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男の娘と地獄図書館  作者: 八木鈴世
2/2

後篇

後篇です。

12.叫喚地獄

本の山から身を起こすと、ヤスは愛想よく笑いかけた。

「や、やあ、君たち、無事だったんだね。」

 希望も辰子もツバメさんも、不信と困惑が入り混じった複雑な表情で、彼を見つめた。

 桜はと言うと、ずっと部屋の隅のパソコンにかかりっきりで、こちらを見ようとしない。

 ヤスは作り笑いを浮かべながら言った。

「なあ、ここはお互い団結すべきだと思うんだよねえ。だってそうだろ? ここは危険でいっぱいだ。同じ危機に瀕した者同士が争うことほど愚かなことはない。ここは助け合ったほうが、お互い利益にならないかい? 」

 ツバメさんは口を「へ」の字に曲げながらも頷いた。

「……正論だな。」

 ツバメさんもそう言っていることだし、希望も同意せざるを得なかった。

「頭数はあったほうが有利かもね。」

 辰子は不承不承と言った表情だ。

「ちっ! でもまあ、希望がそう言うなら。けど覚えておけよ? また希望に手を出しやがったら、この鉄パイプでドタマかち割って、ここに置き去りにしてやるからな! 」

 ヤスは「おー、怖い」と肩をすくめた。

「ひどい言われようだねえ。でも君らは俺に助けられたんだぜ? 」

 それを聞いて、三人は顔を見合わせた。

 どういうことだ?


 ヤスは隣室の扉を開け、手招きをする。

「この地下4階にだけ、何も危険が無かったろ? それは俺がここの罠を破壊したからだよ。」

 希望と辰子は、ヤスが指し示すその部屋を覗き込んだ。

 辰子は眉をひそめた。

「何だ、こりゃ? 」

 希望はその物体をじっと観察した。

 それは大きな時計の残骸のようにも見える。

 無数の金属製の歯車やバネやワイヤーが散らばっている。物騒なことに、その残骸の中には、大きな斧の刃のような物もあった。そして何よりも奇妙なのは、その残骸の中に2つのお面が混じっていたことだ。それは牛と馬を象っていた。

「何だよ、こりゃ? 」

「からくり人形、いやロボットかな。」

 ヤスは頷いた。

「その通り。」

 希望は眉をひそめた。

「しかも人を襲うロボットなのかな。」

 ヤスは皮肉っぽい微笑を浮かべた。

「こいつらが、この部屋の入り口で待ち構えていたのさ。侵入者がやって来たら、戸口の影から、この大きな斧を振り降りすんだ。俺がこいつを壊しておかなければ、今ごろ君らの首は床にボーリングのボールみたいに、転がってたかもねー。」

 辰子はちょっと仏頂面だ。

「嫌なロボットだな。けどよ、そういうあんたは、どうして無事だったんだ? 」

「反対側の戸から入って来たからだよ。それでも自動追尾の機能でもあるみたいで、俺を襲って来やがったけどね。」

 希望はちょっと意外に思った。

「よく、無事でしたね。」

 ヤスは得意げに笑った。

「下の階の連中に比べりゃ、こんなのどってことないからね。」

 下の階の連中?


 その時、皆の後ろのほうから、桜が声をかけてきた。

「システムに部分的だけど、入り込めたと思うよ? 」

 全員が、桜の背後からパソコンの液晶モニターを覗き込んだ。

 図書館の立体見取り図が、画面の中でゆっくり回転している。

 地下8階。それぞれの階に正方形の大きな部屋が中央にあり、東西南北に4つずつ小さな部屋が隣接している。この耶麻やま文庫の構造だろう。

 辰子が一番気になっている質問をした。

「セキュリティの解除は出来そうか? 」

 桜は残念そうに首を横に振った。

「ううん、閲覧ができるようになっただけだよ? 管理者権限はまだ手に入らない。」

だが、そのCGを見た時、希望の頭の中で何か閃光のようなものが走った。

そうだ、この構造は……

「これ、地獄だよ。」

 辰子は頷いた。

「ああ、針の山に首括りの縄、それが地面の下の地下室で起こったと来る。こりゃ地獄だな。」

「いや、比喩や例えじゃなくて、本物の地獄だ。この建物は、仏教の地獄を象っているんだ! 」

 ツバメさんが興味深げに、口元を右手で抑える。

「なるほど、『往生要集』や仏典に出てくる八熱地獄かな? 」

 希望は頷いた。

正法念処経しょうほうねんじゅきょうなどの仏典では、地獄は八階層になっていて、中央に巨大な地獄があって、それは城壁に囲まれている。その東西南北に門があって、その門の外には4つずつ小規模な地獄が付属している。この建物の作りそのものだ。」

 今度はツバメさんが頷く。

「なるほど、上から等活地獄、黒縄地獄、衆合地獄、叫喚地獄、大叫喚地獄、焦熱地獄……」

 辰子は怪訝な表情だ。

「何が、なるほどなんだよ? 」

 希望は、モニターの見取り図を指で示す。

「罠や殺人が、これらの地獄の責め苦と一致しているんだ。地下1階は等活地獄、ここでは罪人は互いに殺し合いをすると言う。田中さんが何者に殺された。地下2階は黒縄地獄、木野さんは」

 桜が頷いた。

「黒い縄で殺されたよね? 」

「そう、地下3階は衆合地獄。ここに落とされた罪人は、巨大な石の山の間に追い込まれ、その山に挟まれてペシャンコにされるという。針の山も、ここにある。」

 辰子は辟易した顔だ。

「なーる……、地下3階が一番分かりやすいな。」

「そして、ここ4階が叫喚地獄。地獄の獄卒に武器で追い立てられ、狩りたてられるという。」

 辰子がさっきの部屋をチラ見する。

「あの武器を持ったロボットの残骸が、それか。」

 ヤスが得意げに言う。

「そいつを俺がやっつけてやったんだ。君たちを守るためにね。」

「でよ、この下の5階はどんな地獄なんだ? 」

「大叫喚地獄。責め苦は叫喚地獄とほぼ同じだが、その苦しみは十倍だという。嘘つきが舌を抜かれるという有名な拷問が行われるのも、そこだ。」

「十倍だあ? 」

「そう、十倍だ。」

 後ろでヤスは不満げにつぶやいた。

「シカトすんなよお。」

 しばらく黙って考え込んでいたツバメさんが、ここで顎をさすりながら言った。

「なるほど、この図書館は最初から地獄を意識して建てられたというわけだな。」

 希望は、ツバメさんを見た。

「やはり設計段階から、ですか? 」

「そう。まず、この図書館の入り口に人工の小川があったけど、その名は正途川しょうずがわ。これは三途の川の別名なんだ。」

 希望はツバメさんの顔を見た。

「じゃあ、閲覧室のあの巨大な鏡は、閻魔王が罪を暴くとき使うという、「浄玻璃の鏡」だったんでしょうか? 」

「だろうね。あの鏡の両脇に貼られていた神の名前、泰山府君と黒闇天女。あれは閻魔王に、人間の悪行と善行を報告する神の名前だ。」

「つまり閲覧室が、閻魔王の法廷を象ったものだったわけですね? 」

「そう考えると辻褄が合う。そしてこの図書館の創立者達が、亡者を裁くと言う地獄の十人の王だろう。」

 希望は首を傾げた。

「でも、ここの創立者は九人だと聞いていますけど? 」

「いや、数は合う。閲覧室に通じる廊下の肖像写真は全部で十人だったろう? 」

 ここで桜が、パソコンを指し示した。

「創立者は九人だったけど、理事長の息子さんが理事に加わって十人になったみたいだよ? 」

 ツバメさんは、大きく頷いた。

「地獄の十王の一人、太山王は、閻魔王の息子なんだ。」

「じゃあ、この図書館の名前、耶麻やま文庫と言うのは? 」

「閻魔王は、もともと天界の神様で地獄に出向してきているんだ。閻魔王の天界での名前は、夜摩天やまてんだ。そこにひっかけたんだろう。」

 桜は目をパチクリさせている。

「へえ、エンマ様って、もともと天国に居た神様だったんだ。」

「一説には、世界で一番最初に死んだ人間とも言われている。」

「じゃあ、地獄の鬼の正体は何なのかな? 」

「魂を持たない輪廻転生しない存在とも、あるいは餓鬼道か畜生道の一部で、地獄に堕ちる程でもない悪人が、地獄の労働者として働かされていると言う説もある。」

 どうでもいいトリビアになってきた。


ここで辰子が不満げな表情を浮かべた。

「それはいいけどよ、何でその地獄図書館が、俺たちを殺そうとするんだ? 」

 それはもちろん希望にも分からない。

 ツバメさんも黙り込んだ。

 この図書館は半世紀以上の歴史を持つ。それまで、こんな惨事は無かったはずだ。

 それがどうして今頃?

 ツバメさんがつぶやくように言った。

「おそらく何かスイッチがあったんだろう。それが何らかの理由でオンになった。」

 希望はツバメさんを見た。

「スイッチ、ですか? 」

「うん、半世紀以上、普通の図書館だったここが、突然こんなことになったんだ。何か原因があるはずだ。」

 希望は冷静に考え込んだ。しかし思い当たるようなことは無い。せいぜいのところ……

「本のリスト・チェックをしたことでしょうか? それがスイッチになったとか。」

「それはない。ここの本の整理は数年おきに行われていた。」

 ここで希望は、この図書館の本が盗難にあっていたことを思い出した。

 そう、ここから持ち出された本が、古書のオークションに出されていたっけ。ひょっとしたら、これかもしれない。

 希望はその話しをかいつまんでツバメさんに説明した。

 ツバメさんはそれを聞くと、押し黙って考え込んでいる。


 ヤスはと言うと、ハブにされて、ふてくされたのか、一人で椅子に腰かけ、つまらなそうに足を振り回している。


 ここで桜が振り向いて、モニターを指差した。

「ちょっと見て。図書館のセキュリティ・システムの中で、変なプログラムが動いていると思うよ? 」

 希望もモニターを睨みつける。

「そいつが、この地獄を管理しているのかな? ハッキングできないのか? 」

 桜は画面の隅で稼動しているウインドウを指さした。

「このプログラムへのアタックは、やっているよ? 」

モニター上で凄まじい速度で文字列が流れる。

「あれ? 」

 ここで桜は怪訝な表情を浮かべた。

 モニターに突然、真っ白なフレームが表示されたのだ。


 希望も、そのフレームを覗き込んだ。

「なあ、桜。これって」

 桜は頷いた。

「うん、どう見ても、チャット・ルームだと思うよ? しかもこれ、図書館のセキュリティ・システムに実装されているものみたいだよ? 」

 そう言って、桜は「こんにちは」と打ち込んでみた。

 すると、即座に「こんにちは」と言う返信が返って来た。

「誰か居るみたいだよ? 」

 その桜の話しを聞いて、全員がモニターを覗き込んだ。

 桜は、キーボードを叩く。


 あなたは誰?

「退屈な質問だ」

 あなたはこのシステムの管理人ですか?

「違う」

 では外部からアクセスしている人ですか?

「違う」

 ではあなたはプログラムですか?

「失礼なことを言うな」

 あなたは人間ですか?

「人間でもあり、人間でもない」

 あなたは、かつて人間だったことがありますか?

「かつて人間だったこともあり、人間ではなかったこともある」


 これらのやり取りを見て、ヤスがつまらなそうに言った。

「ふへ。こりゃ、いかれてるね。」

 希望も同意せざるをえなかった。わけが分からない。

 桜は、再びキーボードを叩いた。


 あなたは誰?

「退屈な質問だ」

 あなたは誰?

「退屈な質問だ」

 あなたは誰?

「退屈な質問だ」

 あなたは誰?

「退屈な質問だ」

 

 しかし、桜は負けてはいない。ちょっとムキにすらなっていた。

 桜は根気良く、同じ質問を打ち込み続けた。

 すると、


 あなたは誰?

「名前は忘れた。私の歴史など無意味だ。だが人は私を地獄と呼ぶ。君らもそう呼ぶがいい。地獄と。」


 今度は辰子が、はからずもヤスと同じセリフを言う。

「何じゃこりゃ? いかれてるぜ。」

 桜は質問を続けた。


 田中さんや木野さんを殺したのは、あなた?

「そうだ」

 ぼくらを殺そうとしているのも、あなた?

「殺そうとしているのではない。試しているだけだ」

 あなたの目的は何ですか?

「図書館の拡張だ」


 桜は振り向いて、皆の顔を見た。

「どういう意味なのかな? 」

 もちろん、誰も分からない。

 図書館の拡張?

 桜は、再びキーボードを叩いた。


 私たちを攻撃するのは、どうしてですか?

「図書館の拡張のためだ」

 どうして私たちを攻撃すると、図書館が拡張するのですか?

「退屈な質問だ」

 私たちを解放してくれませんか?

「それはできない」


 ここでツバメさんが、桜に言った。

「ちょっとここで『ハイドラ』と入力してみてくれないかな? 」

「ハイドラ、ですか? 」

「そうだ。」

 唐突な提案にちょっと戸惑いながらも、桜は言われた通りの言葉を打ち込む。


 ハイドラ

「退屈な挑発だ」


 全員が怪訝に顔を見合わせた。

 挑発? この意味不明な言葉がどうして?

 ツバメさんは、さらに桜に言った。

「今度は『嘆きの構造体』と打ち込んでくれないかな。」

 桜は言われた通りにする。


 嘆きの構造体

「わかったわかった、ヒントをやろう」


 突然、チャット用のフレームが、スッと消えた。

 代わりに図書館の3Dの見取り図のCGが映し出された。

 その見取り図の各所で赤い印が点滅している。

 希望はその赤い光を見て言った。

「これは? 」

 桜はちょっと驚いたように言った。

「図書館のドアの自動施錠システムに入り込めたみたいだよ? 」

 ここでツバメさんが覗き込んだ。

「鍵を解除できるかな? 」

 桜は頷いた。

「やってみます。」

 ここで後ろのほうから、ヤスが声をかけてきた。

「ドアを開けるのはやめたほうが……って、手遅れか。」

 そう言って、ヤスは椅子から立ち上がった。


13.大叫喚地獄

 ぎーっ! と軋むような音をたてて、地下5階へと続くドアの戸が開いた。

 奥の方から、カタカタ、ジージーと機械のような音がする。

 一同は立ち上がった。

 辰子は桜に言う。

「この奥にも罠がありそうだな? 」

「あると考えるのが自然だと思うよ? 」

「ハッキングで解除できねえのかよ? 」

「まだ、そこまでは……」

「希望の話しだと、ベロを抜かれる地獄だってか? 」

 辰子は鉄パイプを握りしめながら、戸口に向かってゆっくりと歩を進める。

 

 戸口の奥から、奇妙な人影が現れた。

 暗がりの中から進み出るにしたがって、それの輪郭がはっきりしてきた。

 希望は目をこすった。自分で見た物が、にわかには信じられなかったからだ。

「お、鬼? 」

 間違いなくそれは、地獄絵図に出てくる鬼の獄卒に間違いなかった。

 全身真っ赤で、筋骨たくましい身体。ボロの褌以外は何も身につけていない。顔は犬のような形をしている。

 そして、手には鉾のような武器を持っている。

 ヤスは後ろから言った。

「下の階には、あんなのがウヨウヨいるんだ。俺も殺されかけて、ここに逃げて来たんだよ。」

 辰子が怒鳴る。

「そういうことは、早く言えっての!! 」

「だって君ら、俺のことをハブにして話を聞かなかったじゃん。」


 しかしここで辰子は「ふふん」と不敵な笑みを浮かべた。

「まあ、いいや。さあ、早くかかって来い。」

 犬の獄卒は鉾を振るいながら、遅いかかってきた。

「隙だらけだっつーの! 」

 辰子はそう怒鳴って、鉄パイプを振るった。

 同時に獄卒の頭部が、吹っ飛ばされる。

 その瞬間、それは白い粉末になって、パサリと床に崩れ落ちた。

 ツバメさんは、その粉末を手に取って調べている。

「やはり、だ。同質量の金属灰に……」


 桜は感心したような、呆れたような顔をしている。

「ゾンビは怖がってたくせに、鬼は平気なの? 」

「こんなの、ただの犬ころじゃねーか。感染さえしなけりゃ、怖かねーよ。」


 希望は階下を見下ろした。

「ヤスさん、下にはあんなのがいっぱい居るんですね。」

「数えたわけじゃないけど、20人くらいは居たよ。」

 辰子は鉄パイプを振った。

「それくらいなら、行けそうだ。」

 ツバメさんが眉をひそめた。

「大丈夫かい? 勝てるのかい? 」

「ああ、ありゃまるで弱い。隙だらけというか、敵の居る方に向かって闇雲に武器を振り回しているだけ、というか。」

「戦闘能力は低い、と? 」

「ああ。それに奴の身体は、思ったよりも脆い。俺、そんなに力を入れた覚えは無いのに、首があっさり飛んじまった。」


 ここで希望は皆の顔を見回した。

「ぼくは、もう完全に足出まといだ。ツバメさんに、余計な負担をかけたくない。ぼくはここに残ろうと」

 と希望の言葉が終わらないうちに、辰子が割って入った。

「ふざけんな、俺たち三人は、裏切らないって誓い合った仲だろ。」

「裏切るって、これは違うだろ。だいたいそれは小学生の頃の話」

「ツバメさんが抱っこに疲れたら、俺が代わりにおんぶしてやらあ。」

 ここでヤスが口をはさむ。

「あるいは俺が、一緒にここに残って、希望ちゃんを守ってあげ」

 ここでツバメさんが、ひょいと希望を抱き上げた。

 これで決まり、だった。


 鉄パイプを持った辰子が、先陣をきる。

 まず三つ目の鬼が、槍を持って突進して来たが、辰子は懐に飛び込み、鉄パイプで鬼の頭部を叩き潰した。

「豆腐だな、こりゃあ。」

 続いて、牛の頭部を持った獄卒が、刀を振り回して来たが、辰子はそれを鉄パイプで叩き落とし、顔面に突きを食らわした。

 そいつらは白い粉末となって、パサリと床に崩れ落ちる。

「へへっ、楽勝楽勝!! 」

 辰子の顔には、余裕の笑みすら浮かんでいる。剣を握った辰子は、ほぼ無敵だ。こういう時は、実に頼りになる。


 しかし、ここで突然辰子が立ち止った。

「へ!? 」

 辰子は、「何があったかわからない」と言った顔をしている。

 希望は息を呑んだ。

 辰子の胸、みぞおちの辺りに1本の矢が突き刺さっていたのだ。

 前方を見ると、弓を引いた鳥の頭を持った獄卒が5~6人ほど並んで立っている。

「い、痛ってえ……。と、飛び道具かよ。俺としたことが、しくじった……」

 辰子は、胸に刺さった矢を掴みながら、仰向けにドサリと床に倒れた。

 ツバメさんが慌てて回れ右をする。

 そして、希望と桜を覆いかぶさるようにいてかばった。

「二人とも大丈夫、じっとしていて! 」

 桜は怯えた顔つきで希望にしがみついて来た。希望も桜の背に腕をまわしてやる。

「うっ!! 」

 ツバメさんの口から、苦痛の呻き声と共に、血飛沫が吹き出した。

 それは希望の服を赤く染めた。

 そんな、嘘だろ?

 ツバメさんは、ゆっくりと床に崩れ落ちた。

 彼の背中には、5本近い矢が突き刺さっていた。


 桜は半泣きになっていた。

「そんな、嘘……!! 」

「ツ、ツバメさんっ!! 」

 希望も叫んでいた。

 

「二人とも、こっちこっち! 」

 不意にそんな声がした。

 ヤスだった。

 彼はほふく前進をしながら本棚の影へと移動をしていた。

「奴ら、低い所への攻撃は出来ないようだ。こうやって背を低くして逃げれば」

「二人をほっておけるわけないだろ! 」

「馬鹿! 見て分からないのか? そのイケメン野郎は、もう駄目だ。そっちのホルスタイン娘は死んだ。つまらない感傷で君らまで死ぬことは無いだろう? 」


 その時だった。

「誰がホルスタインだって? つーか、勝手に殺すな。」

 辰子が起き上がった。

 胸に矢が突き刺さったまま。

 5人の鳥頭の獄卒達が、鐙から矢を取り出し、再び弓をひく。

「させるかよっ!! 」

 辰子は跳ね上がるようにして立ち上がると、そのまま猛スピードで、突進した。

 同時に希望も立ち上がり、駆け出していた。

 足に激痛が走るが、そんなことは知ったことか! 希望は歯を食いしばった。

 矢が発射される前に、辰子は二人の獄卒の頭部を、叩き飛ばしていた。

 希望は一人目の獄卒を背負い投げし、二人目にそれを叩きつけた。

 あまりの急展開の反撃を受け、最後の一匹は混乱したらしい。矢の狙いを定められず、右往左往している。すかさず、そいつに辰子が鉄パイプを叩きこむ。


 辰子は「ふーっ」と息をつく。

 希望は足の激痛のため、全身油汗まみれだ。希望は額の油汗をぬぐいながら辰子を見る。

「無事だったのか? 」

「ああ。」

 辰子は、自分の胸に突き刺さっていた矢を引き抜いた。

 そして、セーラー服の下から、木製のお守りを取り出した。それには、矢の刺さった跡があった。これが身代わりになってくれたおかげのようだ。

 辰子はつぶやいた。

「楠木に救われたよ……」


 問題はツバメさんだ。

 彼の背には4本の矢が深々と突き刺さっており、ワイシャツは血まみれだった。

 だが彼はまだ生きていていて、苦しげに息をしていた。

 ツバメさんは苦しそうに肩で息をし、顔面はもう蒼白だ。

 辰子と希望は、力を合わせて、ツバメさんに肩を貸し、どうにか5階の書庫を脱出した。

 幸い、あの獄卒たちは深追いはして来なかった。奴ら、より下の書庫へは移動できないようだ。


 無事に脱出できたものの、桜は半分パニックだ。

「119番! 救急車を呼ばなくっちゃ。」

 そんなの無理だって。

 辰子は改めて楠木から貰ったお守りを見た。

「幸いこの矢はヘロヘロで弱いぞ。木製のお守りで防げたくらいだからな。多分、ツバメさんも内臓は無事だと思うぜ。」

 これは希望的観測って奴だが、希望もそれを信じることにした。

「矢を抜くのはやめた方がいいね。大出血を起こす。とにかく病院に連れて行かないと。そうすれば、絶対に助かる。」

 ヤスは両手を広げた。

「いいや、そいつはもう駄目だね。多分、肺がやられてるな。医者やってた俺が言うんだから間違いないよ。」

「まだ、そうと決まったわけじゃないでしょう? 」

「いーや。はっきり言うが、そいつは多分助からないね。足を怪我しただけの希望ちゃんとは違う。足手まといになるだけさ。」

 希望はきっとヤスを睨みつけた。

「この人は、ぼくを見捨てなかった。だから、ぼくもこの人を見捨てない。」

 ヤスは大袈裟におどけてみせる。

「おわあ、その反抗的な目つき、可愛いなあ。ますます惚れちゃうよ。」

 もう、怒る気にもなれない。

 しかし、ここでツバメさんが苦しげな声で言った。

「いや、彼の言う通りだ。俺をここに置いて行け。」

「それはありえません。」

 するとツバメさんは、ゆっくりと首を横に振った。

「いや、そうしたほうがいい。」


 そしてツバメさんは、苦しそうにうな垂れ、ちょっとかすれた声で告白した。

「……こんなことになったのは、多分俺のせいだ。」

 一同は顔を見合わせた。

 ツバメさんのせい? 何のことだ?

 希望は唾を飲み込んだ。

「もしかして、図書館が地獄と化すきっかけなった「スイッチ」のことですか? 」

 ツバメは頷いた。

「実は今日、俺は地下4階で、こっそりお酒を飲んだんだ。」

 はあ? どうしてそれがスイッチになるんだ?

 希望はわけが分からなかった。

「もちろん、確証は無い。しかし、あの蔵書票の呪いの言葉を思い出して欲しい。」

 あ……。


『仏の顔も三度 本を借りて返さない偸盗の輩は 人界の100年が忉利天の一昼夜 その寿命を一昼夜として1000歳 黒縄地獄に堕ちるであろう』


 ツバメさんが説明する。

「八大地獄は、それぞれの仏教の罪、破戒に対応している。1階の等活地獄は殺生、2階の黒縄地獄は盗み、衆合地獄は邪淫と言うように。5階の叫喚地獄は飲酒なんだよ。」

 辰子は肩を震わせた。

「飲酒? 酒を飲んだだけで地獄に堕ちるのか? 」

「戒めだよ。それはともかく、バイト代が入ったから高いウイスキーを買ったんだ。それで我慢できずに、お酒をこっそり5階で飲んだんだ。図書館で酒を飲むような不心得者は珍しい。多分それがスイッチだったんだろう。」

 希望は、ちょっと信じられなかった。

「けど、それだけってのも変な話しですよ。」

「たぶん、君が見た本の盗難は、2階の黒縄地獄で行われたのだろう。今となっては、その犯人が誰なのかは分からないけどね。あるいは1階の等活地獄で、例えば虫を潰すような殺生があったのかもしれない。」

 ここでヤスが吐き捨てるように言った。

「はっ! だとしたら、あんたがここでくたばるのも自業自得だな。」

 希望はヤスを睨み付けた。

「ヤスさん、多分あなたも原因の一つだ。3階の衆合地獄で、ぼくにイタズラしようとしたじゃないか。これは邪淫だろ? 」

 希望は毅然とした表情で言った。

「ツバメさんの推理が正しいかどうかは分かりません。でも、とにかくここで仲間割れしてる場合じゃないでしょう。」

 そう言って希望はツバメさんに肩を貸して立たせた。すかさず辰子もそれを手伝う。

「つっ! 」

 ツバメさんの体重がかかり、希望の足に激痛が走った。足に巻かれた布は、滲み出た血で真っ赤だった。

 それを見て、辰子が心配そうに言う。

「おい、大丈夫か? 」

「これくらい、ツバメさんに比べれば、どってことはないよ。」

 ヤスは肩をすくめた。

「そんなザマじゃ走れないだろ?」

 辰子は「ふん」と鼻を鳴らした。

「そんなことより、この下にはどんな罠があるんだ? 」

「それは俺にも分からないよ。俺は5階に居たんだからね。」


14.焦熱地獄

 地下6階は静まり返っていた。

 ここが「焦熱地獄」らしい。焦熱なら、罠は炎だろうか? どこかに火炎放射器の類でもあるのだろうか?

 まず桜が先陣を買って出た。希望と辰子はツバメさんに肩を貸しているから、斥候は無理だろう、というわけだ。普段は非力で涙もろい桜だが、実は希望や辰子と同じくらい肝は据わっている。

 桜はそっと用心深く歩を進めた。

 後ろから辰子が声をかける。

「何もねえな。こりゃ、大丈夫っぽいな。」

「まだ安心はできないと思うよ? 」

 希望は足の激痛をこらえながら言った。

「とにかく、桜の後に続こう。」

 希望と辰子は、ツバメさんの両の肩を貸しながら、桜に後を慎重に追った。


 すると、本棚の陰から2つの人影が現れた。

 その人影はゆっくりとこちらに進んでくる。そして暗がりから姿を現した。

 それを見て、桜は口を手で抑えた。

「ゾ、ゾンビ? そ、そんな……嘘」

 希望もその人影の正体を見て、目を大きく見開いた。

「田中さん? 」

 辰子も声が震えている。

「き、木野さんもいるぜ! 」

 ツバメさんは弱々しく言った。

「なるほど、地獄に堕ちた者は、責め苦で死んでもすぐに生き返り、また同じ責め苦を何度も受け続けると言うからね。」

 田中さんは、胸にナイフが突き刺さったままだ。

 木野さんは首から、黒い縄が垂れ下がっている。

 そんな二人がフラフラと、まさに夢遊病者か映画のゾンビそのもののように、こちらに迫ってくる。

 桜は助けを求めるように辰子を見た。

「辰子は、悪魔博士の研究所では、ゾンビをいっぱいやっつけていたと思うよ? 」

「けど、知ってる人のゾンビが相手だとやりにくいな。」

「それ、ゾンビ映画じゃ生き残れないタイプだよ? 」

「心配すんな、もう覚悟は決めてるって。」

 辰子は希望を見た。

「とりあえず、ツバメさんを頼むぜ。」

そう言って、辰子はツバメさんを希望一人に任せる。

そして鉄パイプを握って、ゾンビに切りかかった。

 

 最初にそれに気付いたのは、桜だった。

「ちょっと待って、辰子! 何かがおかしいよ! 」

 同時にオレンジ色の閃光が走った。

 辰子の握っていた鉄パイプが真ん中あたりから切断され、カランと音をたてて床に転がった。

「へ……!? 」

 辰子は、ちょっと唖然とした。

 鉄パイプの切り口部分は、真っ赤に灼熱していた。

 何があったのか、希望はすぐに気付いた。そして大声で怒鳴っていた。

「やばい! 辰子! レーザー光線だ!! 」

 田中さんのゾンビの右目に、木野さんのゾンビの左目に、何か機械のような物が埋め込まれ、それがジージー音を立てながら動いている。そして赤い発光ダイオードのような光が、チカチカと点滅していた。

 そして、そこからオレンジ色の細い光線が発射された。

「わ、わっ! 」

 辰子は慌てて逃げ出し、そのまま希望とツバメさんに正面衝突して、床に転倒した。

 桜とヤスも、つられるように床に伏せた。

 辰子は怒ったように言った。

「レーザー光線だあ? ゾンビのサイボーグなんて、反則だろう! 」


 不思議なことにゾンビは、フラフラあるいているだけで、それ以上の攻撃はしてこなかった。

 辰子は憤まんやるかたないと言った様子だ。

「こんな不公平な話しってあるか。弓矢ならともかくもレーザー光線だあ? 」

 希望は床の光線の焦げ跡を、じっくりと観察した。

 そうか、これは……

「ゾンビの攻撃パターンが、だいたい分かった。」

「マジかよ!? 」

「うん。見てごらん、あいつら通路の床や本棚の無い壁にだけ向かって撃っている。おそらく、本を焼いたり傷付けたりしないようにプログラムされてるようだ。」

 桜が納得したように頷いた。

「私たち、本棚のすぐ前に居るもんね。」

「逆に言うなら、本棚の前に居れば安全だってことだ。」

 そう言えば上の階でも、獄卒たちは本棚を傷つけるような攻撃はしてこなかったような気がすす。「地獄図書館」は、蔵書を傷付けないようにプログラミングされているのではないだろうか?


 希望たちは、本棚を背に向けて、並んで立った。

 やはり、だ。こちらが丸見えだと言うのに、ゾンビ達は攻撃をして来ない。

 希望はツバメさんに言った。

「やっと安全な所を見付けました。後はぼくらに任せて、ツバメさんはここで安静にしていてください。」

 ツバメさんは、力なくうなづいた。

 希望は7階へと続くドアを睨みつけた。

 あそこまで行くには本棚の無い区画を走り抜けなければならない。そうなるとおそらく、ゾンビは間違いなくレーザー光線を撃って来るだろう。

 しかしそこを走り抜けないことには、下の階へとは行けない。

 辰子は心配そうだ。

「なあ、希望。足、本当に平気なのか? 」

「うん、だいぶ痛みもおさまったよ。」

 それはもちろん嘘だった。激痛は拷問に近い。今にも千切れそうだ。けど、辰子と桜だけを先に行かせるわけにもいかない。もとい、ヤスも居たか。

 希望は辰子と桜の顔を交互に見た。

「1、2の3で行くぞ。」

「おお、1、2の3だな? 」

「うん! 」

「1、2の」

「3!! 」

 三人は全速力で駆け出した。

 すぐ後にヤスも続く。

 だが、希望達はゾンビをみくびっていた。


 ゾンビが走って来たのだ。

 それも予想以上のスピードだった。書庫の端から、すぐに目前へと迫って来る。

 辰子は悲鳴に近い声で叫んだ。

「そんな、走れたのかよ!? 」

 田中さんのゾンビが、3メートル程はなれて真横に立った。

 オレンジ色の閃光。レーザー光線だ。

 希望は覚悟を決めた。

 だがその瞬間、何か大きな硬い物が猛スピードでぶつかってきた。

 希望はそのまま転倒する。

 ぶつかって来たのは、ツバメさんだ。

 飛んでくる矢からかばってくれた時のように、レーザーからも守ってくれたのだ。

 見ると、希望達は既に6階の書庫を突破し、地下7階へと続く階段の前に居た。

 ゾンビは書庫から出られないらしい。そして希望達を見失ったらしく、そのままふらふらと奥の暗がりへと姿を消してしまった。


 希望はホッと安堵の溜息をつく。

「ツバメさん、おかげで助かりました。」

 しかしツバメさんは返事をしない。

 そして希望の下半身が、温かいぬるま湯で、ぐっしょりと濡れていた。

 何かがおかしい。


「え……? 」

 そんな、嘘だろ?

 書庫に何か大きな塊りが転がっている。

 良くみると、それは人間の両脚だった。

 まさか、まさか、まさか……!

 希望は悲鳴を挙げそうになったが、寸でのところでそれを呑み込んだ。

 ツバメさんの胴体は、腰の辺りで2つに切断されていた。

 ぬるま湯だと思ったのは、ツバメさんの大量の血だった。

「ツバメさんっ!! 」

 希望は怒鳴っていた。

 ツバメさんは、弱々しく口を開いた。それは声と言うより、吐息に近いささやきだった。

「逃げ……ろ……」

 そして、ツバメさんはぐったりして、やがてそのまま動かなくなった。

 希望はツバメさんを激しくゆすった。

「ツバメさん! ツバメさん! しっかりしてくださいっ! 」

 しかし彼は何も答えない。

 希望の絶叫は、半泣きに近かった。

「何を考えてるんだよっ! 死んでしまったら、元も子もないじゃないか! 天国や地獄が本当にあるとでも思ってるのかよっ! 死んだら終わりなんだ、何にもならないんだよっ! 」

 桜は、つられたように泣き出していた。

 辰子は歯を食いしばって、そっぽを向いた。


 希望は、ツバメさんの上半身を横向けに寝せた。背中に痛々しく突き刺さった矢が邪魔で仰向けにすることすら出来ない。

 それでも希望は、彼のまぶたを閉じさせた。

「くそっ! 」

 希望の頬を涙がつたった。


「さあ、君たち。ツバメ君の死を無駄にしちゃ駄目だよ、先に進もうぜ。」

 ヤスが取ってつけたようなセリフを言う。

 希望は頭の中が真っ白で何も考えられない。

 それは辰子と桜も同じなようだ。


 ちょうどその時だった。

 希望は奇妙なことに気付いた。

 書庫に転がっているツバメさんの足が動いている?

 床に寝せた上半身も痙攣したように動き出した。

 まさか!?

 希望はツバメさんの遺体に駆け寄った。

 それを見て、ヤスが怒鳴る。

「希望ちゃん、何をやってるの!? 」

 希望はツバメさんの手首を取る。

 そして皆に顔を向けた。

「脈だ! まだ脈がある! 」

 辰子と桜も仰天して、ツバメさんを見る。

「そんな、嘘だろ? 」

「生きてるの? 」

 だがヤスが、ピシャリと言う。

「胴体を切断され、生きている人間が居るかよ。」

 希望はツバメさんの首筋を触る。

「やっぱりだ、脈がある。」

「阿呆! そいつはゾンビになりかかっているんだよ! 書庫を徘徊している田中さんや木野さんのようにね。」

 そう言ってヤスは、辰子から半分に折れた鉄パイプをひったくると、それをツバメさんの額に、力いっぱい突き立てた。

「ほい、とどめだ。」

 ツバメさんの上半身は、激しく痙攣したかと思うと、再び動かなくなった。

 希望は、ヤスを睨み付けた。

「な、何てことをするんだよっ! 」

「それがこいつのためだよ。最後の情けって奴さ。それとも希望ちゃん、君はこのイケメン君がゾンビになるのを見たかったのかい? 」

 希望は拳を握り締めた。

「くっ……」

希望ら三人組みは、ヤスと共に地下7階へと続く階段を駆け下りた。


 辰子は、いつになく不安そうだ。

「参ったな、剣を無くしちまった。」

 桜も不安そうに、心配そうに希望を見た。

「希望、足は大丈夫なの? 」

「幸か不幸か、激痛を通り越して、なんか感覚が無くなって来てるんだ。」

 辰子は眉をひそめた。

「それって、かえってやばくねえか? 」

 ここでヤスが口を挟んだ。

「大丈夫、俺が君らを守ってあげるよ。」

 辰子は「ふん」と鼻を鳴らした。

「これまで何もしてこなかったあんたに、今さら何が出来るってんだよ。」

 するとヤスはニヤリと笑った。

「俺には、秘策があるんだよ。」

 秘策?


15.大焦熱地獄

 一同は地下7階に辿りついた。おそらく、ここが「大焦熱地獄」だ。

 書庫の中をを覗き込むと、そこは薄暗い。

 希望は慎重に薄暗い部屋に向って目をこらし、中を観察した。

 ここにはどんな罠があるのだろうか?

「あれ? 」

 希望は目を丸くした。

 書庫の本棚に挟まれた通路の奥に、一脚の安楽椅子がある。

 そこに一人の恰幅の良い老人が腰をかけていた。頭は禿げているが残った白髪は綺麗に手入れがされている。着ている服は時代がかった燕尾服だ。手にはブランデーグラスを持っている。

 希望は、その老人をどこかで見た覚えがあるのだが、すぐには思い出せなかった。

 その老人は、にこやかに笑いながら立ち上がった。

 辰子は警戒しながら訊ねた。

「誰だ、あんた? 」

 すると老人は、静かな穏やかな声で答えた。

「私が、地獄だよ。」

 希望はこの「地獄」を自称する老人を睨みつけた。

 この老人の顔をどこで見たのか、思い出したからだ。

耶麻(やま)文庫の創立者の耶麻竹太郎さんですね? 」

 閲覧室へと通じる廊下で見た肖像画の老人に違いなかったからだ。

 老人はゆっくりとブランデーグラスを手中で回しながら、微笑んだ。

「名前は忘れた。過去のことにも興味は無い。」


 辰子はその老人を睨み付けると、身を乗り出して怒鳴った。

「何がどうなっているのか、説明してもらおうじゃねえか! 」

 老人はグラスの香りを嗅ぐ。

「この図書館の地獄が発動したのは、君らが封印を解いたからだ。」

 希望は老人の顔を探るように見ながら言った。

「この地下8階建ての図書館は、八大地獄に見立てたものですね? 」

 老人は笑った。

「左様。これを見たまえ。」

 そう言って老人は、壁の一角を指差した。そこには黒板がかかっている。そして赤いチョークで次のように書かれていた。


地下1階 等活地獄  殺生

地下2階 黒縄地獄  偸盗

地下3階 衆合地獄  邪淫

地下4階 叫喚地獄  飲酒

地下5階 大叫喚地獄 妄語

地下6階 焦熱地獄  悪見

地下7階 大焦熱地獄 犯持戒人

地下8階 阿鼻地獄  五逆罪


 辰子はちょっと感心したように言った。

「ああ、これなら分かりやすいな。」

 希望は黒板の赤い文字を、じっくりと観察した。

「なるほど、この図書館が地獄に化わる「スイッチ」は、「五戒」ですか? 」

 老人は満足そうに頷いた。

「いかにも。実に利発な娘さんだ。いや、まだ少年かな? 左様、「五戒」だ。不殺生戒、不偸盗戒、不邪淫戒、不妄語戒、不飲酒戒、これらを破ることによって、この地獄は発動する。」

 辰子と桜は、希望を見た。

「なあ、何だ? そのゴカイってのは? 」

「モーセの十戒みたいなものかな? 」

 希望は説明した。

「仏教徒が守らなければならない基本的な5つの戒律だよ。すなわち、殺すな、盗むな、姦淫するな、嘘をつくな、酒を飲むな。」

 老人が頷く。

「お察しの通りだ。この地獄の封印を解いたのは、君たちだ。まずは1階の等活地獄だが。ここに堕ちる罪は「殺生」だ。まず田中君がここで蚊を潰した。次に2階の黒縄地獄は「盗み」だ。木野さんが、ここから数冊の本を盗んで古書オークションへと転売した。」

 辰子が不満そうに言った。

「それって、俺たちの責任じゃねーだろ? 」

「5階の大叫喚地獄は、「妄語」。ウソつきが落ちるわけだが、人を誹謗中傷したり悪口を言った者もここに堕ちる。辰子君とヤス君がここで罵り合いをしただろう? 」

 辰子が「あ……! 」と呆けたような声を漏らし、すぐに不満そうに言う。

「って、俺も関わっていたってのかよ!? つーか、乳のバケモノだの、ホルスタインだのと悪口を言われたのは、俺の方だぜ? 」

 老人は構わずに続ける。

「次に、3階の衆合地獄は「邪淫」だ。ヤス君と希望君、心当たりはあるね。」

 心当たり? ぼくが一方的に、ヤスにイタズラされかけただけなんですけど。

「4階の叫喚地獄は「飲酒」だ。ツバメ君が告白した通りだよ。彼は、ここでバレンタインの21年もののウイスキーをこっそり飲んだ。」

 酒の銘柄まで把握しているとは、「地獄耳」とは良く言ったものだ。

 ヤスが吐き捨てるように言った。

「けっ! やっぱり決め手になったのは、あのイケメン野郎の飲酒じゃないか。とんだトバッチリ、迷惑な話しだよねえ。」

 希望は、ムッとなる。あんたが言うか?

 辰子も、こめかみを引きつかせながら、ヤスを睨み付けた。

「あの人を侮辱することは、俺が許さねえぞ。ましてや、お前ごときが! 」

 希望は視線を老人に戻し、睨み付けた。

「なるほど、そうして五戒が破られて、地獄図書館が発動したわけですね? 」


 希望は皮肉っぽく言った。

「じゃあ、これで終わりですか? 」

「まさか、な。我々の計画は、まだまだ続く。その成就のために「地獄」である私が直接出向いて来たわけだが。」

「計画とは何です? 」

「いずれ、分かる。」

 希望はあらためて老人の顔を見た。にこやかに微笑んでいるが、その表情はどこか不自然だ。人工的と言うか、仮面のような笑みというか。

 老人は、希望達の顔を見回しながら言った。

「インドの寓話に、こんな王様の話しがある。彼は地上の楽園を建設することを望んだ。しかし俗世にそんな物を作るのは難しい。と言うより不可能だ。だったら、楽園の代わりに地獄を建設してみよう、と考えた。彼は大金をかけ、種々の拷問器具を揃え、巨大な拷問施設を作りあげた。そして国中の犯罪者という犯罪者をそこに放り込んだ。その結果、国から悪人が一掃された。」

 希望は、つまらなそうに返した。

「全ての国民が死に絶えてしまった、の間違いじゃないですか? 」

 希望の皮肉は老人の耳には届いていないようだった。

「これは我が国にも通じることだとは思わんかね? 誰もが国を楽園にすることを望んでいる。だが現実はどうだ? 我が国は何とも酷い有様だ。人々は犯罪に走り、そうでない者も道徳を守らない。人心は荒廃し、自堕落な生活を送っている。国民は愛国心を持たず、己の欲望ばかりを追求している。労働者は会社への忠誠心が欠片も無いくせに、賃金や待遇改善ばかりを要求している。妻は夫に従わず、子供も大人を尊敬しようとしない。」

「何をおっしゃりたいんです? 」

「なんでこうまでも、人心が荒廃したのか? それは人権だの自由だのを認めすぎたからだ。人権や民主主義だのと言ったものは、西洋の価値観であり、日本の伝統にはそぐわない。」

「あなたと床屋政談をするつもりはありませんよ。」

 老人は肩をすくめた。

「そうだな。では地獄の話しをしよう。この国は、犯罪者に甘すぎると思わんかね? 刑罰というのは、厳しければ厳しいほど良い。それこそ残忍冷酷だと言われるほどに。犯罪を犯すことはどう考えても割に合わない、と思わせるほどに。」

 希望は言い返した。

「要するに厳罰主義ですね。はたしてそううまく行くのでしょうか? 江戸時代には金子十両を越える窃盗は打ち首でした。しかしそれによって泥棒が根絶されることはなく、江戸の町人の死因として刑死が上位に来ると言う異常事態を引き起こしただけでした。フィンランドは刑務所の待遇を快適なほど良くし、罰ではなく更生と社会復帰に重点を置く施設に作り替えました。その結果、再犯率は日本の約3分の1に減ったんです。」

 老人は首を横に振った。

「更生? 犯罪者の社会復帰? それは問題の本質から離れた綺麗ごとにすぎない。大切なことは、法を破った者に復讐をすることだ。刑罰の本質とは復讐なのだよ。刑死者が増えるということは、それだけ悪人退治が成されたということだ。素晴らしいことではないか。」

「過ちを何一つ侵さない人間なんて居るのでしょうか? 明日は我が身ですよ。」

「ならば全ての人間が、過ちを犯すたびに、その十倍の罰を受ければ良いのだ。それによって人は、道徳を守ることになるだろう。」

 結局、封建的な床屋政談が続いている。

 この老人の言うような世の中になったら? 息がつまりそうだ。いや、下手をしたら、この世の地獄だ。

 すると老人が満足そうに頷いた。

「そう、地獄だ。地獄こそが、人間に秩序と道徳をもたらすのだ。」

 え……!?

 希望は仰天した。

 この人、ぼくの心が読めるのか?

「人は恐怖によって支配される。『往生要集』に地獄の描写が無かったら、はたして浄土教の布教は成功しただろうか? ダンテが『神曲』を書いたところ、教会に行く人が増えたという。宗教のいかんを問わず、寺にも道観にも教会にも地獄絵がある。人々の心の教化をはかるための最も効率の良い方法、それが地獄の恐怖なのだ。」

 老人の顔が次第に紅潮し始めた。口から泡が飛んでいる。

「この国は、いや世界は、地獄を必要としているのだ! だから我々は地獄を創ることを望んだ! 地獄! だからこそ、私は地獄そのものたらんとしたのだ! 」

 辰子は、希望に耳打ちをした。

「あの爺い、完全にイカれてるぜ。」


 ここで希望は、ふとツバメさんが言ったことを思い出した。

 桜があの言葉をチャットに書きこんだら、あいつは動揺しなかったっけ?

 希望はあの言葉を大声で怒鳴った。

「ハイドラ! 」

 老人の動きが止まった。

 希望は、さらに続けた。

「嘆きの構造体! 」


 同時に老人の身体が、グズグズに崩れだした。

 5階で見た獄卒たちと同じだ。

 老人の身体は灰色の粉末となって、パサリと床に落ちた。そこにあるのは金属灰の小山である。

 辰子は恐る恐る進み出ると、粉末の小山の前にしゃがみこみ、その粉末を一つまみ取る。

「……ただの灰だな。あいつはくたばったのかな。これで終わったのか? 」

 多分それは無いだろう。


 突然、部屋に轟音が響き割った。

 同時に閃光が走ったかと思うと、室内が激しくグラグラ揺れた。

 地震!?

 壁に亀裂が走り、その一部が倒壊した。

 そして壁の割れ目から、奇妙な物体が現れた。それは金属製の巨大なマシーンのようにも、スクラップの塊りのようにも、あるいは何か巨大な生物のようにも見える。

 どこからともなくオルゴールの音がしてきた。希望は、その音が、あのキャスト・パズルの本を開いた時の音と全く同じであることに気付いていた。

 その巨大なマシーンには、恐ろしげなパーツが無数に付属していた。そしてそれらは、喧しいほどの金属音を立てながら動いていた。

 巨大な裁ちバサミが、ガシャンガシャンと閉じたり開いたりしている。その巨大なハサミは、数十本以上あり、まるで巨大な鳥の群れがさえずっているかのようだ。

 虎バサミのような罠も、同じくガチャンガチャンと閉じたり開いたりしている。他にもチェンソーや回転ノコギリが轟音を上げ、無数のトゲの付いたローラーが回転している。また真っ赤に灼熱した半田ゴテのような物もあり、さらに数百本のバラ線が、のたくるようにその物体を縛っていた。

 炎を上げるガスバーナーの横には、巨大な注射器があり、それは「オビオイド拮抗薬」とラベルの付いた点滴袋から伸びている。

 辰子は、唖然とした顔で、その怪物のような物体を見た。

「な、なんだよ、これ。」

 希望の頬に冷や汗がつたった。

「ぼくも分からないよ。」

 桜の声は悲鳴に近かった。

「あれ、拷問する機械の塊りだと思うよ!? 」

 見ると、その物体から触手のような物が、にょろにょろと伸びてきた。数十本はあるだろう。チューブのようにも、コードのようにも見える。その触手の先端には、歯医者のドリルのようなもの、手術のメスのようなもの、パチパチと火花を散らすスタンガンのようなもの、様々な物騒な器具が付いている。

 辰子は唾を飲み込んだ。

「こ、こりゃ、逃げたほうが良さそうだな。」


 希望達は駆け出した。

 その物体から逃げるには、下の地下8階へと続く階段を駆け下りるしか無かった。

 いよいよ、最下層だ。一体この下で何が待ち構えているのだろう?

 辰子は叫んだ。

「くそったれ! この下にラスボスが居るのか!? 」

 桜がそれに答えるように叫ぶ。

「いや、図書館のセキュリティ・システム室があったと思うよ? 」

 希望は頷いた。

「もしかして、それをぶっ壊せば? 」


16.阿鼻地獄

 階段を駆け下りると、いよいよそこは最下層の地下8階だった。ここが阿鼻地獄?

 辰子が最初に書庫に飛び込もうとしたが、いきなり腕を捉まれて引き戻された。

「うわっ! 」

 ヤスだった。

「この馬鹿! 何をしやがるんだ! 」

 ヤスは、苦笑している。

「まあまあ、慌てない、慌てない。それより冷静に考えてみてごらん? ここにも罠があるとは思わないかい? 」

 希望も辰子も、これには頷かざるをえなかった。

 ヤスは、懐から煙草の箱を取り出した。そしてそれを部屋に向って、放り込む。

 同時に、ゴーーーッ!! と凄まじい音がした。

 文字通りの猛火だった。

 戸口で凄まじい火炎の放射があり、煙草の箱はあっという間に燃え尽きて灰になった。そして猛烈な熱風が、皆の顔に当たる。

 ヤスは得意げに笑う。

「ね? もし俺が止めなかったら、君たちは今ごろ黒コゲだよ? 」

 辰子は悔しそうに言った。

「くそ、でもあんたに助けられたな。……その、ありがとう。」

 希望は無表情に礼を言った。

「……ありがとう。」

 ヤスは意外そうに目をパチクリさせた。

「おや? 意外と素直だねえ。ぼくはツンデレのほうが趣味なんだけど。」

 

 桜は不安そうに階段の上に視線を向けた。

「あの拷問道具のスクラップ怪獣が、こっちに向っているみたいだよ? 」

 なるほど、上の方から、あの嫌なガチャンガチャンと鳴る音がする。

 辰子はその音を聞いて、気持ち悪そうな顔をする。

 希望も額の汗をぬぐった。

 しかしヤスは落ち着いていた。

「大丈夫、大丈夫、これがあるから。」

 そう言ってヤスが取り出したのは、この図書館の本だった。


 まずヤスが用心深く、書庫の中へとその本を差し入れる。

「思った通りだ。上で希望ちゃんが気付いた通りだねえ。この地獄図書館は、蔵書を傷付けないようにプログラミングされているんだ。」

 ヤスはその本を盾にしながら、部屋へとそっと足を踏み入れた。なるほど、何も起こらない。

 ヤスに続き、希望、辰子、桜が書庫に足を踏み入れる。

 やはり何事も起こらない。

 彼らは、図書館の本を盾にしながら、書庫へと入ったのだ。

 本を持っていれば、罠は蔵書を傷付けることは出来ないので、攻撃はしてこない。

 ヤスは部屋の四隅を指差した。

「あの犬の彫像の口から、炎が噴出す仕掛けになっているようだねえ。」

辰子がちょっと感心したように言う。

「これがあんたの秘策か? 」

 ヤスは首を横に振った。

「いーやいや、もっと凄い最後の手段があるんだよ。」

 希望は、手に持った本を見て、歯を食いしばった。

 畜生! どうしてあの時、これに気付かなかったんだ? この方法に早く気付いていれば、ツバメさんは死なずに済んだのに。


 地下8階は、図書館の中でも最も広い書庫だった。

 辰子は、キョロキョロと周囲を見回す。

「罠は、あの火吹きワンコで終わりかな? 」

 希望は首を横に振った。

「いや、仮にも最深部の阿鼻地獄が、あれで終わりなわけがない。」

 桜は前方の扉を指差した。

「あそこがセキュリティ・システムのホスト・コンピューターの部屋だと思うよ? 」

 その扉の向こうに、何やら不思議な禍々しい雰囲気を感じる。何と言うか、生き物が潜んでいそうな気配がするのだ。

 RPGだったら、ラスボスが居そうな、そんなオーラを感じる。


 希望達がさらに歩を進めようとすると、突然その扉が軋むような音をたてて開いた。

 そして、またあのオルゴールの音だ。

「お、おい、ありゃ何だ!?」

 辰子はそう叫ぶと、扉近くの床を指差した。

 見ると、水銀のような液体が、ドロドロと流れてくる。水銀? 金属光沢こそあるものの、それはやや黒っぽく、灰色をしていた。

 その真上には蜘蛛の巣のような細い糸が、キラキラと輝きながら宙を舞うようにして、こちらへとやってくる。

 液体の流れるスピードは、思いの他早く、辰子と桜の足先にまで迫った。

「くそ、邪魔だな、この蜘蛛の巣。」

 辰子はそう言って、その空中に漂っている細い糸を手で払った。

 その瞬間。辰子は指先に激痛を感じた。

「ちちっ! 」

 そして自分の手を見て、悲鳴をあげた。

「な、何だあ!? 」

 辰子の指が、切断されている! 床には彼の指が散らばっていた。

 桜の顔の近くにも糸が落ちてくる。

「いやっ! 」

 そう言って、桜が糸を手で腕で払うと、今度は桜の右腕が切断されて、床に落下した。

 桜は悲鳴をあげていた。

「い、いやああああ!! 」

 希望はすぐに悟った。

「その糸に触っちゃ駄目だ!! 恐ろしく鋭利な刃物になっている! 」

 辰子は脂汗をかきながら、指が無事な左手で桜の肩を掴むと、糸から逃げるように早足に後ずさった。


 ヤスが希望の腕を掴んで、乱暴に引いた。

「希望ちゃん、君はこっちこっち! 」

「辰子と桜を助けなきゃ!! 」

「大丈夫、君だけは死なせはしないよ。」

 ヤスは、懐からリモコンのような物を取り出した。

 それは?

「ふっふっふ! これが俺の秘策だよ。」

 そう言って、彼はリモコンのスイッチを入れる。

 何やら、ブーンとモーターが回転するような音がし始めた。

 希望は目を大きく見開いた。

 そ、それって?


 今まで気付かなかったが、壁の一角に開閉装置の付いた小さな扉のようなものがあった。

 それがゆっくりと開いたのだ。

 ヤスは笑った。

「そう、エレベーター・シャフトだよ。ただし、荷物専用のね。そりゃこの規模の図書館なら、これぐらいの備えはあるよね。本ってのは重いから、地下8階まで人間の労力だけで上げ下げは無理だよねえ。」

 扉の向こうから、回転灯を点灯させながら、金属製の大きな貨物用エレベーターが降りて来た。

「これに乗れば、一気に1階まで脱出できるはずだ。」


 金属製の液体は川となって、8階の床の中央を流れている。

 辰子は怒鳴った。

「そんな便利な物があるなら、どうしてもっと早く言わねえんだよっ!! 」

 希望もそう思う。

 すると、ヤスは申し訳なさそうな表情で言う。

「これ、貨物用だから小さいんだよねえ。とてもじゃないが、全員は乗れないよ。せいぜい、二人かな? 」

 希望はヤスの手を振りほどこうとした。

「だったら、まずあなたが一人で先に脱出すればいい。ぼくは辰子を桜と共に、後から行きますよ。」

「だーめ。まもなく地獄に、このエレベーターが気付かれると思う。そうなったら、もうエレベーターは使えなくなるかもねえ。」

「どっちにしても、友達を見捨てて自分だけ逃げる気はありません。」

 そして、ヤスの手を振り払った。

 ヤスは苦笑した。

「強情な子は、こうだ! 」

 ちくり。


17.アルソフォルカスの書

 首筋に鋭い痛みが走った。

 希望は、首筋を手で抑えると振りほどくようにして、慌ててヤスから離れた。

 ヤスは手に使い捨て用の注射器を持っていた。

 し、しまった!!

 何か薬物を注射された。この間のような弛緩剤か? それとも睡眠薬か?

 ヤスは笑った。

「希望ちゃん、君だけは死なせはしないよ。」

 その声を聞くと同時に、凄まじい睡魔が希望に襲い掛かった。

ヤスは注射器を見て、ちょっと残念そうに言った。

「ああ、この睡眠薬、三分の一くらいしか注射できなかったねえ。」

 確かに薬品は半分以上が残っていた。

「でも、お休みには充分だろうね。」

 希望は激しい睡魔に襲われながらも、慌てて後ずさった。

 首筋に注射されただけあって、薬の効き目は早く、しかも強力だった。

 希望は歯を食いしばった。ここで眠ってしまったら、ヤバい。

 しかし、その睡魔は予想以上に強烈だった。意識が薄れ、何も考えられなくなってくる。手足の力抜け、とうとう希望は倒れこんだ。

「おっと。」

 ヤスは、そんな希望を受け止め、抱きかかえた。

「希望ちゃん、君は死なせないよ、ここではね。」

 希望は眠っていた。


 辰子は指が無事な左手を使って、桜の左腕を掴んだ。

「桜っ! しっかりしろっ!! 」

 桜は力なく言った。

「私、利き腕なくしちゃったから、もうこれまでのようにマシンを組んだり、キーボード早打ちも出来ないかも。辰子も、指が無くなっちゃったから、もう剣道は出来ないね……」

「アホ! このくらいのハンデ、ちょっと練習すりゃ、取り戻せるって! 俺に剣道を止めさせたかったら、核兵器でも持って来いってんだ! 生きてる限り、剣は捨てねえぞ。けどな、くたばっちまったら、その努力も足掻きもできなくなるぞ! 」

「分かってるよ……、ちょっと弱音を吐いてみたくなっただけだよ? 」

 二人は助け合うようにして、水銀の川を中を走った。

 桜は途中で本棚から、本を一冊取り出した。

 そして、襲ってくる刃物のような糸を本で振り払おうとした。

 しかし糸は、本などおかまいなしに襲ってくる。

 同時に今度は、桜の本を掴んでいた左手首がポトリと床に落ちた。

 桜は小さな悲鳴をあげる。

 辰子は必死で桜の腕を引いた。

「くそったれ、本でも、この糸は防げないのかよっ!! 」


 希望は寝返りをうった。

 そして、すぐに目覚めた。

 周りを見回す。

 見慣れたスチール・ラックの本棚、勉強机、三面の鏡台、そして「シロ」とプレートのかかった小型犬用の空っぽの犬小屋。

 間違いない、自分の寝室だ。

 ベッドから手を伸ばし、起床時間を告げる目覚ましのスイッチを、希望は切った。そして大きく両腕を上げて、伸びをする。

 気温はまだ肌寒いが、やることは沢山ある。というわけで、希望は布団から出た。

 伸びをし、続いて手足を動かし関節をとぎほぐす。軽く柔軟体操をすると、筋トレの腹筋背筋を1セット。

 鏡台の前に座ると、ブラシを手に取り、肩までかかった髪の毛の手入れだ。

 さて、今日はどのヘアバンドにしようかな? と考えながら、鏡に映った自分の姿を見る。

 くたびれたパジャマが半分ずりさがり、右肩が露出している。

 きめの細やかな滑らかな肌、これはいい。気に入ってる。

 でも日に日に筋肉が落ちてゆくのは、どうにも複雑な心境だ。中学時代に苦労して作った筋肉が消えてゆくのには、やはり歯がゆい思いもする。

 けど、これは仕方のないことだろう。「基礎工事」が順調に進んでいる証拠に他ならないのだから。

 そして改めて自分の顔を見る。ひどい顔をしている。昨夜は熟睡できなかったせいだろう。

 あんな悪夢にうなされたのだから、無理はない。それにしても、随分と生々しい夢だった。あれが明晰夢って奴だろうか?

 でも、夢で本当に良かった。登校したら、さっそくこの夢の話しを辰子と桜に話してみよう。ちょっと受けるかもしれない。

「ひどい悪夢だったなあ。でも夢で本当に良かったよ……」


 すると、背後からボーイソプラノの声がした。

「違うです。これが夢なのです。お前は、あの地獄図書館の最下層で、あの変態男に睡眠薬を注射され、無様にカッコ悪く、寝ているのです。あ、あの変態男の奴、どさくさまぎれにお前のシャツの中に手を突っ込んで、胸を撫で回してるです。」

 びっくりして、希望は後ろを振り向いた。

 声は、あの空っぽの犬小屋の中からだ。

 もしかして、シロか?

「はいです。」

 どうなってるんだ?

「さっき言った通りなのです。」

 同時に希望の頭に、あの地獄図書館の記憶がいっきに蘇った。

 ぼくはどうなるんだろう? 辰子は? 桜は?

 希望は心の中で叫んでいた。

 誰か、助けて!! ぼくらは死にたくない!!

「それはたやすいことですぅ! 」

 どうすればいいんだ?

「お前が見たあの本が鍵なのです。キャスト・パズルの本です。その昔、征嵐参謀ことマスター・カプトドラゴニスが、錬金術師のアルソフォルカスに作らせたカラクリです。」

 あのキャスト・パズルの本? そう言えば、拷問道具の怪物や水銀が現われた時に、確かにあの本を開いた時の同じオルゴールの音がしていたっけ。

「あの本は、もともと悪意があって作られた物ではないです。でも、悪用する奴らが絶えないです。あの本は、一種のハルモニアの同調装置なのです。同じ空間上の別次元に、宇宙の振動を合わせ、異世界への扉を開くです。」

 異世界?

「左様なのです。今は俗にハイドラと呼ばれる存在が居る逆転世界に繋がっているです。」

 ハイドラ? 逆転世界? 何だよ、それは?

「ハイドラとは仮の名なのです。頭部を複数持った怪物のことを、ギリシャ神話の多頭の大蛇ハイドラに例えているのです。逆転世界は、苦痛と快感が反転した領域のことなのです。」

 その、もっと詳しく……

「時間が無いですぅ! これ以上の説明は時間の無駄ですぅ! 」

 そうだ、辰子と桜を助けなきゃ!

「あの本を探し出して、壊すのですぅ! 全てはあの本が元凶なのです。」

 けど、どうやって、あの状況で、図書室の中から本を探し出せって言うんだ?

「気をしっかり持つです。最後まで諦めちゃ駄目です。」

 どうすればいいんだ?

「まずは目を覚ますです。」

 目を覚ますって、どうやれば?

「それは自分で考えるです。余は、物理次元に干渉できないのです。」

 目を覚ましても、どうやってこの絶望的な状況から逃げ出せるんだ?

「いま、余の眷族が、そっちに向ってるです。」

 え?

「まずは目を覚ますです。お前は、ちゃっちゃと現実に帰るです。話しはそれからです。」


 希望は歯を食いしばった。そして足を動かした。

 電撃のような激痛が両足に走る。あまりの痛みに呻き声が出る。

 しかしそれと同時に眠りが破られた。

 ヤスの呆れたような叫び声。

「き、希望ちゃん、何をやってるの!? 」

 希望は、右足で自分の左足を力いっぱい蹴っていた。

 鋭い激痛が両方の足に襲い掛かる。再び出血し、とうとう床に血が滴った。

 けど、目は覚めた。この激痛は、これ以上ないくらいの強烈な気付け薬だった。

 ヤスは希望の腕をつかんだ。

「希望ちゃん、さあ逃げるんだ。」

「ヤスさん、こんな強引なことして、ぼくが貴方に感謝したり好きになったりするとでも? 」

「好きになるさ。俺の妄想の世界でだけどね。君も標本になれば、問題無い。なに、標本室には仲間が他にも10人も居るから、退屈はしないぜ。」

 希望はヤスの腕を振り払った。

 希望は、ヤスの腕から逃れると同時に、身体を半回転させた。そして力いっぱい、ヤスを蹴り飛ばした。そのままヤスは、貨物用のエレベーターの内へと吹っ飛ぶ。

「まず、あなたが先に地上に戻ってください。生きてたら、ぼくらも後から行きます。」

 そう言って、希望は「閉」のボタンを押した。

「ちょ、希望ちゃん、何を考え」

 エレベーターの扉は閉まり、上へとゆっくりと上がり始めた。


 辰子は、桜を背負った。

 そのまま水銀の川を、ざぶざぶ走った。

「あ! ちょっと辰子!! 」

「話しは後だ、畜生! 」

「見て!! 」

 桜は、すぐ脇の本棚に手をかけ、辰子の背から棚へと移り、よじ登った。

 辰子は、唖然とした。

「は!? 」

 桜は、腕を伸ばして、辰子の手を握った。

 辰子も本棚に足をかけ、よじ登る。

「桜、お前、腕と手首はどうしたんだ? その、無事だったのか? 」

「辰子こそ、右手の指を見るといいよ? 」

 辰子は仰天した。

「はあ? 指がまた生えて来たのか? 」

「良く分からないけど、私たちの手は無事みたい。」

「指や腕を切断されたのは幻覚かあ? 」

「いや、それはありえないと思うよ? 思いっきり、痛みを感じたじゃない。幻覚だったら、痛みなんて感じないと思うよ? 」

「あー! 考えるの面倒臭え! とにかく無事だったんだから、それでいいや。」

 二人は、そのまま本棚をよじ登った。

 桜は床を見ながら言った。

「あの水銀に触れると、激痛付きの幻覚を見るんじゃないかな? 」

 宙にあの恐ろしげな糸が漂っている。

 辰子は恐る恐るそれを手ではらったが、糸は手を突き抜けただけで、まるで手ごたえがない。

 桜は頷いた。

「やっぱりだね。あの水銀に触れていなければ、この糸は無害だと思うよ? 」


 ヤスから逃れた希望は、周囲を見回した。辰子、桜、どこだ?

 そしてすぐに見つけた。居た、水銀の川を隔てたすぐ前の本棚の上だ。二人が座っている。

「辰子! 桜! 」

 すると二人はすぐに希望に気付いた。

 辰子が即座に返事をする。

「の、希望か!? 」

「大丈夫か!? 」

「そんなことより、何でヤスの奴と逃げなかったんだよ! 」

「友達を見捨てられるかよ! 」

 希望はそう怒鳴り返すと、歩を進めかけた。

「バカ! その水銀の川に入るな! 」

 え?

 希望は水銀に片足を突っ込む寸前で立ち止まった。

「何だか良く分からねえが、その水銀に触れると、幻覚攻撃を食らうんだ! 」

 この水銀に触れると危険? 希望は少し考えた。

 じゃあ、あの地下3階の針の山でやった時と同じ手を使おう。

 希望は手近の本棚を、力いっぱい押す。すると、それは水銀の川に、飛沫をあげて倒れた。

 希望はそれを橋にして川を渡る。

 辰子と桜が、こちらの本棚に飛び乗った。

 再び合流できた!! 三人は無言のまま、お互いに抱きしめ合う。


 希望は耳をすませた。

 あのオルゴールの音だ。

 希望は、2つ目の本棚を押し倒した。

 辰子が怪訝そうに訊ねる。

「何をやってるんだ? 」

「探し物だよ。オルゴールの音が聞こえるだろう? あれは本の形をしたキャスト・パズルが鳴っているんだ。今は時間がなくて説明できないけど、あれを見つけ出して壊さなければならない。」

 以心伝心とでも言うのだろうか? 長年ずっと一緒につるんで信頼関係を築いてきたおかげか。今日にように、何か非常事態に陥ると、三人は不思議と思いが一致し、目的を共有できる。

「何だか良く分からねえが、この音の先に、地獄をぶっ壊すための道具があるんだな? 」

「私も探してみるね? 」

 しかし、それ以上探すまでも無かった。すぐ目の前の本棚に、あの本があったのだ。背表紙だけだが、あのキャスト・パズルの本だとすぐに分かった。

 あれを破壊すれば!

 希望は、手を伸ばした。


 しかし、希望達の乗っていた本棚が大きく揺れた。

 水銀の水量があきらかに増えている。もう、部屋全体に広がり、床は隠れてしまった。

 件のキャスト・パズルの本まで、あと2センチというところで、本棚が後方に押し流された。

「くそっ!」

 しかしすぐに本棚が逆向きに流され、前方に移動した。

「しめた! 」

 希望はその本を掴み取った。

 しかし同時に、その本から電撃のようなものが走り、火花を散らした。その衝撃に驚いて、希望は本を取り落してしまった。

「ああ、しまった! 」


 だが、即座に辰子が腕を伸ばした。身長180センチの辰子は、腕も長い。

 すぐに水銀の上に浮いている本を拾いあげた。

「ナイスだ、辰子! 」

 

 希望は、その本を見た。

 開いている。

 ページをめくると、英語で走り書きがされている。いや、英語だけではない。ページをめくると、フランス語らしきもの、ロシア語らしきもの、漢字やアラビア文字、インドの文字、ヘブライ文字、見たことも聞いたこともないような奇妙な形の文字もある。

 その全てが、肉筆だった。

 インクで書かれたもの、墨で書かれたもの、鉛筆やボールペンで書かれたものもある。

 この本は、一体どれほどの人々の手に渡り、どれほどの国々を旅してきたのだろう?

 だが希望は、もちろんそんな感傷に浸っている余裕は無かった。

 この本を破壊しなければ!!


 希望は、その本を引きちぎろうとした。

 すると、オルゴールの音がひときわ大きくなったかと思うと、ページから猛烈な閃光が走った。

「うわっ! 」

 

「おいおい、何てこった!!」

 辰子が大きな声をあげた。

 水銀の川が、今度は奥のシステム室へと逆流を始めたのだ。

 希望達が乗った本棚の筏も、一緒に流れ込んで行く。

 まるで、システム室に吸い込まれるかのようだ。

 桜が悲鳴をあげた。

「あの扉の向こう、システム室じゃないよ! 何か、別の世界に通じているような」


18、ハイドラ

 その瞬間、希望は奇妙な光景を見た。

 広い灰色の世界だ。

 空には太陽も月も無い。にもかかわらず、明るい。いや、薄暗い。

 視界360度が地平線、いや水平線だ。建物はおろか、山らしき物すら何も無い。

 しかし広がっているのは普通の海ではない。

 灰色の金属光沢を持った水銀の海だった。

 桜は希望にしがみついている。

「私たち、空を飛んでると思うよ? 」

 なるほど、希望達が乗った本棚は、広大な水銀の大海の数十メートル上を、猛スピードで飛んでいた。

 希望は、そっと下方に広がる海を見た。

 その海は波もさざめきも無い。無機質な灰色の金属光沢の水面が延々と広がっているだけだった。

 しかしその水面には無数の奇妙な物が浮いている。

 それは無数の首だった。

 いや、浮いているのではない。その水銀の海の水面から首が突き出ているのだ。

 あるいは首だけを出して、身体は水銀の海に沈んでいるのだろうか?

 とにかく、無数の首が水銀の海に散らばっていた。まるで蟻の大群のように。

 千? 二千? いや、そんなものじゃない。

 しかも良く見ると、それらの首は人間だけではなかった。いや、人間は少ない。それ以外の様々な生物の頭部が圧倒的に多い。

 UFO特番に出てくるグレイのような首、鳥のような首、爬虫類のような首、軟体動物を思わせるもの、昆虫のようなもの、植物のようなもの、鉱物のようなものすらあった。

 図鑑で見たネアンデルタール人や北京原人らしき者の首もある。

 辰子はあまりの光景に、悲鳴に近い大声を上げていた。

「何なんだよ! あれは! 」

 桜は気味悪そうな顔をしている。

「見て! あの首、みんな凄く苦しそうな顔をしている。」

 なるほど、首の中でも人間や人間に近い生物のそれは、どれも苦悶の表情を浮かべている。なかには、悲鳴のようなものをあげている者も居た。


 見ていると突然、水銀の海の海面が、小山のように盛り上がった。そしてそれは数百メートルはあろうかと言う塔になったかと思うと、突然グニャリと曲がった。

 希望はすぐに悟った。あれはとてつもなく巨大な触手だ。表面に無数に付着した首たちは、まるでタコの触手の細かな吸盤のようにも見える。

 それはそのまま、こちらに倒れかかるようにして襲って来た。

 それと同時にキャスト・パズルが、いつになくけたたましくオルゴールの音色を奏で始めた。そして猛烈な閃光と共に、黄色い光の矢を発射した。

 それはそのまま、伸びてきたあの巨大な触手に命中した。

 すると、その巨大触手は、ゆっくりと縮み始め、やがて水銀の海面へと引っ込んで行った。

 希望はそれを見て、キャスト・パズルの本を引き千切ろうとしていた手を止めた。

 この本はさっきのように身を守る武器になる? ならば今は壊すべきではない?


 桜が力なくつぶやいた。

「私たち、これからどうなるのかな? 」

 辰子は半分ヤケクソと言った口調だ。

「こうなりゃ、成り行きに任せるしかねえだろ。ま、くたばる時は三人一緒だな。」

 希望は足の激痛をこらえながら無理に微笑んだ。

「そうだね。死ぬときは一緒だ。」

「ヤスの奴はどうした? 」

「一人で逃げたよ。」

「けっ! 映画だったら、登場から30分ぐらいで死に、1時間も生きてりゃ奇跡ってキャラだろ、あいつは。」

「憎まれっ子、世にはばかるってか? 」

 八つ当たり気味に無茶苦茶を言っている。


 ここで三人は恐ろしいことに気付いた。

 最初にそれを口にしたのは桜だった。

「ねえ、この空飛ぶ本棚の高度、少しづつ下がってない? 」

 希望は唾を呑み込んだ。

 間違いない、下がっている。

 あの水銀の海に堕ちたりしたら、どうなるんだろう?

 あの水面に浮いた無数の首達の仲間入りをするのだろうか?


 本棚はどんどん降下してゆく。

 そして高度が半分ぐらいまで下がった時だった。

 出し抜けに希望の足の激痛が止まった。

 代わりに凄まじいまでの快感が、希望の全身を貫いた。それは足から発していた。

 希望は恍惚とし、失神しそうになる。

 希望の異変に気付いた辰子が、慌てて希望を身体をゆすった。

「おい、希望! どうしたんだ!? 」

 しかし希望は、あまりの多幸感と快感に恍惚となって、返事も出来なかった。


 その時だった。

 後方から、バサッと何かが羽ばたくような音がした。大きな鳥?

 そして、野太い男の声が。

「いかん! 苦痛と快感が反転している! あっち側、逆転世界に取り込まれるぞ!」

 同時に、ふわっと本棚が上昇した。


 それと同時に、再び希望の足に激痛が戻った。

 その衝撃で、希望は「くわあっ!! 」と小さな悲鳴をあげた。

 辰子が希望を抱きしめ、桜がしがみつく。

「大丈夫か!? 」

「平気だよっ! 私がついていると思うよ? 」

 希望は、痛みにちょっと顔を引きつらせながらも、笑顔で返した。

「あ、ああ、大丈夫だよ……」


 三人の頭上で、再び 野太い若い男の声がした。

「あれがハイドラだ。あるいは『地獄』とも呼ばれる。」

 三人は恐る恐る上を見上げた。

 そこには、あの角刈りの背広姿の考古学者が居た。

「しゅ、秀介さん!! 」

 秀介さんは、にっこりと笑った。

「助けに来たぜ。お嬢さん方。いや、まだお坊ちゃん方かな? 」

 頭上を見て、希望も辰子も桜も仰天した。

 ド、ドラゴン?


 銀色に輝く美しい竜だった。巨大な翼をはためかせている。頭部には二本の角、口には鋭い牙があり、迫力があるが、意外なのはその目だった。

 猛禽類のような鋭さがあるものの、瞳は丸くつぶらで、くりくりしている。

 秀介さんは、そのドラゴンの背にまたがっていた。

「さあ、みんな、こっちに乗り換えて。」

 秀介さんにそう言われて、希望達はドラゴンによじ登ろうとしたが、足が滑る。

 するとドラゴンは首を曲げて、ヒョイと希望の襟首をくわえて持ち上げると、自分の背に乗せた。辰子と桜も同様にして、背に乗せてくれた。

 秀介さんはそれを見て、微笑んだ。

「いや、実は俺もヤバかったんだが、この子が来てくれたおかげで助かった。」

 希望は秀介さんを見た。肩が脱臼したと聞いたけど、なぜかそれは治っているようだ。少しも痛がるそぶりがない。

「この子って、このドラゴンですか? 」

「ああ。肩を脱臼して動けなくなっている所に、この子が助けにきてくれた。」

「驚かなかったんですか? 」

「そりゃ、驚いたさ。でもドラゴンは、実はとてもおとなしい動物なんだ。人間とも共存できる知的生物でもある。俺が認識しているだけで、東京には百匹を越えるドラゴンが潜伏している。」

 この人、何だかドラゴンのことを前から知っているようだ。何者?


 辰子は希望の肩をつついた。

「おい、あれを見ろよ。」

 辰子がドラゴンの背の一部を指差す。

 そこには、数本の矢が刺さっていた。

「まさか……!? 」

 秀介さんは頷いた。

「そうだ、この子はツバメ君だ。」

 希望は得心した。

 どうしてツバメさんと初めて会った時、本能的な恐怖を感じたのか? 彼の正体は本物の怪獣だったからだ。

 希望達はドラゴンの背から、矢を引き抜いた。

 傷は浅いようで、出血もほとんどない。それどころか、ドラゴンは、「うざいトゲが抜けた」とでも言いたげに、気持ちよさそうな満足そうな顔をしている。

 秀介さんは言った。

「ドラゴンは、決められた寿命が来るまで死なないのだ。例え身体を切り刻まれても、ミンチにされても、焼いて灰にされても身体を「復元」できる。この子もそうだ。」

 ここで希望は悟った。夢の中でシロが言っていた彼の眷族とは、ツバメさんのことだったんだ。

 ツバメさんは身体を二つに切断されたわけだが、ドラゴンになることによって、それを「復元」したということか。

 秀介さんは苦笑しながら言った。

「この子が言うには、矢やレーザー光線よりも、ヤスに頭を串刺しにされた時が、一番痛かったそうだ。」


 秀介さんはドラゴンの首の近くを優しく撫でた。

「東京には最強クラスのドラゴンが二匹いる。サーシャ君とツバメ君だ。やや気性の激しいサーシャと違って、ツバメ君は穏やかでおとなしい。この子を狙っているドラゴン・マスターは沢山居るんだが、この子は誰とも契約しようとしないのだ。」

 契約?

 希望は思い切って訊ねようとした。あの、秀介さん、あなたはどうしてそんなにドラゴンについて、そんなに詳しいのですか?

 しかしここで辰子が不思議そうに、別の質問をしたので、言葉がさえぎられてしまった。

「なあ、秀介さん。この怪獣がツバメさんの正体なら、どうしてもっと早く、この姿にならなかったんだ? 」

「この子は、野良ドラゴンなんだ。人間と契約していない野良ドラゴンが、本来の力を発揮するには、色々と難しい条件が居る。この子の場合、まず月が地平線から完全に出ている時間帯でなければならない。そして普通の人間なら死ぬような大怪我を負うことが必要条件なんだ。」

 希望はちょっと納得した。なるほど、それでツバメさんは、捨て身でぼくらを庇ったんだ。ドラゴンの姿に戻るために。

 希望は秀介さんに訊ねた。

「その、契約とは何です? 」

「ドラゴンと人間の主従関係の契約だよ。ドラゴンが人間の世界で力を発揮するには、人間の家畜になることが絶対条件になる。けどこの子たちはプライドが高いから、自分の主人にふさわしいと認めた人間としか契約しない。残念ながら、俺は契約できなかった。」

 そう言って、秀介さんは頭を掻いた。


 希望は辺りを見渡した。

「この水銀の海は何です? 」

 秀介さんは即答する。

「ハイドラだ。しかしこれは、奴のほんの一部にすぎない。」


 その時、出し抜けに桜が「あっ! 」と声をあげた。

「見て! あれを! 」

 水銀の海の海面が、また小山のように盛り上がった。

 触手? いや、ちょっと違う。もっと球状の物だ。

 それは次第に明確な輪郭を取り始め、ついには巨大な人間の頭部となった。

 それはあの老人の頭部だった。高さは優に百メートルはあるだろう。

 希望は叫んだ。

「耶麻竹太郎!? 」

 秀介さんは首を横に振った。

「いや、あれは耶麻竹太郎ではない。「かつて耶麻竹太郎だったもの」だ。今はハイドラの一部にすぎない。」

 その巨大な頭部は口を開いた。

「邪魔をするな!! 銀竜王!! 」

 耳をつんざく様な大音響だった。たまらず、四人は耳を塞ぐ。

 それでもその声は大音響となって、四人の耳に響いた。

「地獄は拡張する! 」

 希望は身を固くした。地獄が拡張するって?

「地獄は戒めではなくなる! 実態となる! 地獄図書館は拡張するのだ!! 」

 辰子は表情だけは臨戦態勢だ。辰子の闘争心には、毎度驚かされる。でも、あれは竹刀で対抗できるような相手じゃない。

 一方、秀介さんは落ち着いていた。

「大丈夫だ、今はこの子がいるからね。というか、旧支配者に対抗し、外なる神々から逃げるには、物理法則を改ざん出来るドラゴン達の力を借りるしか他に方法は無いのだ。」

 秀介さんがそう言うと同時にドラゴンは、口から銀色の光り輝く光線を吐いた。まばゆいばかりの凄まじい光柱だった。希望は、思わずアニメの「宇宙戦艦ヤマト」で見た波動砲を思い出していた。

 その光線の直撃を受けると、老人の巨大な頭部は、大量の粉末になった。そしてそのまま、灰色の金属灰になって崩壊した。


 秀介さんは、希望に言った。

「さあ、その『アルソフォルカスの書』を破壊するんだ。それで全ては終わる。」

 希望は頷くと、手に持ったキャスト・パズルの本を力いっぱい、引き裂いた。

 ページが破れ、表紙の金属部品がバラバラになって落下した。


 途端に視界が真っ暗になった。

 あの水銀の大海は消えていた。

 希望は周囲を見回す。

 そこは図書館の地下8階の書庫だった。

 本棚が倒壊し、床に大量の本が土砂崩れの後のように散らばっている。

 希望のすぐ足もとには、バラバラになったキャスト・パズルの部品が散らばっていた。

 ドラゴンの姿は無く、代わりに秀介さんの隣に、ツバメさんが居た。

 ツバメさんは全裸だ。彼は慌てて、手近にあった本の埃よけの布カバーを取ると、それで自分の身体を包んだ。

「ご、ごめん、こんな格好で。」

 希望は顔を赤くして、見ないようにした。逆にイケメン好きの桜は嬉しそうな顔している。辰子は興味ないと言った顔だ。


 秀介さんは、目を白黒させている。

「あれ? ここはどこだ? おや? もしかしてここは、図書館の地下8階か? 変だな、確か俺はさっきまでホールに居て、これから帰ろうと思っていたんだが? 」

 桜は目をパチクリさせた。

「あれ? 秀介さん、さっきのこと、全然覚えてないの? 」


 ここで希望は凍りついた。

 またあのオルゴールの音だ!!

 くそっ! 確かに壊したはずなのに。

 希望はすぐに、本棚にあのキャスト・パズルの本があるのを見つけた。

 辰子も怒鳴る。

「おい、こっちにもあるぞ! 」

 桜も叫ぶ。

「ここにもあるよ!? 」

 書庫のあちこちに、キャスト・パズルの本があって、四方八方から、あのオルゴールの音が響いてくる。

 すると、図書館全体がグラグラ揺れ出した。

 倒れていた本棚が、ひとりでに立ち上がり、フィルムの逆回しのように、床に散らばっていた本が、本棚へと戻り始めた。

 ツバメさんが怒鳴る。

「まずい! 図書館が自己修復を始めた! 巻き込まれないうちに、ここを出るんだ! 」

 

 ツバメさんがシーツの簡易ローブを着たまま、希望をお姫様抱っこをした。

 希望は身体の一部が、ツバメさんの素肌に触れ、顔を真っ赤にした。

 辰子と桜が走り出し、秀介さんは「わけが分からない」と言う顔をしたまま、つられるように後に続いた。

 一同はそのまま階段を全速力で駆け上がった。


19.破地獄

 図書館の閲覧室。

 希望、辰子、桜はソファーに腰かけていた。

 ツバメさんの衣服は、いつの間にか「再生」していた。これもドラゴンの能力なのだと言う。

 図書館は自己修復を終え、何事も無かったかのように静まり返っていた。

 希望は、足の裏をさすった。傷は完全に消えていた。

 辰子が、希望の足をしげしげと眺める。

「うん、大丈夫だ。ドラゴンの唾液ってすげえな。外傷をこんな短時間で癒しちまうなんて。」

 なるほど、これで秀介さんの脱臼も治ったのだろう。

 秀介さんは、なぜかトンチンカンなことを言う。

「なんか肩が、かすかにむず痒いんだよなあ。どうしたんだろう? 」

 どうやら脱臼をしたことさえ、覚えていないようだった。

 秀介さんは、どうして記憶を失くしているんだろうか?

 ツバメさんは申し訳なさそうに、希望に言った。

「俺の涎みたいな汚いものを塗って、ごめんね。」

 希望は首を横に振った。

「汚いものですか! 」


 そこに、田中さんと木野さんが、何事も無かったかのようにやってきた。

「皆様、お疲れ様でした。そろそろ図書館を閉めようと思いますので、帰宅の準備をしてください。」

 生き返っただけではなく、記憶も無くしているようだ。

 ツバメさんは、小声でそっと言った。

「図書館は、田中さんと木野さんを、『備品』と見なしているのだろう。だから、建物や本と共に、彼らは修復されたんだ。」


 秀介さんは、腑に落ちないと言うような顔つきで、希望達とは別の電車に乗って帰って行った。

 ヤスの姿も見えないが、あんな奴はもうどうだって良い。帰れ、帰れ、帰っちまえ。


 三人とツバメさんは、駅の近くの喫茶店で一休みすることにした。

 ああ、疲れた。今日はどっと疲れた。本気で本当に、全力で疲れた。

 希望は、ツバメさんに言った。

「秀介さんを操っていたのは、あなたですね? 」

 ツバメさんは気まずそうに頷いた。

「うん、お察しの通りだ。俺はドラゴンの姿に戻ると、人間の言葉は喋れない。だから、秀介さんに代わりに喋ってもらった。」

「腹話術の人形みたいに? 」

「いや、そこまで器用なことはできない。彼の脳に情報を送って、「代弁」してもらっただけだ。だから口調も秀介さんそのものになるし、彼の独自解釈も混入する。俺のことを子供扱いしたり、お世辞を言ったりしたのも、そのためなんだ。」

「そして、その後、記憶を消したと? 」

「そうだ。」

「どうして、ぼく達の記憶を消さなかったんです? 」

「消せなかったんだ。君らは何か強力な力に守られているようなんだ。俺の精神支配を受け付け無い程の。」

 三人は顔を見合わせた。

 辰子は怪訝そうな顔をしながら、そっと希望に耳もとでささやいた。

「それって、シロとか言う希望のエア・ペットか? それとも、あの人騒がせな変態魔術師のまじないか? 」

 多分、その両方だろう。


 ここで桜が、ノートパソコンを見せた。

「やっと、図書館のシステムをハッキング出来たよ? 」

 四人は液晶モニターを覗き込んだ。


 そこには「地獄プロジェクト」とある。

 辰子は眉をひそめた。

「何だ、こりゃ? 」

 それはCGだった。

 図書館の見取り図が表示されている。

 チカッ!

 1階で「等活地獄で殺生発生」のフレームが現れ、「封印解除」の文字が生じる。

 同じように、2階の「黒縄地獄で偸盗発生」で「封印解除」。3階の「衆合地獄で邪淫発生」で「封印解除」。五戒の全ての封印が解除されると、こんなフレームが大きく表示された。

「全ての封印解除」

「地獄図書館 始動」

 希望は額の汗を拭った。

 この後、どうするんだ?

 続いてこんなフレームが現れる。

「生け贄を8人確保」

 そして8つの人型の記号が表示される。

 生け贄? 間違いなく、ぼくらのことだろう。

 辰子が、図書館の8階のさらに下を指差した。

「おい、見ろよ! 」

 地下深くから、何やらドロドロした不定形の物体のCGが表示された。それは下からゆっくりと図書館8階へと近づいて来る。

 ツバメさんが言った。

「このドロドロが、ハイドラだろう。」

 続いて、こんなフレームが表示された。

「生け贄を多頭の神に捧げる」

 同時に8つの人型が、あのドロドロに放り込まれた。

 すると即座にドロドロは真っ赤に染まり、図書館の中へと、一気に流れ込む。

 そして図書館と一体化した。

 希望は呟くよう言った。

「ハイドラが図書館と合体した……」

 同時に図書館は、猛スピードで巨大化し、その見取り図は画面いっぱいに広がった。

 フレームが表示される。

「地獄の完成」

「地獄は戒めではなく、実体を持った本物となる」

「地獄は拡張し、世界を侵食する」

 辰子は、「チッ! 」と舌を鳴らした。

「正気の沙汰じゃねえな。つまり奴は、俺たちをハイドラに捧げて、本物の地獄を創ろうとした、そういうわけだな? 」

 ツバメさんは頷いた。


「耶麻竹太郎は、狂信的なまでの道徳主義者で、厳罰主義者でもあった。彼にとって『地獄』は理想だったんだ。彼にとって、それは妄執に近いものとなり、仏教の戒めだけでは、物足りなくなった。そこで」

 希望が後を引き継いだ。

「インドの寓話の王様のように、自分で地獄を創りだそうとしたわけですね? 」

 ツバメは頷いた。

「それで、彼は本物の『地獄』と取り引きをしたのだろう。」

「本物の地獄? 」

「そうだ。それがハイドラと呼ばれる存在だ。」

 希望は、あの『イスラムのカノーン』の記述を思い出していた。


「この存在、仮にハイドラと呼ばれるもの。しかし深みの者どもの眷属にはあらず。外なる神々の一柱である。ハイドラなる名の語源は、頭が無数にあることからそう呼ばれる。しかしその無数の頭はハイドラの頭にあらず。知性を持った生物の脳髄の苦痛を食らうがために、首を狩り、己の身体の一部としてつなぎ、移植したものである」


 ツバメさんは、手元のコップのお冷をぐっと飲み干した。

「ハイドラは、外なる神々の一柱だ。本当の名前は俺を含めて、誰も知らないだろう。ただ、とんでもなくおぞましい存在だ。」

「あの水銀の海ですね? 首が沢山移植された。」

「そうだ。ハイドラは、知的生物の苦痛を食い物にする神だ。奴は時空を超えて、知的生物を見付けると、精神を司る臓器である脳のある器官、人間の場合は頭部だね。これを引き千切っては、自分の身体に移植する。」

 辰子は「うへえ」と声を漏らした。

「接ぎ木みたいにっスか? 」

「そうだ。そして、その脳の神経に、地獄の情報を送り込む。」

 希望は眉をひそめた。

「地獄の情報、ですか? 」

「そうだ。そしてその首は、地獄を仮想現実で体験することになる。」

「F・K・ディックの小説みたいですね。」

 桜も顔を顰めた。

「シュワちゃんの映画の『トータル・リコール』みたいな? 」

 桜の奴、随分と古い映画を知っているな。たぶん、動画サイトで観たんだろうけど。

 ツバメさんは頷いた。

「そうだ。しかも幻覚なんて生易しいものではない。痛覚も神経を通じて送りこまれる。犠牲者の脳にとっては、ほとんど現実と変わらない地獄の実体験だ。」

 桜の頬を一筋の汗が流れた。

「あの水銀に触れた時、私達は腕や指を切断される幻覚を見せられたけど、痛みも本当に感じたと思うよ? もしかして、それがハイドラの仮想現実? 」

 ツバメは頷いた。

「まさにそうだ。でも、脳を捕らわれた犠牲者の仮想体験は、あんなものでは無いだろう。文字通り、仏教の地獄絵図のような責め苦を仮想体験させられるのだろう。」

 希望も冷や汗を拭った。冗談じゃない、そんなの絶対に御免こうむる。

「なるほど、それでハイドラは『地獄』と呼ばれるわけですね。」

「そうだ。でもハイドラの苦痛は、俺たちの考える苦痛とは違うかもしれない。奴は『逆転世界』に居るのだから。」

「逆転世界? 」

「苦痛と快感が逆転する世界だ。君も経験しただろう? 」

 確かにそうだった。足の激痛が凄まじい快感に変わり、うかつにも恍惚となってしまったっけ。

「地獄の責め苦が、そっくり快感に反転したら、どうなるかだなんて想像したくもない。それはともかくも、おそらくの老人、耶麻竹太郎は、ハイドラに自分から脳を捧げたんだと思う。彼はそうすることによって、ハイドラと精神を共有した。彼が正気を保っていたかは分からない。しかし、彼はハイドラと一体化して、君らを襲った。」

 辰子は吐き捨てるように言った。

「迷惑な話しだぜ! 」


 希望も腹が立っていたが、とりあえずその感情を飲み込んだ。

「あの本は何だったんです? 」

「誰が何のために作ったのか、俺も良く知らない。ただあれは、別次元に通じる扉を開く鍵になるようなんだ。魔術師やドラゴンは、あの本を『アルソフォルカスの書』と呼び、あのキャスト・パズルを『嘆きの構造体』と呼んでいる。語源は俺も知らない。」


 希望は一番気になることを尋ねた。

「ぼくは元凶のキャスト・パズルの本を破壊しました。これで事件は終わったのでしょうか? 」

 ツバメさんは残念そうに首を振った。

「いや、あの『アルソフォルカスの書』は1冊だけでは無かったろう? 耶麻竹太郎は、何冊もあの本を集めた。今回は失敗だったが、スペアはまだまだある。図書館が自動修復してしまったのが、地獄プロジェクトのシステムが健在な証拠だ。」

 しかし、ここで桜がニッと笑った。

「ううん、これで終わりだと思うよ? 」

 そう言って、桜はモニターを指差した。

「あ……」と希望。

「おお!? やったな! 」と辰子。

 ツバメさんは顎に手をやり、「なるほど」とつぶやいた。

 桜が送り込んだ凶悪なウイルスは、凄まじい速度で「地獄図書館」の地獄プロジェクトのシステムを侵食し、破壊していた。

 辰子は、ふーっと安堵のため息をついた。

「今度こそ、これで終わりだな。」


20.その後

 そのまま四人は、解散となった。

 ツバメさんは反対方向の電車に乗り、三人は安堵の表情を浮かべながら、荒川区の新谷田へと帰って行った。


 その夜、希望も辰子も桜も、安心して熟睡した。

 知らぬが仏。

 その頃、ヤスはと言うと、鼻歌を唄いながら秘密の部屋に居た。そこには大きな空っぽの水槽があり、それには「希望ちゃん」とラベルが貼ってある。

 その水槽の前で、彼はホルマリンの薬瓶をチェックしていた。


 翌朝、三人はいつも通りに登校した。

 登校の途中、希望は背後に人の気配や視線を何度も感じた。

 振り向くと、人影がサッと電柱や壁の陰に引っ込んでしまう。

 その話しを聞くと桜が心配そうに言う。

「ストーカーかな? 嫌だよね? 」

 辰子は拳を握って見せる。

「どこのどいつか、だいたい検討はつくよな。」

 希望は、ふーっとため息をついた。

「悔しいけど、あいつには2回も不覚を取ったからね。痺れ薬入りのコーヒーに、睡眠薬の注射。」

「反則だろ。」

「古武術の免許皆伝者にしてみれば、不覚もいいところだよ。」

「……まあ、確かにそうだな。今が戦国時代だったら、お前、死んでるぞ? 」

「戦国時代に注射器なんて無かったと思うよ? 」

 希望は軽く肩を回した。

「でも、同じ手には二度と引っかからないよ。三度目があったら、今度は本当に半殺しにしてやる。」


「ところで」と辰子は、本題に入った。

「あのバイト、続けるのか? 」

 希望は即答した。

「もちろん! 」

 桜は眉をひそめた。

「確かに、地獄プロジェクトは破壊したから、あの図書館はもう無害だと思うよ? でもあんな目に遭った昨日の今日だよ? 」

「でも、あそこには他には見られない、珍しい本が沢山あるんだよなー。」

 それにツバメさんにまた会えるし。

 辰子は呆れたように言った。

「一番酷い目に遭ったって言うのに。お前も本っ当に、懲りない奴だなあ。」

 希望は微笑で返した。

 そう、ぼくの本の虫は治りそうに無い。


次回、「男の娘とバベルの塔」です!

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