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整えられた庭園の茂みに火が掛けられて、ゆっくりと燃え広がっていく。
風が吹くと火は生き物のように舌を伸ばし、新たな茂みへ喰らい付いて何もかもを真っ赤に染め上げてくれる。
舞い散る火の粉も、肌を刺す様な熱も、そして早くも炭化して燻るばかりとなった、赤熱した木々も、見ているととても胸がすく。
あの汚らわしい東屋が焼け落ちる時なんて思わず笑ってしまいそうになった程よ。
「あー勿体ない。本当に焼いちまって良かったんですかい?」
しばらく眺めていると、指揮を執っていた浅黒い肌の男が寄ってきた。
東方でも南部の出身者で、あちらの王子が寄越した将の一人ね。
好戦的で残忍。粗暴な振舞いや言動を見せるけれど、所作一つ一つを見ていると気品が滲み出ていて、それなりの出自なのが分かる。
戦場で育ってきたという、あちらの王子にとっての側近と呼べる方でしょうあ。
「敵が薔薇園へ逃げ込んでしまったのですもの。お父様がおふざけで迷路にしている所もありますから、地形を知らずに乗り込むとこちらにも被害が出てしまいます」
「死ぬのはソイツに力が無かったからですよ。まあ俺はこういうの好きですけど、武芸で勝ってやったぞと誇りたがる奴は多いんでね」
剣や槍、弓などの扱いについては素人なので、個人での戦いを好む方々の感覚は分かりませんが。
「ここまでに満足のいく戦いなど無かったでしょうから、少しは機会を作って差し上げるべきだったかしら」
「ははっ、まあ楽に勝てて実入りが大きいなら文句は無いですよ。不満が出たら適当に決闘でもさせてやれば満足する連中ですからね」
「なら良かったわ」
本当に戦いらしい戦いが無かったから、それをさせろと言われてしまったら困っていたでしょう。
王国は半年足らずの間に凄まじい速度で疲弊していった。
王族同士の殺し合いから始まり、伯爵との対立、共倒れ。
かき集めた財で粗雑な傭兵を雇い入れ、制御も出来ず暴れ回らせ、裏では暗殺騒ぎをでっち上げて反抗する貴族らを処刑していって。
早々に結託して身を守った領土は驚くほど平穏なのに、それが出来なかった所は徹底的に搾り上げられるか、略奪目当ての傭兵団に荒らし回られて飢餓と疫病が蔓延。
戦いらしい戦いと言えば、その傭兵団との局所的なものしかなかったわね。
碌に連携もしていない質の低い傭兵相手だったからか、被害も殆ど出ていないそうよ。
「そうですシェーラ様。この国の王が死にました」
「あらそう」
男は笑って。
「相応の場を用意すると仰っていた貴女にはすまないと思っているんですがね。包囲した城から兵も臣下も見捨てて逃げ出した所を、この国の民に見付かって私刑となったそうです。小さな池へ落とされて、周りから石を投げられ、這い上がろうとすれば槍で突かれて逃げ戻っていく。少し冷え始めた水の中で徐々に体力を削られて、水も飲めば血も流し、挙句泳いでいることも出来なくなったらしく、最後は笑っちまうくらい滑稽な顔をして沈んでいったとか。知ってますか? 彼は最後の最後で自分の妻さえ見捨てて、囲ってた美女五人と最低限の騎士だけ連れて逃げ出そうとしていたんだそうです。まあ、全部殺されましたがね」
何がそこまでおかしいのか、話す彼はとても上機嫌。
王国を滅ぼすだけの戦力をと、あちらの王子にお願いして借りた方々ですから、現場で不満ばかり持たれても困ってしまいますが。
「あぁ失礼。貴女にとっては少し前まで忠誠を捧げてきた王でしたね」
「いいえ、最初からあまり興味が無かった方ですから」
「へぇ」
薔薇園が燃えていく。
遠くで悲鳴が聞こえるのは、逃げ込んだ兵士のものかしら。
「あの方の付けていた香水、下品なほど蠱惑的で嫌いだったの」
「っはは! こりゃ俺達も気を付けないといけませんね。汗臭いまま姫の前に立つなと言っておきましょう」
談笑する私達の元へ、軽装の兵が一人やってきて、彼へ耳打ちしました。
浅黒い肌を持つ青年は手にしていた槍をくるりと回し、矛先で肩を叩く。
よく切れる刃であることは道中でも見てきましたが、平気で肌に這わせてみたりと扱いに遠慮が無いのは、それだけ熟達している騎士だからでしょうか。
いえ、あちらでは戦士とだけ呼ぶそうですね。
「庭の連中はまだでしょうが、館に残ってた最後の部隊が降伏しました。殺しておきますか?」
「無駄に血を流す必要はないわ。降伏したのなら、装備を全て奪って、拘束しておいて下さい」
これで赤薔薇の館を守る者は居なくなった。
もうすっかり薔薇園から興味を失った私が館へ向かい始めると、彼も部隊を引き連れ付いてくる。
王都は落ち、王も死んだ。
ここが最後に残ったのは、戦略的価値が無かったからでしかない。
本来なら生き残りの貴族らを纏めて、この国の新たな統治政策を進めなければいけないのに、止める声を全て無視してやってきた。
目敏く付いてきた彼がずっと離れようとしないのも、ここに居る人物が原因でしょうか。
公表こそまだ行われていませんが、私は既にあちらの王子と婚約関係にあります。
私が門へ張り付いている間にお父様が進めてしまったのね。
だから、余計に私が昔の婚約者と会うのを見張りたがる。
「一応王妃は残ってますが、あそこに引き籠ってるのがこの国最後の王族の男です。適当に脅して傀儡となって貰いましょうか?」
軽薄なフリをして探ってくる。
けれど彼らの腹芸は、あの粘つく社交界のものと比べると分かり易い。
「この混乱を引き起こした人物よ。担ぎ上げても王と同じくどこかで私刑にされてしまうわね」
「そこはこっちで守りますよ。実際、攻め滅ぼした土地の統治には現地の人間を頭に据えた方が上手く回りますから」
「それが貴方の主の望みなのかしら」
「いえぇ、俺が勝手に言ってるだけです。でもそうするのなら、王子にはちゃんと報告しますよ」
雑な言い回しに、あぁ一応は警告してくれているのねと、遅ればせながら気付いた。
※ ※ ※
館への歩を進めながら、痛む頭が過去を思い起こさせる。
それは刃よりも鋭くて、ずぶりと私の奥へ入り込んできた。
私が王子と初めて舞踏会で踊ったのは、学園へ通い始める少し前の事。
「っと……」
ステップを失敗した私を彼の腕がしっかり支えてくれて、俯けた顔にささやかな笑いが降りかかりました。
「お前の様な者でも緊張や失敗などするのだな」
「すみません」
幸いにも小さなものでしたから、向かい合って踊る王子以外には知られていないでしょう。
ですが、きっと一番見られたくない相手だったことで、私は更に動揺してしまいました。
「そういえば昔は部屋に引き籠ってばかり居たからな。身体を動かすのは苦手か?」
ここ数年、ステップで失敗した事など一度もありません、そう言おうとした私は、改めて顔を挙げた先で、彼が愉しげにしていたのを見て何も言えなくなりました。
退屈だ。つまらない。お前の顔は彫像なのか。
そんな言葉が当たり前に投げかけられる様になって、どれだけ経ったことでしょう。
私は貴方にとって最高の装飾品となるべく、お母様の厳しい教育にも耐えててきたというのに。
殿方の前で笑顔を見せず、感情を悟らせず、無表情を貫く。
そうすることが貴方へ寄与すると信じてきた私を、彼は酷く鬱陶しく思っていたのだと気付いたのは、随分と後になってから。
だけど。
貴方は。
そう。
その瞬間、あの時だけは、私に向けてとても自然に笑う貴方を見た。
「問題ございません」
「そうか。ならもう少し活きの良い曲に変えてやろう」
王子が合図を送ると、穏やかだった曲調が変化して、ステップの速度と複雑さが増しました。
若者ばかりの集まりならともかく、年長者も参加する舞踏会でしたから、少々はしたないものではありましたが。
「ついて来れるか?」
「当然です」
「ではお手並み拝見といこう」
合図も無く自分勝手に調子を変えてきた王子に乗って、私も夢中になって踊った。
自分の心臓が強く鼓動を打ち、いつしか落としていた瞼も見開いて、愉しげな彼の笑顔と共に周囲か明るく照らされているの感じていました。
一度は失敗しましたが、私も踊りの練習ならば足を擦り切れさせるほどにこなしてきた。王子と呼吸を合わせ、時折悪戯の様に変化を付けてくるのさえ読み取って、自分でも驚くほど大胆に飛び込んでいく。上品な集まりと呼ぶには少々激しいものになっていることには気付きつつ、どうしても嗜める言葉が出ませんでした。
息が弾む。
床を打つヒールの音が会場を突き抜けて登っていった。
突き飛ばされる様な乱雑さの中に流れを読み取り、僅かに耐えて身を舞わす。そうしている内に彼が回り込んできて、私の腰元へ手をやって勢いを受け取り、更に大きくステップを踏む。伸ばした腕はしっかりと捕まれ、驚くほど強い力で引き寄せられた。コルセットで締め上げた腹部が悲鳴を上げているのに、何故か苦痛とは感じなかった。ヒールで足元が不安定なのに、こんなにも乱暴な動きが出来るのは、私の状態を読み取った王子がしっかり支えてくれているから。
速度が上がる。
スカートを膝で蹴っ飛ばした。
周囲で踊っていた者が付いていけなくなり、外へと逃げていった。
広がった空間を使って更に踊る。
頭の中にあるのは、自身の動きと、王子の動き。息苦しさの中で思考を振り絞り、彼の悪戯心に合わせて変調してみせると大胆にそれへ合わせてきた。
まだ。まだ出来るでしょう?
彼が師事している踊りの教師が好んでいるステップは全て把握している。
その上で彼は独自の変化を付けたがり、加速した動きの中でそれは、薄い刃の上を辿る様に繊細で、けれど着実に足元へ食い込んでくるのだから留まってもいられない。
さあこうだ。
こうしたらどうする。
王子の心が聞こえる様だった。
ちょっとだけ腹も立った。
本当に自分勝手。
きっとあの東屋での事だって、貴方にとっては些細な一幕に過ぎない。
だけど。
だけど私は。
私にとっては。
ステップを踏む。弾む様に外へ。その先に貴方が居る。受け取って。受け止めて。私を締め上げる何もかもが、破裂するみたいに貴方へ向かう。私の伸ばした手を掴んで、自分勝手に振り回して、手放したっていい、だけど最後に、そう、この踊りの様に最後は私の手を取って、あの子どもっぽい笑顔で迎えて欲しい。
曲が終わる。
もう。
終わってしまう。
きっと最後に派手なことをしたくて強引なことをしてくるに決まっている。
息を整えて。
足の痛みはまだ大丈夫。
お腹はもう、分からない。
もしかしたらヒールが外れ掛かっている。
こんなにも激しく動く予定はなかった。
けれど最後だ。
絶対に転んだりはしない。
転びたくない。
失敗なんて。
鞭が。
いいえ。
踵で強く床を踏み抜いた。
姿勢が定まる。
その向こうで、私と同じだけ息を切らしながら、私だけを見ている貴方が居る。
「いくぞ、シェーラ」
「っ、はい、イオリア様」
世界が吹き飛んでいく。
貴方が私の見る世界の中心で、横暴で、我儘で、自分勝手なのに、なのに、私を外へ連れ出してくれた。
限界まで自分を引き絞り、荒れ狂う嵐の中でくるりくるりと回って見せる。
そうして彼の元へ。
放り出された勢いのまま飛び込んで。
手を伸ばして。
その向こうで満足そうに笑う、笑う、彼が、笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑ってああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――――
※ ※ ※
――――憎悪の表情で私へ斬りかかってくる王子が居た。
世界が瞬く。
物陰に隠れていた彼が、他の者には目もくれず駆けこんで来た。
どこかから矢が飛んできて先行していた者達が崩れ落ちる。
ステップを。
いつかの様に、貴方の望む動き私には分かった。
首元を掠めて抜けていった剣が、私の髪を僅かに切り落とす。
目が合った。
「あは」
「お前だけはあああああ!!」
首のすぐ横に刃がある。
あぁ、まだ私と踊って下さるのですね、王子。
なのになんてみすぼらしいお姿でしょうか。
髪は荒れ放題で伸び切り、頬は骨が浮き立ち、片目は光彩を失ってしまっている。
剣を持つ腕も細々としていて、それではあの時の続きは出来ませんわよ。
けれどいいの。
貴方が躍りたいというのなら、例え狂人の様に変り果てていても構わない。
可哀そうな王子、ねえ、どうしてそんなに変わってしまったの。
「伏せろォッ!!」
動かなかった。
だって彼と踊っているのに、他所からの指示に応じるだなんて失礼よ。
私は手を伸ばし、身体ごと振り回す様にして剣を薙ぐ王子を見詰めていた。
えぇ。
貴方が望むのなら、私は。
「彼女の仇だああ!!」
刃が触れる。
けれど、私の目の前から唐突に王子が消えてしまった。
見えたのは、横合いから身体ごと彼へぶつかっていく浅黒い肌の青年。手に持った槍で王子の腹部を刺し貫き、押し倒してから身を離す。腰の剣を抜いた。背中に矢が刺さっている。近寄る彼へ王子は呻きを挙げながらも蹴りを放ち、身を起こそうとして崩れ落ちる。「ああああ!!」刺さった槍を引き抜いて捨てた。大量の血が彼から流れていく。目が、目は、いつしか私を見ていなかった。もう思慮も失ってしまったのか、目の前の青年へ向けて剣を振り上げ、切り結ぶ。下がった彼へ更に踏み込み、豪打を浴びせかかる。また下がる。振り下ろし、詰めて、距離を取られ、また詰めて、その度に打ち込みは弱くなっていった。
「殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる!!」
「ははっ!! だったらもう少ししゃんとして見せろよ王子サマ!!」
あからさまな大振りを嗤い、正面から王子の腹部を蹴り飛ばす。派手に吹き飛ばされた彼は悲鳴を上げて悶えながらも、自分を一度は刺し貫いた槍が近くに転がっていると気付いて掴み取る。
「おっと」
不利を察して距離を取った彼が更に距離を開けて、背後に控えていた者達に指示を出した。
引き絞られた弓の音。
一度、私を見た。
私。
私は。
呆然と彼に付けられた傷へ触れ、その血のヌメりに手を汚す。
「はぁっ、はあっ、っ、は、ああっ!」
王子は足元をふら付かせながら右手に槍を、左手に剣を持ち、ようやく私を捉えてくれた。
なのに心が動かなかった。
もう、曲が終わっていると気付いたからかもしれない。
「殺してやる……!! 彼女は、っ! 彼女だけが俺を分かってくれたんだ!! お前みたいな人形にこの気持ちが分かるもんか!! 真実の愛も知らず、権力と財にすり寄るばかりの毒婦が!! 新しい王子の隣は気持ち良いか!? 滅んでいく王国を眺めながら、さぞ気分良く俺を嗤ってきたんだろうな!? そうして生涯薄っぺらい欲に塗れて死んでいけ!! ずっとずっとお前の凍り付いた表情が気に入らなかったんだよ! お前は人間なんかじゃない! っ、俺は、見付けたんだ……!! 人が人らしく生きる為に、本当、に、必要な、ものが……、彼女はそれを知っていた。だから、俺は……彼、じょ、を…………、お前なんかに分かるもんか。お前なんかに人の心がっ、誰かを愛する気持ちなんて分かるもんかぁぁぁぁぁぁぁ……………………ぁぁぁぁ――――」
崩れ落ちた彼へ歩み寄っていく。
もう立てもせず、呼吸すら怪しくなって、なのに瞳はじっと私を呪い続けていた。
「気を付けて下さい。まだ生きてます」
無視した。
流れ出た王子の血に膝をついて、彼の頬を両手で包む。
顔を寄せる様に周囲がざわつくけれど、ただ目を覗き込んだことが分かると静かになった。
口を開く。
なのに、何を言えばいいのか分からない。
心が停止したまま、ただ彼の冷たい頬の感触に、自分の心臓まで凍り付いて行くのを感じる。
「ねえ」
親指で彼の目元を撫でた。
軽く触れただけなのに、王子の肌が破けて、なのにもう血が湧いてこない。
「ねえ」
私は、知っているのよ。
知っているのよ。
「ねえ」
ずっとずっと貴方だけを見てきた。
裏切ったのは貴方じゃない。
私を外へ連れ出したのは貴方じゃない。
なのにどうして手放すなんて残酷なことをしたの。
違う。
違う。
今は、そんなことはどうでもいい。
流れ出ている彼の命が、膝を濡らす。
「王子、私は――――」
貴方を。
「あぁ、アルメリア……やっと、君の所へ、行け…………」
※ ※ ※
演奏は終わった。
王国は滅び、攻め入った隣国へ吸収されることが正式に決まった。
危ぶまれていた北方からの介入は無く、また国内からも今回の介入は広く受け入れられているそうよ。
元より全てその予定で事は進められてきた。
辺境伯の離脱は王国を徹底的に瓦解させ、王は負債に押し潰されて自壊していく。
そんな所へすぐ攻め込むなんて馬鹿のすることよ。
私達は座して滅びを待ち、求める声に応じて初めて出ていけばいい。
離脱したその場で攻め込めばアーベンドルテ家は裏切り者の汚名を被るだけ。
なのに荒れた国へ攻め込めば、正義の名の元で邪魔者を一掃できる。
敢えて王の元へ残した者達にほんの少し背を押させてやれば、笑ってしまうくらい簡単に喜劇を演じてくれたのだから、せめて王には出演料くらいは支払いたかったのだけど、自ら舞台を降りて躓いたのだから仕方ないわよね。
アーベンドルテ家は、疲弊し暗黒に落ちた王国を救うべく、新たな主を連れて戻ってきた。
悪逆の限りを尽くした王族は皆殺しにされ、人々は平穏を取り戻したのだそうよ。
ふふふふふ。
この計画に問題があったとすれば、本当に土地ごと荒れ果ててしまえば奪う価値も無くなってしまう事かしら。
だから実行は秋が終わるまででなければいけなかった。
冬を迎えてしまえば来年の春までに相当数の民が死んでしまう。
そうなれば立て直すまでに何年掛かるか。
今も大急ぎで溜め込んでいた食料物資が流し込まれて、冬越しへ向けた準備が行われている。
「素敵な策でしょう?」
荒れた髪へ指を通して、静かに彼の頭を撫でる。
こんなになるまで手入れもしないだなんて、後で整えて差し上げなければいけないわね。
「いつでも私は戻ってこれた。王を徹底的に責め立て、分かり易い悪になって貰えば、それを討って諫めた者は英雄になれたのよ。貴方がたった一言、私に言えば、いつだって」
指先が頬へ触れた。
裂けてしまうから、掠めるほどにしか力は込めない。
血も枯れ果てて、けれど月明かりの中であれば青白い肌も絵になるかしら。
静まり返った赤薔薇の館で、世界は明日を迎えようとしているのに。
「ねえ、王子」
私は刈り取った彼の首に頬を寄せて、間近からその瞳を眺めていた。
ずっと向こうを見詰める瞳。
そうよ、貴方はいつも私なんて通り越して外ばかり見ていたわ。
今よりももっと輝いた瞳で、今よりももっと豊かな笑顔で、息を弾ませて。
でも、ようやく静かになった。
何も言わない貴方はもう私を置いて行かない。
何も言わない貴方はもう私を裏切らない。
貴方はもう何も言わず、永遠に遥か向こうを見詰めたまま、私の元に居てくれる。
最初からそうしていれば良かったのに。
力も無く、能も無く、けれど輝かしかった王子。
いつか夢見た景色を共に眺めながら、背後で扉の開く音を聞く。
「私は外へ出られたかしら」
我が家は王国を出て、新たな天地で立場を固めるべく精力的に働いている。
あちらの王子との婚約が発表されれば、私も向こうでやることが増えていくでしょう。
あの頃の、部屋に閉じこもっていた私はもう居ない。
こんなにも周囲を動かして、貴方の元へ辿り着いたのだから。
その筈よね。
月明かりの中、王子は何も言ってくれない。
「……王子」
足音が背後に立つ。
月明かりを受けた矛先がこちらに向いている。
私を見下ろす浅黒い肌の青年は何も言わない。
「ねえ」
どうして謝って下さらなかったのですか。
貴方が許しを請うたなら、私はいつでも駆け付けたのに。
貴族の誇りも、家の方針も、全て投げ打っても良かった。
いいえ、きっと私は許さなかった。
逃げ道を用意して、潜り込んでくる様を想像して嗤っていた。きっと貴方は来ると勝手に思い込んで、惨めな様を見てやろうと待ち構えていたのよ。
だって、貴方はあの女を愛していた。
こんな事をするまでもなく、あの日、彼女の死を知って崩れ落ちた貴方を見た時に確信していたのに。
なのにどうしてこんなことを続けてきたのでしょう。
それでも、私は貴方を――していた。
「痛い……痛い…………あぁ」
あの東屋で貴方へ伝えられていたら。
ため息が聞こえた。
振りかぶった槍がこちらを捉え、真っ直ぐに落ちてくる。
私は王子の首へ顔を寄せた。
想いを、今。
「棘が、痛むのです、王子」
なんて。
「……………………ふふ」
今更言っても、もう遅い。
ここまでお付き合い頂き、ありがとうございました。
短編分で一区切りしましたので、一度完結扱いとさせて頂きます。