第52話 私だけを
来たる土曜日。
自室の鏡の前で、俺――佐藤一真は、昨日から何度も繰り返した「最終チェック」を終えていた。
薄手のライトグレーのシャツに、濃紺のデニム。気合を入れすぎていると思われない程度に、清潔感だけは死守した格好だ。
(……よし。これならハルに『気合入りすぎw』と煽られることも、ダサいと蔑まれることもない……はずだ)
心臓は、昨日の夜からずっと高い回転数を維持している。
今日は一ノ瀬さんのプレゼント選びという「口実」を使い、ついに手に入れた東雲さんとの二人きりの時間。
カバンを手に取り、リビングへ降りようと部屋を出た、その時だった。
「ふーん。お兄、そのシャツ、新調したやつでしょ」
階段の踊り場で、腕を組んだ妹の双葉が待ち構えていた。
ポニーテールを揺らし、獲物を追い詰める刑事のような冷徹な瞳が、俺の全身を舐めるようにスキャンする。
「……。双葉。……。まあ、ちょっと出かけるからな」
「どうせ東雲凛さんとでしょ。昨日からずっとソワソワしてたもんね。……。鏡の前で髪の毛弄ってたのも全部見えてたし、キモい」
「……うるさい。ほら、どけ。遅れるだろ」
いつもの罵倒。いつもの反抗期。
俺は「やっぱりな」と思いながら彼女の横を通り過ぎようとした。……が。
「……行ってらっしゃい。……楽しんできなよ」
背後からかけられたのは、いつもの氷点下の声ではなく。
どこかぶっきらぼうで、けれど温かさを孕んだ、素直な言葉だった。
「…………え?」
俺は思わず足を止め、振り返った。
双葉は顔を逸らし、耳たぶを少し赤くしながらフンと鼻を鳴らした。
「……え?って何よ、その鳩が豆鉄砲食ったようなマヌケな顔。キモい」
「……。いや。……。お前、今日なんか変なものでも食べたか? ……。あの毒舌の双葉が、素直に送り出してくれるなんて……明日――いや、今日槍でも降るのか?」
「………………っ!!」
双葉は顔を真っ赤にして、持っていたスマホを俺に突きつけた。
「……あんたねぇ! 妹に罵倒してもらわないと気が済まない変態お兄だったの!? ……別にいいでしょ。……東雲凛さんは、私にとっても憧れなんだから。……その人が、楽しそうに今日を楽しみにしてたんならって。お兄が台無しにしたら、本当に末代まで呪うからねって意味よ!」
「……俺と東雲さんのこと、そんなに心配かよ」
「当たり前でしょ! でも、ま。……今日のお兄、いつもより一ミリくらいは『マシ』に見えるから。……精一杯、東雲さんの護衛やってきなよ」
双葉はそう言い捨てると、自分の部屋へと逃げるように駆け込んでいった。
バタン、という大きなドアの音。
一人残された廊下で、俺は苦笑いした。
……。
まったく、誰に似たんだか。
あんな風に、強気な言葉で本音を隠しながら、結局は誰よりも相手を想っている。
そんな不器用な妹の姿が、今の俺には、誰よりも愛おしい「相棒」の姿と重なって見えた。
******
駅前の時計塔の下。
少し湿り気を帯びた六月の風が吹き抜ける中、俺は彼女を待っていた。
約束の十分前。けれど、遠くからこちらへ向かってくる「圧倒的なオーラ」に、俺の意識は一瞬で奪われた。
「――カズ!」
人混みをかき分けるようにして、彼女が駆け寄ってくる。
清楚なサックスブルーのブラウスに、白のフレアスカート。
さらさらと流れる黒髪は、今日はハーフアップにまとめられ、揺れる毛先が陽光を反射して輝いている。
学校での「東雲さん」としての完璧な笑顔ではなく、どこか幼くて、無邪気で……。
俺だけを見つけて、心底嬉しそうに駆け寄ってくる、最高の『相棒』の姿。
「……ハル。……早いな」
「にひひ! ……だって、楽しみすぎてソワソワしてたらお母さんに『早く行きなさい!』って追い出されちゃったんだもん」
俺の目の前で足を止め、東雲さんは少しだけ肩を上下させながら、上目遣いで俺を見た。
「……にひひカズ、どうかな? ……今日の私。……カズに、合格もらえるかな〜?」
少しにやけながら俺をからかうように聞いてくる彼女。
そんなからかいに対し、俺は誠心誠意を持って答えた。
「……満点だよ。……。眩しすぎて、直視できないわ」
「――――っ!!」
そんな俺の言葉に彼女は顔を真っ赤にして、持っていたカバンで口元を隠した。
「……バカ。……。そういうこと、真顔で言わないでよ。……にひひ。……。でも、ありがと。……カズのシャツも、似合ってるじゃん。かっこいいよ、私の相棒」
彼女は一歩踏み込み、俺のシャツの袖を指先で「くいっ」と引いた。
周囲には、買い物客や学生たちがたくさんいる。
もし学校の連中に見られれば、一瞬で「ニュース」になる光景。
けれど。
この駅前広場で。一ノ瀬さんも、海斗も、家族も、学校の奴らもいないこの場所で。
俺たちはもう、他人のふりをする必要なんてなかった。
「……じゃあ、行くか。……。一ノ瀬さんのプレゼント、探しに」
「……うん。……でも、その前に。……。……。佐藤一真くん」
そういうと彼女は、俺の隣にぴたりと寄り添った。
肩が触れるか触れないかの、絶妙な距離。
彼女は小声で、俺の耳元で囁いた。
「(……。……。今日一日。……。……私を、一人の女の子として。……。……一番近くで、見ててよね? ……。……。これは、ハルの命令なんだから。……ね、相棒?)」
「…………っ!!」
俺の心臓が、激しく打ち鳴らされた。
学校では、他人のふり。
ギルドでは、最強のペア。
けれど。
この六月の空の下で。
俺たちの物語は、ただの「親友」という言い訳を、甘い熱量で上書きし始めている。
「……分かってるよ。……お前のわがまま、全部叶えてやるから。……行こう、ハル」
「にひひ。……うん! 行こ、カズ!」
彼女は満足げに笑うと、俺の袖を掴んだまま、軽やかな足取りで歩き出した。
二人だけの、秘密の遠征。
雨の予感なんて微塵も感じさせないほどの、熱くて甘い時間が。
今、最高潮のテンションで幕を開けた。




