第56話 このままだと
それから1週間たった月曜の放課後の校舎。
七月の熱気が廊下の隅々にまで停滞し、窓の外からは気が早い蝉の声が微かに聞こえていた。
俺は、今日も一ノ瀬さんの鋭い視線や海斗の追求を適当にかわしながら、一刻も早く家に帰ろうと足早に廊下を歩いていた。
(……早く帰って、ログインしたい。……画面越しに、ハルの声が聞きたい)
学校にいる間、未だに東雲さんの姿を見るだけで、あのネカフェの密室の記憶がフラッシュバックする。
あれからというものの、徐々に会話は増えつつあり、エタレジェ中のボイチャではいつものような『カズ』と『ハル』としてのやり取りは続いている。
しかし今までとは違い、ゲームが終わってからの、プライベートのことを話す時間が無くなってしまっていた。
そんな状況の今の俺にとって、ボイスチャットは唯一、彼女と対等に笑い合える「避難所」だった。
ショートカットのために、俺は人気のない体育館裏の細い道へと足を踏み入れた。
だが、曲がり角に差し掛かったその時。聞き覚えのある声が鼓膜を叩き、俺は反射的に壁の影に身を隠した。
「――だから、ごめんなさい。気持ちは嬉しいけれど、お受けできません」
凛とした、けれどどこか事務的な響き。
東雲さんの声だ。
そっと角から覗くと、そこには制服姿の東雲さんが、他クラスの見覚えのある男子――確か、野球部の次期エースと噂されているイケメン――と対峙していた。
「……やっぱり、ダメかな。東雲さんには、他に好きな人でもいるの?」
「……。……。そういうわけじゃありません。ただ、今は部活と……。……。大切にしたい『場所』があるだけです」
彼女は、胸元に手を当てて静かに答えた。
男子生徒は「そうか……。……。諦めきれないけど、今日は帰るよ」と肩を落とし、反対側へと歩き去っていった。
一人残された東雲さんが、ふぅ、と深い溜息をつく。
彼女は自分の右手を見つめ、指を何度か開いたり閉じたりしてから、寂しそうに口角を上げた。
その顔は、俺といる時の「ハル」の顔ではなかった。けれど、何かに耐えているような、ひどく大人びた表情で。
俺は、彼女に気づかれないように、音を立てずにその場を離れた。
心臓が、嫌なリズムで跳ね続けていた。
(……。……。大切にしたい、場所)
それが、俺と過ごす『ネトゲの相棒』としての時間だということは、自惚れでなく分かっていた。
けれど、さっきの光景が頭から離れない。
今日は、東雲さんが断ってくれたから良かった。
けれど、明日も、明後日も、同じだという保証はどこにもない。
あんな風に、彼女を求める男はごまんといる。
それに比べて、俺はどうだ。
「親友」
「相棒」
その言葉の裏に隠れて、彼女に甘えているだけじゃないのか。
今のままの俺たちが、ただの「ゲーム仲間」という脆い足場の上に立っているのだとしたら。
いつか、もっと相応しい誰かが、彼女を本当の「特等席」へと連れ去ってしまうのではないか。
(………………くそっ)
言いようのない焦燥感が、俺の胸の奥で黒く渦巻いていた。
******
「――ただいま」
家に着いた時、俺の顔は自分でもわかるほど疲れ切っていた。
リビングのソファで、学校のジャージ姿のままアイスを食べていた双葉が、俺の顔を見るなり露骨に顔をしかめた。
「……お兄、何その顔。干からびたナメクジみたい。……キモいんだけど」
「…………放っておけ。……。……ナメクジだって、悩みくらいあるわ」
俺は力なく答え、自分の部屋へ行こうとした。
……が、双葉は「……。……。」と俺を観察し続けると、手に持っていたスプーンを止めた。
「……お兄。……。何かあったの?」
「……え?」
「……いつもなら『うるせー、ナメクジはどこか行きますよ〜』とか言い返してくるのに、今日はずいぶん素直じゃん。……何。……女神(東雲さん)に、ついに三行半でも突きつけられた?」
「突きつけられてねーわ!!てかそもそも結婚してねぇし。てかどこで習ったんだ」
「声、デカい。……まあ、いいわ。不健康な顔したままPCの前に座られたら、部屋から不穏なオーラが漏れてくるから。……ほら、そこに座りなよ。……話、聞いてあげなくもない」
双葉は少し目を逸らしながらソファの隣をポンポンと叩いた。
……。
普段は反抗期全開の妹だが、こういう時の勘だけは異常に鋭い。
俺はためらいながらも、ソファの端に腰を下ろした。
「……いや。……。……俺の話じゃなくて。……。友達の話なんだが」
「古典的だね。……まあ、いいや……。その『友達』とやらが、どうしたの」
俺は、今の状況を必死にオブラートに包みながら、双葉に話した。
「友達」には、すごく仲のいい「女友達」がいること。
二人は趣味が合って、三年間ずっと最高の相棒だったこと。
けれど最近、その彼女が他クラスの男子から告白されているのを見てしまったこと。
「……その『友達』はさ。……多分なんだけど今の『親友』っていう関係を壊したくないんだよ。でも、告白されてるのを見たら、なんだか……このままじゃいけない気がして。……。誰かに取られるんじゃないかって、焦ってるっていうか……」
俺が最後まで話し終えると、双葉はアイスの棒を口に咥えたまま、しばらく天井を見上げた。
「………。お兄。……。……その『友達』って、バカなの?」
「…………っ!? バカ、って……」
「……いや、バカだよ。……。……。曖昧な関係(親友)に甘えてるのは、ただの逃げでしょ。傷つくのが怖いから、一歩踏み出さない。でも、自分の側にいてほしい。……そんなの、ただのワガママじゃん」
双葉は、アイスの棒をゴミ箱へ放り投げると、真っ直ぐに俺――の背後にある壁を見つめた。
「……いい? 女の子にとって、その『親友』っていう場所は、一番近くて、一番遠い場所なんだよ。……。誰かに取られたくないなら、親友なんていう逃げ道を自分で塞がなきゃ。相手の女の子だって、きっと待ってるよ。……。……誰でもいい『特別な誰か』じゃなくて。……。……。その『友達』にしかできない、覚悟をさ」
「………………」
双葉の言葉は、今の俺の心臓を、鋭いナイフで正確に一突きにした。
そうだ。
俺は、自分が傷つきたくなくて。
「ハルの相棒」という安全な場所に、ずっと引きこもっていただけだったんだ。
でも。
あの時。屋上で、東雲さん――いや、ハルが震える手で俺を求めてくれた。
ネカフェで、俺の胸に頭を預けてくれた。
あいつはもう、とっくに覚悟を決めて、俺の領域に踏み込んできていたのだ。
逃げていたのは、俺の方だ。
「……双葉。……。……ありがとな」
「……。……。別に。……。……可愛い女の子に、泣きそうな顔をさせてほしくないだけだから。……。……女神の不幸は、我が家の不幸だし」
双葉はそう言って、再びスマホを手に取った。
俺は、スッと立ち上がり、自分の部屋へと向かった。
心の中の霧が、少しだけ晴れたような気がした。
「佐藤くん」と「東雲さん」のふりは、もう終わりだ。
「カズ」と「ハル」のままで、俺は、彼女を本当の光の下へと連れ出す。
一歩踏み出すのは、怖い。
けれど、あいつを誰かに奪われる絶望に比べれば、そんなの……初期装備でラスボスに挑むような無謀さですらない。
「――お兄。……最後に一つ」
部屋のドアを開けようとした時、双葉が背後から呼びかけてきた。
「……。なんだよ」
「……頑張ってね、お兄」
「……ああ。……。……。いや、だから、俺の友達の話だって……」
「……バレバレだよ、バカお兄。……部屋、掃除してきなよ。……東雲さん、また来るかもしれないんだから」
「…………っ!!」
俺は顔が沸騰しそうになりながら、自分の部屋へと逃げ込んだ。
バレバレだった。
けれど、不思議と嫌な気はしなかった。
デスクの上に置かれた、スマホの裏側のドラゴンシール。
俺はそれを指先でなぞり、深く、深く、息を吐き出した。
親友という名の免罪符を、今度こそ、俺の手で燃やし尽くすために。
俺は、夜のログインを待ちわびるモニターを、かつてないほど強い瞳で見つめ返した。




