。わかってる。……。俺が、東雲さんを絶対に……大切にする」
俺が力強く答えると、一ノ瀬さんは満足げに頷き、パッと表情を明るくした。
「にひひ! 合格! あーあ、咲希の浴衣姿、凛りんに一番に見せたかったんだけどなぁ。……ま、仕方ないか! カズッチくんに免じて、今回は譲ってあげる!」
彼女は再び、いつもの天真爛漫な一ノ瀬咲希ちゃんに戻った。
「……一ノ瀬さん。ありがとう。……。本当、いい奴だな」
「にひひ、今さら? さあ、そうと決まれば作戦会議! 凛りんには咲希から『ごめん、お母さんと用事が入っちゃった!』って嘘ついといてあげるから、カズッチくんは死ぬ気で誘いなさいよ!」
「……。ああ。……やってやるよ」
校舎裏。
俺は、最強の理解者からのエールを背中に受けて、一歩を踏み出した。
胸の中にある焦燥感は、いつの間にか、凛とした静かな決意へと変わっていた。
一ノ瀬さんという高い壁を越え、俺は今夜、初めて「自分自身の意志」として、彼女を隣へと誘う。
「……待ってろよ、ハル」




