第44話 えええええ!
そして来たる土曜日、午前十一時。
六月の湿り気を帯びた風が、街路樹の若葉を揺らしている。
駅前の時計塔の下、俺は、今日のために新調した淡いグレーのサマーニットの襟元を何度も整えていた。
(……。……。落ち着け。……。今日はただのオフ会だ。……。学校の東雲さんと、ギルドの相棒ハルを連れて行くだけだ)
自分に言い聞かせるが、喉の奥がカラカラに乾いている。
ふと、昨夜の双葉の言葉が脳裏をよぎる。『東雲さんは初めてで緊張してるはずなんだから、お兄がちゃんとリードしなさいよ』。
……分かってる。
分かってるが、リードする側の俺の心拍数は、すでにレイドボスの最終フェーズ並みに跳ね上がっていた。
「――カズ!」
不意に、背後から聞き慣れた地声が響いた。
振り返った瞬間、俺の思考は文字通り停止した。
「…………え?」
そこに立っていたのは、昨夜LIMEで送られてきた写真よりも、何倍も、何十倍も眩しい「本物」の彼女だった。
清楚な白のノースリーブワンピース。その上に、透け感のある淡いブルーのカーディガンをふわりと羽織っている。
さらさらと流れる黒髪はサイドで編み込みにされ、首元の白さを一段と際立たせていた。
いつも学校で見せる「東雲さん」としての完璧な笑顔ではなく、どこか不安げに、けれど俺を見つけてホッとしたような、そんな少女の瞳。
「……。……。どうかな。……。……やっぱり、変じゃないかな?」
東雲さんは、ワンピースの裾を少しだけつまんで、おずおずと尋ねてきた。
「……。……。変なわけないだろ。すごく……。……綺麗だ」
俺が本音を漏らすと、東雲さんはみるみるうちに頬を赤く染め、視線を泳がせた。
「…………にひひ。……。……。合格。……。……カズの服も、いい感じじゃん。……。大人っぽくて、ちょっとドキッとしちゃった」
「……。……茶化すな。……。ほら、行くぞ。……。ゲンゾウさんたち、もうロビーにいるってさ」
俺は、熱くなった顔を隠すようにして歩き出した。
東雲さんは、俺の半歩後ろを付いてくる。
人混みの中で、彼女がそっと、俺のシャツの袖を指先で掴んだ。
「……。……カズ。……。やっぱり、ボイチェンなしでみんなに会うの、すごく緊張する。……もし、声を聞いて『ハルくんじゃない』って思われたら……」
「お前の声は、お前の声だろ。姿が女の子でも、ボイチェンがなくても、あのひと達は一瞬でお前が『ハル』だって気づくよ。……。三年間、一緒にいたんだからさ」
俺がぶっきらぼうに、けれど確信を持って答えると、袖を握る東雲さんの手の力に、少しだけ熱がこもった気がした。
「…………うん。……。……。ありがと、カズ。……。……よしっ! ……。みんなを、びっくりさせちゃおっか!」
東雲さんは、いつも通りの最高の「ハル」としての笑みを浮かべ、俺の隣へと並んだ。
駅から少し歩いた場所にある、老舗のシティーホテル。
重厚な回転ドアを潜ると、そこには学校の喧騒とは無縁の、上品な空間が広がっていた。
大理石の床に響く、彼女のサンダルの軽い足音。
俺たちは、事前の打ち合わせ通り、ロビーの中央にある大きなソファーセットを目指した。
そこに、不自然なほどの「熱量」を放っている一団がいた。
「――あああ! もう! あの一組、まだ来ないの!? カズくんとハルくん、もし来なかったら私、今日のビュッフェのローストビーフ全部食べてやるから!!」
ロビーの静寂を切り裂く、全角文字が聞こえてきそうな絶叫。
派手なオレンジ色のワンピースを着て、スマホを握り締めながら鼻息を荒くしている女性。……間違いない。マリエさんだ。
その隣。
仕立ての良さそうな紺のジャケットに身を包み、銀縁メガネを指でクイッと押し上げながら、困ったように笑っている男性。……ギルドマスター、ゲンゾウさんだ。
さらに、がっしりとした体格でアロハシャツを着た豪快そうなオヤジ――テツさん。
そして、黙々とロビーのパンフレットを読んでいる無口そうな大男――クマさん。
最後に、明るい茶髪をセットして落ち着きなく周囲を見渡している、モデルのような大学生――シンくん。
……なんだろうな。
(……画面越しのイメージ、そのまんまだわ)
俺が一人で納得していると、東雲さんが、さらに俺の腕へと身を寄せた。
彼女の指先が、小さく震えているのが伝わってくる。
「……カズ。……。……。行くよ」
「……。……ああ。……任せろ、ハル」
俺たちは、一歩、また一歩と、その中心地へと近づいていった。
最初に気づいたのは、シンくんだった。
「お、おい……見ろよ。……。めちゃくちゃ美男美女のカップルがこっち来るぞ」
「はぁ? そんなのどうでもいいわよ! それよりハルくんの――」
マリエさんが、苛立った様子でこちらを振り返る。
そして、俺と、俺の袖を掴んで立っている凛を、正面から捉えた。
「……」
マリエさんの口が、金魚のようにパクパクと動いた。
ゲンゾウさんが、眼鏡をズレさせたまま固まった。
テツさんが、持っていたスマホを床に落とした。
ロビーの一角が、真空地帯になったかのように静まり返る。
俺は、一度深く息を吸い込むと。
隣で今にも逃げ出しそうになっている凛の肩を、そっと自分の肩で支えるようにして、口を開いた。
「――お待たせしました。……。『蒼穹の旅団』のカズです。……。……こっちは」
俺が凛に視線を送る。
凛は、顔を真っ赤にしながらも、意を決したようにキャップを……じゃなかった、カーディガンの襟を正し、鈴を転がすような、最高に透明感のある「地声」で告げた。
「……ハル、です。……。……三年間、男の子のふりしてて……。……ごめんなさい……っ!!」
……。
…………。
「「「「――――ええええええええええええええええええ!!???」」」」
ホテルのロビーにあるまじき大絶叫(周りには配慮してます)が、高い天井に反響した。
マリエさんは「嘘おぉぉ!?」と叫びながら膝から崩れ落ち、シンくんは「運営の仕込みだろこれ!」と頭を抱え、ゲンゾウさんは慌てて眼鏡を掛け直して、何度も瞬きを繰り返している。
「ハ、ハルくん!? あの口の悪いハルくんが!? こんな……こんな、お人形さんみたいな女の子なのぉぉ!?」
マリエさんが這い寄るような勢いで東雲さんに詰め寄る。
東雲さんは、あまりの迫力に「ひゃっ!?」と短い悲鳴を上げて、俺の背中に隠れた。
「……。……。マスター。……。……これ、どういう状況ですか?」
俺が助けを求めるようにゲンゾウさんを見ると、彼はようやく落ち着きを取り戻したようで、苦笑いしながら一歩前に出た。
「……。……いやぁ。……。正直、参ったな。……。カズくんが好青年なのは想像してたけど。……。……ハルちゃんが、まさかこれほどの美少女だったなんて。……三年間、僕たちの目は節穴だったよ」
ゲンゾウさんは、優しく凛を見つめ、それから俺の肩をポンと叩いた。
「……カズくん。……。ハルちゃんを射止めた幸運な男の顔、ようやく拝めたね。……。今日は、じっくり話を聞かせてもらうよ?」
「…………っ!? いや、射止めたとかじゃなくて、俺たちは親友――」
「はいはい! その言い訳、後でたっぷり追求してあげるから! ……。ああ、もう! 尊すぎて死ぬわ! おばさん、婚活のやる気がゼロになったわよ!」
マリエさんの絶叫に包まれながら、俺たちのオフ会は、開始五分で波乱の幕を開けた。
学校では、他人のふり。
けれど、この大人の社交場で、俺たちは「世界で一番お似合いの相棒」として公認されてしまったらしい。
東雲さんが、俺の背中の後ろで、小さく「にひひ……」と笑いながら、俺のシャツをギュッと強く握り締めた。
(……。……。カズ。……。……やっぱり、来て良かったね)
そんな彼女の心の声が、掌を通じて、俺の心臓へと直接流れ込んできた。
俺と彼女の、ただの「親友」という言葉。
それは、一流ホテルの華やかな光の下で、もう誰にも誤魔化せないほどの輝きを放ち始めていた。




