相談人と猫 1
「ほら、お行きなさい」
柵の隙間からシルクのような毛並みの猫が飛び出す。
猫はチラチラと侍女のほうを振り返りながらとてとてと歩いていく。なれた動作でまるで散歩コースに向かっているように。やがてその姿は建物の影に消えていく。それを見届けた彼女は浅く息を吐きその方向をじっと見つめる。
「今度こそ、帰ってこないで…お願い」
____もう二度と帰ってこないで。
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後宮は楽園。市民の中ではそういう認識がある。帝に見初められれば玉の輿。まさに夢の場所。だが、私に言わせればここは楽園などではない。
愛を求めてくる場所ではなく名声、富、権力。
それらが渦巻く歪んだ場所だ。
「子安様、また相談事です」
朝だというのに侍女の翠嵐がやけにやつれた顔で告げる。
「今度はなんですか?」
「また、飼っていた猫がいなくなったと花蓮様が仰せになってます」
「またですか……」
子安は筆を止める。
「これで、何度目ですか?」
「五回目です。今度も柵が少しずれてたようで……」
「はあ」
手で顔を覆い天井を仰ぐ。
そして、コーヒーに砂糖を三つ入れて飲み干す。
はあ、落ち着く……
後宮のお困り相談人。
誰もやりたがらない仕事だ。
妃同士のもめごと。
侍女の同士の喧嘩。
落とし物の相談。
恋煩い。
意味のない愚痴。
酒に付き合ってくれなど言ってくるものもいる。
そんなものを聞いて回るのが子安の仕事だ。
「さすがに、多すぎではないですか?」
「はい……ですが、大変慌ててまして…」
「はあ」
付き合っていられない。
子安は内心で呟く。
しかしこれは与えられた役目。
適当にはできない。
面倒だが、動くしかなさそうだ。
子安が重い腰を上げようとした、その時だった。
「私も手伝います」
知らない声が入り口からしていた。
振り向くとそこには子安の胸元くらいの身長の小さな女性がいた。
「あなたは?」
「最近、後宮に入った杏華です」
彼女は白い歯をにかっと見せ笑う。
「それで下級妃がなぜこんな何もないところに?」
「暇でしたので」
「暇って……あのですね、ここは遊ぶところではありませんよ」
ただでさえ神経をすり減らす内容の相談事ばかりなのにこんなものまで来られてはたまったものではない。
「さ、帰ってください」
子安は彼女の背中を軽く押し外に追い出そうとする。
「いーやーでーす!!」
その小さな体からは想像できないほどの力で抵抗してくる。
「こら!抵抗はやめてください!」
扉に引っ付く彼女を引きはがそうとするがなかなか離れない。
扉に彼女の爪が深く食い込み傷ができていた。
この部屋は帝から特別に与えられた部屋。傷つけられてはたまらない。
子安は彼女から手を離し問う。
「どうすれば帰ってくれますか?」
「帰りません。暇ですから」
腰の手を当てて、胸を張り、清々しいほどに言い放つ杏華。
「……言い方を変えます……どうすれば、満足しますか?」
「ふ、それはですね」
小さな人差し指を立て子安に向ける。
「私にも猫探しを手伝わせてくれたら、満足します!」
「はあ」
何て面倒な人なんだ。
心の中でぼやきながら子安は少し間を置き口を開く。
「何も面白くないですよ?」
「いえ、面白いです」
「あなたは変わった人ですね……ただの、猫探しですよ?」
「ただの、猫探しではないかもしれませんよ」
杏華の雰囲気が先ほどの騒がしい彼女から打って変わって静かなものに変わる。目は細くなりまるで三日月のように口を歪めて笑う。
「どういうことですか?」
「もし、人為的に逃がされていたら……どうしますか?」
「人為的……ですか」
その可能性は考えていなかった。ただの不注意で逃がしていただけ。
そう、思いこんでいた。
子安の手は自然と喉元を軽く触る。
一考の余地はあるのか?
「どうですか?手伝いますよ?」
にこにこしながら子安に近づき下から笑いかけてくる杏華。
彼女の髪からは太陽と少しの花の匂いがした。
この匂いは……スイレンの花の匂いだ。
「はあ、満足したら帰ってくださいね?」
「満足、したら帰りますね」
彼女からは全く帰る気配はしなかったのであった。
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「ここがその中級妃さんの宮ですか」
杏華は首が痛くなるほど上を見上げて目の前にそびえたつ木製の宮を見つめ言う。
「私は中に入って状況を確認するのであなたはここに……」
「何してるんですかーおいていきますよー?」
杏華は何も考えずずんずんと前に進んでいた。
「彼女に怖いものはないのですかね……」
下級妃が中級妃の宮に恐れを知らず入る。
異常な光景だ。
子安は小さくため息を吐きながら仕方なく彼女の後に続くように宮に入っていく。
「子安!!やっと来てくれたのね!」
部屋に入るとまず、花蓮が子安を見つけて椅子から立ち上がって駆け寄ってくる。
「私の鈴ちゃんが!」
「とにかく落ち着いてください」
子安は花蓮を落ち着かせて椅子に座るように促す。そして自分も同じように向かいの椅子に腰を下ろす。
「今回も、ですか?」
「そうよ!」
悪びれもせず花蓮は言い放つ。
「柵がずれていてそこから逃げ出したようなの!」
子安は部屋の入り口に置いてある猫用の柵を視線の端に捉える。
「へえーこれが柵ですか、埃がついてますね?」
「何をしている?」
「現場の確認です」
悪びれもせずに言う。
「誰ですか?この方は?」
「ああ、彼女は…」
「私は杏華。最近、後宮に入った下級妃です。よろしくお願いします。花蓮様」
先ほどまでのやんちゃぶりが嘘のように綺麗な動作でお辞儀をする杏華。その華麗にさに子安と花蓮は見惚れてしまう。
「か、下級妃がなぜ私の宮に入ってるのよ」
「それは……なんといいますか……」
子安は喉元を手で撫でる。
どう言えばいいのだ……
しつこいので連れてきました…はだめだな……
子安が頭の中で必死に言い訳を考えていると杏華がはっきり告げる。
「真相解明のためです」
「真相解明?」
「ええ」
「これはただの不注意よ?」
「いえ、これは故意にやられたものです」
杏華はまた目を細めて三日月のように口を歪めて笑う。その表情は普段の彼女とは正反対の鋭く冷たい物。まるで怪物に変身でもしたかのようだ。
(一体彼女は何者だ?)
増える疑問。
絶えない相談事。
それらが今彼女の手によってさらに加速していく。
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