第103話 ドキドキ採寸
九月の日曜日、午前十一時。
駅前の賑やかなロータリーから一本裏に入った静かな路地にその店はあった。
看板は、小さなプレートにロゴが刻まれているだけの、知る人ぞ知る隠れ家のような佇まい。
星名さんに手渡されたショップカードがなければ、俺は一生この扉を開けることはなかっただろう。
「一真、ここ、なんだかすごく雰囲気あるお店だね」
背後から声をかけられ振り返ると、そこには五分袖の白いブラウスに、テラコッタ色のタイトスカートを合わせた凛が立っている。
九月の陽射しはまだ強いが、風には少しだけ秋の涼しさが混じっている。さらさらとした黒髪はサイドでゆるくまとめられ、透き通るような白いうなじが眩しい。
「おはよ。ああ、場違い感がすごいわ。その、今日も綺麗だな」
「にひひ、合格! さすが一真、言うようになったじゃん。じゃあ、行こっか。私の騎士サマ?」
凛は俺のシャツの袖を指先でちょんと掴むと、意を決したように店の重厚な木製の扉を押し開けた。
******
店内に足を踏み入れた瞬間、上質な生地の匂いと、どこか落ち着くアロマの香りが俺たちを迎えた。
「いらっしゃい。あら、ららが言ってた『最高にエモい二人組』って君たちのことかしら?」
奥から現れたのは、二十代半ばほどの、凛とした美しさを持つ女性だった。
髪はタイトにまとめられ、首元には使い込まれたメジャーがかけられている。仕事中なのだろう、知的な眼鏡の奥の瞳が、俺たちの姿を瞬時に「解析」するように鋭く動いた。
「初めまして。佐藤一真です。学校の文化祭の衣装制作の件で伺いました」
「ええ、聞いてるわ。私は店主の香織。ららから、モデルとしては文句なしの二人が行くって聞いてたけど、なるほどね。確かに、これは作り甲斐がありそうだわ」
香織さんはフランクな口調ながらも、その立ち振る舞いにはプロの矜持が感じられた。
「さて、時間もないし早速始めましょ。凛ちゃん、だっけ。まずは奥の試着室で採寸用の服に着替えてくれる? 佐藤くんはそこで少し待ってて」
凛が奥へ消えた後、香織さんは手際よく生地のサンプルをカウンターに並べ始めた。
俺は所在なさげにソファに座り、壁に飾られた仕立て途中のジャケットなどを眺めていた。
(プロの仕立て屋か。一学期までは、こんな場所に来るなんて想像もしてなかったな)
すべてはハルの正体が凛だと分かったあの日から始まった。
俺の世界は、彼女という強烈な光に照らされて、どんどん色鮮やかになっていく。
そんなことを考えていると、カーテンが開く音がして、凛が戻ってきた。
(……ヤバい。どこ見ていいか分かんねぇ……!)
採寸用の、身体のラインがはっきりと出る薄手のインナー姿になった凛。
学校の制服姿では決して分からない、彼女のしなやかで、けれど女性らしい柔らかな曲線。
香織さんが手際よく、肩幅、ウエスト、そしてアンダーバストへとメジャーを回していく。そのたびに凛は顔を真っ赤にして、俺の方をチラチラと見てくる。
恥ずかしいから見てほしくないという羞恥心と、恋人である俺に、その姿をちゃんと目に焼き付けてほしいという期待。
二つの感情が、彼女の潤んだ瞳の中で複雑に混ざり合っていた。
「ねえ、佐藤くん。凛ちゃんのこのドレス、光沢のあるサテンと、落ち着いたベルベット、どっちが『君の隣』に立つのに相応しいと思う?」
香織さんが二種類の生地を凛の白い肌に合わせて見せる。
凛は俺の答えを待つように、じっと、逃げ場を許さない瞳で俺を見つめてきた。
「……。俺はサテンの方がいいと思います。凛の黒髪に、その艶が一番映えると思うから」
俺が本音を漏らすと、凛が「ふえ……」と小さく声を漏らして俯いた。香織さんはニヤリと笑い、作業を進めていく。
生地の選定や細かなデザインの打ち合わせを含め、30分ほどが経過した。
凛の採寸が終わり、次に俺の番になった。今度は凛が、俺の隣でじっと、俺の背中や胸囲が測られる様子を眺めている。
「一真、意外とがっしりしてるよね。なんか、悔しいな」
「何がだよ」
「私より、ずっと男の子なんだなーって。にひひ、再確認」
いつもの相棒のノリ。
けれど、香織さんはその空気を見逃さなかった。
彼女は俺の胸板にメジャーを当てたまま、ふっと真面目な顔で俺たちの顔を交互に見た。
「佐藤くん。凛ちゃん」
「は、はい」
「君たち、本当にお似合いのカップルよね。実際、付き合ってるの?」
香織さんの視線はただの好奇心ではない。
それはまるでこれから一生に一度の衣装を仕立てる相手が、どれほどの覚悟で隣り合っているのかを問うているようだった。
凛は一瞬で石像のように固まり、俺のシャツの裾をギュッと、指先が白くなるほどの勢いで握り締めた。
彼女は顔を上げない。けれど、俺の腕に触れる彼女の震えが、痛いほど伝わってくる。
ここで「親友です」と笑って誤魔化すのは簡単だ。学校での俺たちなら、それが正解だろう。
けれど、俺は、昨日の夜に彼女と、画面越しに約束したんだ。
――『「そうなんです」って即答する』
俺は彼女の握っている手の上から、自分の右手をそっと重ねた。
そして香織さんの目を真っ直ぐに見つめて、一文字ずつ噛み締めるように言い切った。
「はい。そうなんです。俺の、大事な彼女です」
「――――っ!!!」
隣で凛が短く息を呑む音が聞こえた。
彼女は顔を上げないまま、俺のシャツに顔を押し付け、声を殺して震えていた。
香織さんは一瞬だけ意外そうに目を見開き、それから今日一番の、とても晴れやかな声で笑った。
「ははは! 即答じゃない! 合格よ、佐藤くん!」
「……。え?」
「いいわ。最高に綺麗な衣装、私が責任を持って仕上げてあげる。世界で一番幸せな騎士と聖女にしてあげるから、文化祭、期待してて!」
******
採寸を終え、俺たちは店の扉を開ける。
九月の風が、火照った顔を優しく撫でていく。駅までの道、俺と凛は、どちらからともなく恋人繋ぎで手を結んだ。
「…………一真」
「なんだよ」
「…………バカ。カッコよすぎ。本当に、即答するなんて思わなかったんだもん」
凛は俺の腕にしがみつくと、幸せそうに目を細めた。
「お前が昨日言えって言ったんだろ。俺は相棒としての任務を遂行しただけだ」
「嘘ばっかり! あの時の声、全然『任務』なんかじゃなかったよ。ありがと。私、今、人生で一番のバフをもらっちゃった」
凛は立ち止まり、俺の正面に回った。
「一真。ずっと、私の隣にいてね?」
「ああ。約束だ」
俺たちが笑い合い、駅へと歩き出そうとした、その時だった。
「――あ、一真くん、凛ちゃん言い忘れてたわ!」
香織さんが店の扉から顔を出し、俺たちを呼び止めた。
「私の本名、星名香織。そう、ららの姉よ。えへへ、びっくりした?」
「「――――――――っ!!??」」
本日最大の衝撃に、俺と凛は声を揃えて声にならない絶叫をした。
「ららが言ってたのよ。『あんなに息が合ってる二人は見たことない。でも、まだ親友なんて言い張ってるバカ二人組だから、お姉ちゃんがトドメ刺してあげて』ってね」
「…………星名さん、あいつ……!!」
俺が頭を抱えると、香織さんは眼鏡を指で直しながら、不敵に微笑んだ。
「安心して。ららには内緒にしておいてあげるわ。あの子、すぐ学校中に広めちゃいそうだし。でも、いつか自分たちの口で、あの子にも、周りにも教えてあげなさい。それが礼儀ってもんでしょ?」
香織さんはウィンクを一つ残すと、今度こそ店の中へと消えていった。
「………………」
「………………」
静まり返る路地裏。俺と凛はしばらく顔を見合わせ、
「…………にひひ。これ、完全に星名さんの手のひらの上だったね」
「……笑えねーよ。心臓に悪すぎるだろ」
俺は深く溜息をついたが、繋いでいる手の力だけは、緩めることができなかった。
学校では、まだ「他人のふり」が必要かもしれない。
けれど、この街のあちこちに、俺たちの「真実」を祝福し、見守ってくれる人が増えていく。
文化祭という名の巨大なステージ。
そこに向けて、俺たちの物語は、最強の衣装と、誰にも負けない絆を武器に、また一段と熱く、甘く、ログインを加速させていった。
俺は、隣で楽しそうに「ご褒美にアイス食べよ!」とはしゃぐ凛の手を、もう一度、今度は俺の方から、強く握り締めた。




