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男の娘と地獄図書館  作者: 八木鈴世
1/2

前篇

前篇です。

1.さいころビル

 とんだアルバイトもあったものである。

 最初は軽い気持ちで、やってみることにしたのだが、まさか本当に地獄を見るはめになるとは、希望も辰子も桜も、思ってもみなかった。

 そのバイトとは、ぶっちゃけ閉鎖されてから15年以上も放置された私設図書館の蔵書整理である。

 その図書館の建物の外観はひどく不気味だった。正立方体に近いことから近所の人々からは、通称「さいころビル」と呼ばれていた。

 壁面のモルタルはとっくの昔に剥がれ落ち、代わりに蔦が繁茂し覆い尽くしている。

 周囲の庭も放置状態なものだったから雑草が生い茂り、使われなくなって久しい駐車場のアスファルトもヒビだらけで、その割れた隙間からも雑草が顔を出していた。

 傍から見れば、まるで廃墟である。


 そんな不気味な建物を目にしながらも。希望の唇は、ちょっとほころんでいた。

 15年前に閉鎖されたということは、古い本が沢山あるはずだ。さぞかしそこは珍しい稀覯書の宝庫だろう。

 本好きの希望にとって、好奇心が嫌でもくすぐられると言うものだ。

 一方、辰子はというと、あんま楽しそうな顔はしていない。

「うー、あんまゾッとしねえ建物だな。オバケでも出るんじゃねえか? 」

 桜はそんな辰子を見て、くすくす笑っている。

「うふふ、辰子って、オバケが苦手なんだ? 」

「そんなんじゃねーよ! 俺は汚いのが苦手なだけだ。」


 三人が、恐る恐る図書館の門の前まで歩を進めると、既にそこには四人の先客の姿があった。

 中年の男が一人と、若い男が三人だ。

 すぐに中年の男が、希望たちに気付いた。

「おお、君たちがバイトさんだね? 」

 最初に話しかけて来たのが、頭の禿げたおっさんだ。彼はにこやかに微笑ながら、希望たちに向って手招きをした。

 この人がバイトの雇い主の田中さんだろう。

 その田中さんは簡単に自己紹介する。

「私が田中雄三たなか・ゆうぞうです。ここの図書館の資産管理を任されている弁護士です。」

 希望ら三人も頭を下げる。

「こちらこそ、よろしくお願いします。二ノ宮希望です。」

「ど、ども、柏崎辰子です。」

「はじめまして! 野崎桜ですっ!! 」


 すると田中さんのすぐ後ろに立っていた青年が大きな声をあげた。

「ひゅー、可愛い娘じゃん! 」

 そう口を開いたのは、長身の青年だった。二十代後半と言ったところか。なかなかのイケメンである。短いオカッパの髪型で、着ているものは長袖のTシャツにジーパンだ。

 その青年は希望の全身を舐めるようにジロジロ見る。特に首筋のあたりと、脚に視線が突き刺さる。

 おかげで希望は、ちょっといたたまれない気分になった。

 まあ希望にしてみても、基礎工事が始まって外見が女の子になった途端、男性達の自分を見る目が変わったことぐらいは、だいぶ前から気付いている。それで男性から視線を浴びることは、希望は慣れたつもりなのだが、この人はのそれはちょっと普通とは違う。

 Hな視線とでも言うのだろうか? ネチネチした、しつこいものだ。普通の男性だったら、見られていることに気付いた希望が視線を返すと目を背けてしまうものだ。しかし、この人の場合はそれがない。背ける代わりにニヤニヤした笑みで返してくる。

 ちょっと度が過ぎるように思う。

 田中さんは軽く咳払いをすると、この青年を紹介した。

「こちらは今野泰道こんの・やすみちさん。新谷田大学医学部で、生理学の研究員をしておられます。」

「ヤスって呼んでくれ。他人行儀は嫌いでね。ま、そんなわけでよろしく頼むぜ! 」

 ヤスはニヤニヤ笑いながら挨拶をした。

 希望はちょっと首を傾げた。

 生理学者? それが古文書の整理と何の関係があるのだろう?

 それに失礼ながら、とても科学者には見えない人だけど。


 続いて田中さんは二人目を紹介する。

 小ざっぱりした角刈りの青年で、見るからに体育会系の大学生と言った風情だ。肩幅の広いガッチリとした体型だが、着ているものは背広と、ちょっと堅苦しい。

「こちらは新谷田大学人文学部で助手をやっておられる内藤秀介ないとう・しゅうすけさん。専門は考古学です。」

 彼は片手を挙げて挨拶する。

 へえ、考古学者!

 希望は感心したように頷く。


 最後の一人は、白のワイシャツに紺のズボンと、地味な服装であるが、凄いイケメンの少年だった。高校生にも大学生にも見える。

 清潔な雰囲気のウェーブの入った髪を流し、中性的な顔つきながらも精悍な目をしている。眠そうにも、温和そうにも見える表情を浮かべている。顎と首筋を見るとやや細めだが、およそ贅肉の類が全く無いだけで、筋肉がそれなりに発達している。いわゆる「細マッチョ」の体型をしていることが良く分かる。多分、武道を何かやっているな、と希望は推測した。

 イケメンに目の無い桜は、早速この少年に目を奪われていた。

 田中さんはこの少年を紹介する。

「彼は白銀ツバメ(しろがね・つばめ)君。新谷田大学1年。君らと同じバイトです。」

 白銀は軽く頭をさげた。

「よろしく。専攻は民俗学です。」

 そして、さわやかな雰囲気の笑みを浮かべる。

 それを見て、桜は「むふー」と息を荒くしている。また桜の一目惚れの癖が出たようだ。


 しかしこの瞬間、希望は彼が人間では無いと直感していた。

 何なんだ? この人は?

 希望はこれまで何人もの「人間では無い存在」と接触してきた。その勘が告げる。この人は人間では無い、うまく言えないけど、どこか異質な存在だ、と。

 辰子もこの少年から何か異様な雰囲気を感じたようで、不快そうな目をしていた。

 希望はこれまで出遭って来た人外の存在たちを頭で復唱する。吸血鬼? 魔術師? 式神? ミュータント? 外宇宙から来た存在? いや、いずれも違う。この冷たい雰囲気は……

「では、参りましょう! 」

 田中さんはそう言うと、先導するように歩き始めた。

 希望は慌てて彼の後を追った。

 希望達は田中さんの後を追うように、図書館へと向かった。

 建物の入口のすぐ前には小さな堀があり、そこには小さな橋がかかっていた。

 橋には「正途川橋」とある。


 田中さんは図書館の入り口にある重たそうな鉄の扉の前に立った。

 ポケットからカード・キーを取り出して、それをカード・センサーに通すと、鉄の扉は、ギシギシと軋むような音を立てて、ゆっくりと開いた。

 この図書館は外観に似合わず、かなりオートマ化された建物のようである。

 希望は神保町の古書店のようなカビの臭いと埃っぽい空気を覚悟していたが、全然そんなことはなかった。館内の空気はとても清潔で、気温も暑くも冷たくも無く、過ごしやすそうだ。

 その意外性に驚いたのは、希望だけではなかったようだ。

 辰子と桜はもとより、ヤスも秀介もツバメも、辺りを見回しながら、大きく息を吸っている。

 それに気付いたのか、田中さんは説明した。

「貴重な蔵書が多くありますからな。湿度調整、空気清浄器のメンテだけは、15年間欠かさず行って来たのです。」


 そこは大広間で、四方の壁はことごとく本棚だ。

 田中さんの説明によると、入口ホールとのこと。

 壁の本棚には、古い革表紙の書物がぎっしりと詰め込まれていた。

 広間の中央には、巨大でアンティークな地球儀が置かれていた。

 希望は思わずつぶやいていた。

「17世紀の図書館司書のガブリエル・ノーデが言うには、図書室や図書館には、地球儀が置かれていなければならない……」

 それを横で聞いたツバメさんが、軽く頷いた。

「そうだね、地球儀は世界の地理の象徴だ。図書館には世界中の知識が集まることを表しているんだ。」

 辰子はその地球儀をしげしげと眺めた。

「でもこの地球儀、何か変じゃねえか? 」

 そう言われて、希望も地球儀を見た。確かに辰子の言う通りだ。アフリカもオーストラリアも南北アメリカも見当たらない。

 桜もおかしな所に気付いたようだ。

「変だよ? この地球儀、インドと中国と日本しかない。」


 その大広間の一番奥にはアーチがあり、そこから次の部屋へと続いていた。

 アーチにはプレートがかかっていて、それには「森羅殿」と書かれていた。

 どういう意味だろう? 森羅万象?


 アーチをくぐると、そこには油絵の肖像がズラリとならぶ短い廊下だった。

 まるで肖像画達の視線を一斉に浴びるようで、あまり楽しい雰囲気の通路ではない。

 自然、一同は足早になる。

 田中さんが説明する。

「この図書館の設立者達です。全部で9人居ます。」

 希望は首を傾げた。9人? 肖像画は全部で10枚なんだけど。

 いずれも仏頂面の愛想の欠片も無い表情の老人達で、いっせいにこちらを睨みつけているようにも見える。

 一番恰幅の良い老人の肖像があり、どうもこの人が責任者っぽい。ネームプレートには「耶麻竹太郎」とあった。


 廊下の突き当たりは、仄かな明りの射す広い部屋になっていた。

「ここが閲覧室です。」

 図書館の閲覧室と言うよりは、社交クラブの娯楽室だ。

 ペルシャ絨毯に、大正時代を思わせるソファーとテーブル。

 天井には、大きな時代がかったシャンデリアがぶら下がっている。

 壁は赤い煉瓦作りで、模造品の暖炉までもがある。

 部屋のあちこちには、ビクトリア朝風の家具やインテリアが置かれていた。

 なんだか江戸川乱歩の小説の主人公にでも成った気分だ。

 この部屋の奥には巨大な鏡がある。鏡の両脇にはプレートがあり、そこにも意味不明の文字が刻みこまれていた。


「黒闇天女」

「泰山府君」


 希望は泰山府君の名は知っていた。確か道教の神様で、冥界を司る神だ。それが日本に伝わり、陰陽道の神になった。

 けど、それを大きな鏡の横に書き込むなんて、何の意味があるのだろう?


 鏡の反対側の壁には戸口があり、そこには「司書室」のプレートがかかっている。

 その司書室の奥からは、食器をカチャカチャ鳴らす音がする。

 どうやら人が居るようだ。

 田中さんは、四人にソファーに座るように促した。

 するとすぐに司書室の奥から、一人の中年女性が、お盆に紅茶とお菓子を載せて現れる。

 田中さんは彼女を紹介した。

「この図書館のメンテを担当しておられる、この図書館唯一の司書、木野さんです。」

 彼女は頭を下げた。

「よろしくお願いします。」

 希望たちも頭を下げる。

 ヤスだけがつまらなそうに、挨拶もせずに、足を組んで座っている。顔には「ふん、BBAには興味ない」と書かれていた。


 全員が紅茶を飲んで一息つくと、田中さんはこの図書館について説明を始めた。

「この図書館は地上1階建てです。しかし地下は8階まであります。つまり、蔵書のほとんどは地下室にあるのです。」

 つまり、この図書館は下に伸びている構造だということか?

「ご存知の通り、この『耶麻文庫やまぶんこ』は規模こそ小さいものの、蔵書の質の高さは、天理大学図書館にも匹敵すると言われています。」

 もちろん希望も、その話しは聞いている。平成の終わり頃、東南アジアとの輸出業で財を築いた十人の資産家達が、金に飽かせた蔵書コレクションを一つにまとめて作った図書館だ。

 学問のためのボランティアと言うより、金持ちのコレクション自慢、道楽と言ったものだったらしい。

 しかしここは一時期、他で読むことが出来ない希少な資料が大量にあるということで、歴史学者や民俗学者、文化人類学者、書誌学者達の垂涎の的だったという。

 贅を尽くした作りの私設図書館で、紹介状が無ければ閲覧が出来ない会員制の図書館でもあった。

 しかし諸行無常、パンデミックの到来によって、この図書館は運営の危機に陥り、閉鎖を余儀なくされた。

 貴重な蔵書が痛むことを危惧した新谷田財団が支援金を出さなかったら、ここの蔵書はカビと虫の御馳走と化していただろう。

 結局、この図書館は15年以上もの間、再開の目途が立たなかった。かといって売りに出し、蔵書を四散させるのも忍びない。それで結局、支援者の新谷田財団に全蔵書を寄付する形で終わってしまった。

 それでこの図書館は、現在は法的には、新谷田財団が運営する聖ブリジット学園図書館の「別館」なのである。

 田中さんは仕事の手際について説明する。

「皆様には、ここの蔵書とリストが一致していることを確認していただきたいのです。東洋医学部門については、今野泰道さん。考古学部門については内藤俊介さん。本草学・博物学部門については白銀ツバメさんに、やっていただきます。バイトの三人の方は、臨機応変に助手をやっていただきます。」

 希望は「ああ、なるほど」と思った。東洋医学書もあるんだ。それで生理学者が呼ばれたわけだな。


 閲覧室の隅には螺旋階段があり、そこから階下の書庫につながっていた。

 階段を降りると同時に、希望は息を飲んだ。

 本、本、本、物凄い数の書物である。

 洋書もあれば、和書もある。

 本棚の一部には、中世ヨーロッパの写本と思われる巨大な本が並べられ、それらが鎖で施錠されている。

 辰子がそれを見て、眉をひそめる。

「本を鎖で縛るなんて、何のまじないだ? 」

 希望は説明した。

「いや、あれが中世ヨーロッパの図書館の一般的な作法だったんだ。当時は本は大変な貴重品だったから、盗まれないように鎖でつないだんだよ。」

 ここで田中さんが、パン! と手を叩いて言った。

「それでは先生がた、作業を始めてください。バイトの皆さんは、それぞれの先生がたをお手伝いするように。」


 希望は、出来ることなら秀介さんの助手になりたかった。

 ヤスの助手にだけはなりたくなかったし、人間ではない(?)ツバメさんも気が進まない。

 ところが辰彦の奴が、さっさと俊介さんの後について行ってしまう。

 イケメン好きの桜は、嬉しそうにツバメさんについてゆく。

 出遅れてしまった希望の後ろから、ヤスが声をかけてきた。

「じゃあ、俺の手伝いをしてくれ、希望ちゃん。」

 希望は背筋に、ちょっと鳥肌が立った。

「あ、あの、今野さん……、その呼び方は、ちょっと」

 だがヤスは、全然気にしない。

「言ったろ? 他人行儀は嫌いなんだよなー。俺のことはヤスでいいよ。俺も君の事は、希望ちゃんと呼ぶからね。」

 取って付けた様な優しい声と口調で、微笑みかけてきた。

 だがその不気味なスマイルは、希望の警戒心を高めるだけだった。

 顔だちこそイケメンかもしれないが、この人にはどうにも好感が持てない。

「じゃ、じゃあ、ヤスさん。」

「さんはいらないよ。ヤスって呼んでよ。」

 そう言って、ヤスはニヤリと笑った。

 何なんだろ、ツバメさんには本能的な恐怖を感じるのに対し、このヤスさんには生理的な嫌悪のようなものを感じる。

 希望は間を取りながら、ヤスの後に続いた。


 そんなわけで希望は、今日はヤスの助手を務めることになった。

 正直この人とは、あんま仕事はしたくない。思いっきり嫌らしい視線を浴びせかけられたばかりだから当然だ。けど、まさかそれを理由に断るわけにもゆかない。

 希望は仕方なく、ヤスについて仕事場に入った。

 そこは地下3階だった。中央に大きな部屋があり、東西南北にはそれぞれ小さな部屋が4つずつ、隣接していた。

 希望とヤスが仕事をするのは、東側の小部屋の1つだった。

 入ると、そこには古い和書の香りが部屋中にたち込めていた。

 この部屋にある蔵書は、ほとんどが白文で書かれた和書か漢籍だ。

 希望は漢文は苦手では無いが、白文の専門書となると、まるで歯が立たない。それで残念なことに、この部屋の書物は、とても読めそうにない。

 目の前にうず高く積まれた本も、『傷寒論』と『金匱要略』の注釈書だということまでしか分からない。

 ヤスは棚から本を取り出し、それを並べているのだが、机の上と希望の方を、交互に見ている。彼は、あきらかに希望のうなじと鎖骨を、じろじろ見ている。

 その視線がどうにも気になるが、希望は無視して、仕事に集中することにした。

 ともあれ、希望は書名とリストが一致していることを、1つ1つ確認していた。


 この退屈な単純作業が始まって、3時間ほどしただろうか。

 ヤスが、缶コーヒーを2つ持って来た。

「では希望ちゃん、ちょっと休憩しようか? 」

 正直、この男からは何も貰いたくは無かったのだが、喉がカラカラだった。

「あ、お構いなく。」

「いいって、いいって。」

 希望はその缶コーヒーを受け取ると、それを飲んでしまった。

 ヤスは椅子の背もたれの上に両腕を組んで乗せた。そして、希望の顔を見る。

「希望ちゃん、君は適応者だろ? 」

「ええ。分かりますか? 」

「そりゃ、分かるさ。俺は生理学者の端くれだからな。性転換技術については、それなりの専門家だよ。」

「ぼくはまだ男ですからね。3年後には本物の女の子になりますけど。まだ女装してるだけだとばれると、キモいって言う人も多いですけどね。」

「俺はそうは思わないな。俺は断じてホモじゃないし、女の子は好きだ。けど、俺にとって、君らは究極の理想の女なんだよな。まず、これ以上に無いくらいの貧乳だ。それに女でありながら、女臭くない。これ、とても大事。」

 希望は、どうにも気まずい雰囲気になった。

 こんな話し、初対面の相手に出して良い話題か?

 そう思った時だったと思う。

 なぜか大きな眩暈が、希望を襲った。

 頭がクラクラする。部屋の中の風景がグルグル回り出した。

「あ、あれ……? 」

 手足の力が抜け、椅子から崩れ落ちそうになる。

「おっと! 」

 ヤスが、そんな希望を抱きかかえる。

「おやおや、気分が悪いのかい? 」

 そう言うと、ヤスは、希望の身体を引きずるようにして、大きなデスクの上に寝せた。

 希望は焦っていた。

 駄目だ、手足が動かない。

 声を出そうとしたが、ハーハーと苦しそうな吐息が出るだけである。

 くそっ! さっきの缶コーヒーに何か薬のような物を入れられたんだろう。

 ヤスは、そんな希望の顔を上から覗き込んだ。

「呼吸が苦しいだろう? 喉を楽にしたほうがいい。」

 そう言って、希望のセーラー服のタイをほどいた。

「上着も楽にしたほうがいいね。」

 そう言って、ボタンを1つ1つはずしてゆく。

 希望は必死になって、身体を動かそうとしたが、どうにもならない。歯を食いしばることすらできない。

 大声を上げて助けを求めようと再度試みたが、やはり駄目だった。出てくるのは吐息だけだ。

「ふーん、君はブラは付けない派か。まあ、君らには、まだ必要の無いものだよねえ。」

 ヤスは笑いながら、手を希望の胸にあてた。

「診察もしてあげよう。」

 くっ……!!

 希望は屈辱と嫌悪と怒りで、顔が真っ赤になった。

 畜生!! 身体さえ動いてくれれば!!


 その時だった。

「何をしているんです!? 」

 凛とした声が響いた。

 希望は首を動かせなかったが、その声があのイケメン少年だということは、はっきりと分かった。

 ヤスは慌てて手を引っ込める。

「あ、いや、希望ちゃんが突然、卒倒したもんだから、介抱をしていたんだよ。」

 ツバメは無言のまま、部屋に入ってくると、両手に持った本の山を、手近の棚の上に置いた。

 そして、未整理の本の山に被せてあった布シートを掴むと、上着を半分はぎ取られた希望を見ないようにしながら、その布を被せた。

 そして、優しくそれで希望を包む。

「でしたら、もっと暖かい部屋に寝せた方が良いでしょう。」

 そう言うと、ツバメは布にくるまれた希望を両手で抱きかかえると、そのまま部屋を後にした。


 希望はちょっとびっくりした。

 この人、見かけによらず凄い馬鹿力の持ち主だ。

 布にくるまれた希望をお姫様だっこしたまま、地下3階から階段を、息切れの一つもせずに、早足で登って行くのだから。

 ツバメは優しく言った。

「もう大丈夫、安心して。」

 やがて、ツバメは1階の閲覧室までやってくると、希望を柔らかいソファーの上に、そっと寝せた。

 クッションで枕まで用意してくれる。

 司書室から木野さんが、ちょっと驚いた様子で出てきた。

 ツバメさんが言う。

「彼女、貧血を起こしたみたいなんです。ここでちょっと休ませてあげてください。」

 木野さんはちょっと戸惑っている。

「病院までタクシーを呼びましょうか? 」

 ツバメさんは首を横に振った。

「いや、そこまでする程、ひどくはないでしょう。」

 この騒ぎを聞きつけて、田中さんに秀介さん、辰子と桜も階段の踊り場付近から、顔を覗かせている。

 ツバメさんは彼らに向かっても言った。

「大丈夫、軽い貧血です。ここで休ませているから大丈夫ですよ。皆さんは仕事に戻ってください。」


 幸い、この薬は効き目が早い代わりに、効き目が切れるのも早かった。

 それで希望は午後にはバイトの仕事に復帰できた。

 しかし、ヤスの近くは大いに敬遠して秀介さんの仕事を手伝った。


 その日の夕方、バイトを終えた三人は、行きつけのカフェ「マルクト」で、パフェとコーヒーを飲んだ。

 辰子が訝しげに言う。

「貧血だあ? 健康優良児の代表みたいな希望に、そんなものあるかって。」

 桜も「うん、うん」と頷いている。

 希望は基より隠すつもりは無かった。

 二人を守るためにも。

 そしてボクら三人は、お互い隠し立てはしないと誓い合った仲だし。

 希望はヤスに妙な薬を飲まされ、イタズラされかけたこと、そこをツバメさんに助けられたことを、かいつまんで説明した。

 辰子は顔を真っ赤にして、頭から湯気を立てている。

「何で、あの時にすぐに言わなかったんだ!! 」

 桜も口を「へ」の字に曲げている。

「泣き寝入りは絶対にいけないと思うよ? 」

 希望は軽く下唇を噛んだ。

「次は無いさ。でも今は静観したい。」

 辰子は納得行かないと言った表情だ。

「なんでだよ? 」

 それは桜も同様だ。

「泣き寝入りは絶対にダメだと思うよ? そういう態度が、女の敵をのさばらせるんだから。」

 希望は軽く溜息をついた。

「その通りだけど。」

 そう言って、希望は懐から封筒を取り出す。

 今週のバイト代だ。

「土日の2日だけで8万円。これを4回だぜ? こんな美味しいバイトが他にあると思うか? 」

「う……」

「ちょっと、無いよね……」

「だろ? それにこのバイトを紹介してくれた生徒会長にも迷惑がかかるし、カッ君の耳に入ったら、あの子、何をするか分からないし。」

 辰子は押し黙った。

 しかし桜は、ふくれっ面だ。

「納得行かないと思うよ? 」

「だから二度目は無いさ。今度やったら、本当に容赦はしない。」

 桜は仕方ないと言った表情で、ポツリと言った。

「希望がそう言うなら……」

 希望は無理に笑顔を作った。

「それより、辰子と桜も、あいつには気を付けろよ。もし奴が何かしたら、その時は二度目だ。やっつけよう。」

 とりあえずは、これでこの件は終わりにすることにした。


 その夜、風呂で希望は身体を念入りに洗った。


2.地獄とボタニカル・アート

 その翌日の日曜日、希望は桜と共にツバメさんの助手となった。

 いっぽう辰子はヤスの助手となった。作業場は地下5階だ。

 辰子はずっとヤスの挙動に目を光らせていた。この変態野郎、ちょっとでも俺に手を出してみやがれ、竹刀の錆びにしてくれる。

 だが、ヤスは黙々と仕事をするだけで、特に不審な行動は見せない。休憩時間にも、飲み物は自分のぶんしか用意しない。

 ただ重苦しい沈黙のまま、時間がすぎるだけである。

 業をにやした辰子は、自分の胸を時々わざとらしいまでに揺らしてアピールして見せた。

 しかしヤスは反応しない。

 とうとう辰子は我慢も限界に来て、口に出してしまった。

「なあ、俺にはイタズラしねえのかよ? 」

 ヤスは無表情のまま、こちらを見ようともしない。

「君、何か勘違いしてるみたいだけど、俺は貧血を起こした希望ちゃんを介抱してあげただけだよ。」

 辰子はチッと舌を鳴らした。

 ふてぶてしい野郎だ。

 すると、ヤスは辰子の舌打ちに応えるように言った。

「あと俺ね、ホルスタインには興味ないの。胸が肥大化した、乳の化け物なんて、触るのも嫌だよ。」

 ……ぷちん。

 こ、この野郎ぉおおおおお!!!

 しかし竹刀で殴りかかるわけにも行かない。

 代わりに辰子は思わず本のリストを、怒りに任せるまま力いっぱい握りしめていた。


 辰子が癇癪を起こして書類をクシャクシャにしていた頃、希望は桜と共に、ツバメさんの指示に従いながら、大きな本を本棚から出しては、リストに従ってデスクにならべ、チェックが終わると本棚に戻すという単純作業を続けていた。

 ここで桜が希望に声をかける。

「ねえねえ、希望、ちょっとこれを見てみてよ? 」

 桜は本の裏表紙の開き、そこに貼られた小さな紙片を指さしていた。

 その小さな紙片には、こんな言葉が書かれていた。


『仏の顔も三度 本を借りて返さない偸盗の輩は 人界の100年が忉利天の一昼夜 その寿命を一昼夜として1000歳 黒縄地獄に堕ちるであろう』


 桜はちょっと気味悪げな表情だ。

「ちょっと物騒なことが書かれていると思うよ? 」

 希望は「うーん」と人差し指を眉間にあてる。

「蔵書票の中には、本を借りて返さない人への呪いの言葉を書いた物があると聞いたことはあるけど、日本にもこんなことをしている人が居たんだね。」

「黒縄地獄って、八大熱地獄の上から二番目だっけ? 「鬼燈の冷徹」に書いてあったけど。」

「盗みを犯した人間が堕ちる地獄だね。黒い縄で印しを付けられて、ノコギリで切られると言う。」

「でも盗みでそんな拷問、厳しすぎると思うよ?」

「そうだね。虫一匹殺しただけでも、等活地獄に堕ちるって言うし。」

「それじゃ、人類のほとんどは地獄に堕ちちゃうと思うよ? 」

 希望は頷いた。

「うん、だからこその仏の慈悲なんだよ。罪を犯しても、阿弥陀様にすがったり、法華経に帰依して題目を唱えれば赦される。」

「ヒットラーみたいな奴も、念仏すれば極楽に行けるってことなの?」

「そう言うことになるね。これはこれで不公正かもしれないけど、ここが宗教と道徳の違いなんじゃないのかな。」

 ここで桜がちょっと考え込む。

「じゃあ、地獄に堕ちてしまってから、念仏を唱えたらどうなるんだろう? それとも地獄に堕ちてから念仏を唱えても手遅れなのかな? 」

 希望は、ちょっと考え込んだ。

「どうなのかな? 江戸の初期に「谷響集」と言う在家信徒の素朴な質問に答えるQ&Aみたいな本なんだけど、それによると地獄に堕ちてから念仏を唱えても救われるらしい。」

桜は呆れたように突っ込んだ。

「それじゃ地獄の意味が無いんじゃない?」

「うーん、でもその本の行間を読むと、ケースバイケースかもしれない。また地獄に堕ちた人間は、念仏を唱えようと考えることが出来なくなるとも深読みできる。」

 それでも桜は不可解な顔をしている。

「簡単に堕ちるかと思えば、出るのも簡単なわけ? 地獄って良く分からない。」

「仏教の地獄は、キリスト教等の地獄とは、考え方が全然異なるからね。キリスト教の地獄は完全に懲罰だけど、仏教のそれは違う。」

「仏教の地獄は罰じゃないの? 」

 希望は頷いた。

「仏教の地獄は、あくまで業を清算するところだからね。それが終われば地獄から出られるし、仏の慈悲によって業を消して貰えば、やはり出る事が出来る。キリスト教の地獄と違って、永遠じゃない。」

 桜は首をかしげた。

「うーん、じゃあその慈悲深い仏様が、最初から業を消してくれれば良いんじゃないの? 」

 希望は苦笑した。

「仏教では、仏様は全知全能じゃないんだよ。如来様にも不可能なことがあると認めているんだ。例えば信仰心の無い人は、仏様は救いたいと思っても救えないんだ。」

 桜は「うーん」とまた何か考えている。

 希望はここで話題を変えることにした。話しが、やたら抹香臭い。


 ここで希望は革表紙の本を取って、桜の前に置いた。

 桜は好奇心に駆られて、その本を開いた。

「わあ! 綺麗!! 」

 そこには、南洋の花が見事な原色で描かれていた。

 それは、市販の植物図鑑よりもはるかに緻密で、雄しべの花粉から、細かな花びらの派脈までもが見事に表現されていた。葉には朝露が描かれているが、これも本物の水滴のようだ。

 表題には『ラン図鑑』とある。

「ボタニカル・アートだね。古い植物図鑑は、本当に見事だよな。」

ここで二人は、ツバメさんがこちらを見ていることに気付いた。

 希望は慌てて謝った。

「あ、作業さぼって、すいません。」

 すると、それを見ていたツバメ先輩は、ニコリと笑う。

「いや、気にしなくていいよ。」

 そして本棚から何冊もの立派な装丁の大きな画帳ほどもある古書を何冊か取り出した。

「それよりも君達、これも見てごらん? 」

 そう言って、彼は二人の前に、何冊もの本を積み上げる。

 『英国の薔薇』、『フローラの神殿』、『欧州のキノコ図譜』、『園芸図譜誌』、『フロリストの庭』。

 開いてみると、そこはボタニカル・アートの花園だった。

 桜も希望も息を呑んで、その美しさに魅入ってしまった。

 桜は、「ほえー」と息をつく。

「これ、何の印刷なのかな? 」

 後ろからツバメさんが説明してくれる。

「石版画だよ。その職人芸は、現在のグラビアのそれと比べても全く遜色が無い。いやむしろ、石版画のほうが生き生きとしていて、生命観を感じる。ただね、悲しいかな、これらの植物図鑑たちは、その美しさゆえに、しばしば災難に遭った。こうした図鑑をバラバラにして、植物のスケッチ画をアートと称して売るんだ。本を売るよりも、バラバラにして絵として売ったほうが儲かることも多い。それで多くの図鑑が、この災難に遭った。」

 希望は眉をひそめた。

「ひどい話しですね。」

 本を破壊するなんて、本好きとしてはゆるせない。

 ツバメさんは、にっこり笑った。

「今度はこれを見てごらん? 」

 そう言って、また数冊の本を二人の前にならべて見せる。

 アンドレスの『ナポリ湾海洋研究所紀要』、ゴッスの『英国のイソギンチャク』だ。

 本を開くと同時に、希望と桜は息を呑んだ。

 そこには海中の様子が、まるで花園のように描かれている。

 主役はイソギンチャクなのだが、それが見事な細密な石版画で刷られていた。

 希望は目を輝かせた。

「イソギンチャクが、こんなに美しかったなんて、知りませんでした。」

 ツバメさんは唇が微笑んでいる。

「驚くのは、まだまだ早いぞ。今度はこれだ。」

『アメリカのハチドリ』、『ウズラ科の鳥類図譜』、『大英帝国鳥類図鑑』、『オーストラリアの鳥図鑑』。

 それらを開いてみると、ボタニカル・アートに負けず劣らずの美しい図が、ふたりの目に飛び込んできた。

 それは色とりどりの美しい鳥達が、翼を広げて宙を舞い、あるいは枝に止まって羽を休めている。

 1本1本の羽根の模様までもが、実に丁寧に緻密に、写実的に描かれていた。

 ツバメさんは部屋を見回しながら言った。

「この図書館は、本当に凄い。図鑑類に関しても、一大コレクションを誇っているね。この他にも、蝶などの昆虫図鑑、熱帯魚を含めた水棲生物、哺乳類、果ては化石や鉱物についても、世界でも誇れるレベルの図鑑コレクションだ。」

 ここで希望は初めてツバメさんが満足そうに笑っているのを見た。

 目がキラキラと輝いている。

 希望はやっと、ツバメさんにちょっとした親しみを感じた。

 この人、ぼくらを驚かして、あるいは感心するのを見て、楽しんでいる。ここにあるのは、自分の本ってわけでもないのに。どこか子供っぽい人だよな。

 そしてぼくと同じ本好きだな。

 続いて、ツバメさんは古い図鑑を一冊取り出した。

「俺が一番気に入っている図鑑は、実はこれなんだ。」

 それはギュンターの『中央アフリカの爬虫類と両生類』だった。

 桜はページを開いて、「きゃっ! 」と小さな悲鳴をあげた。

 そこにはヘビやトカゲやカエルやイモリなどが、驚くほどリアルに描かれていた。

「これは……」

 ツバメさんは、鼻を掻いた。

「そう、キモいよね。だけど、爬虫類や両生類は、見る人にとっては美しい。その証拠に装飾品やアクセサリーにも使われる。不思議な生き物だと思わないかい? 」

 希望は、ちょっと返答に困った。

 それからしばらくして、柱時計が午後5時を知らせる鐘を鳴らした。

 今日のバイトは、ここまでだ。


 希望たち三人は連れ立って帰路に着いた。

 希望と桜は、あの美しい図鑑を見た時の興奮が少し残っていて、上機嫌だった。

 しかし辰子だけは、ムスっと仏頂面だった。


3.ヤスの過去

 その日の夜、辰子は悶々とした気分で風呂から上がった。

 昼間の怒りが、蘇ってきたのだ。

 ホルスタイン? 乳の化け物? 余計なお世話だ!

 思い出し怒りをしながら、タオルを巻きながら、浴室の着替え室にある大きな姿見を眺めた。

 くそ、また大きくなってやがる。そろそろブラをEカップに切り換える必要になって来たのかもしれない。参ったな、お袋や姉貴みたくなったらどうしよう? これ、重たいし、何よりも剣道の邪魔なんだよな。

 中学生の時に、思い切って思春期前性転換に志願して女の子になった時、ある程度は覚悟していたのだが、それでもこれはちょっと予想外だった。

 そんなことを考えながら、自室に向って長い廊下を歩く。

 途中、台所によって、冷蔵庫から冷えたコーラを取り出しコップに注ぎ、それを自室に持ってゆく。

 ベッドに腰掛け、「ふーっ」と一息ついた時だった。

 突然、携帯の呼び出し音が鳴り出した。

 慌ててそれを手に取る。

「はい、柏崎です。」

 携帯から、聞き覚えのある若い青年の声が返って来た。

「起きてるか? 若大将。」

 辰子の口もとが綻ぶ。

「レンにーちゃん! で、どうだった? 」

「それより若大将、お前、先月の定期健診さぼったろ? 前から言ってるだろ? アスリートだからこそ、自分の身体は慎重に管理して、大事にしなければならない。」

「そう言うレンにーちゃんこそ、ここの所、道場に顔を見せねえじゃねえか。」

「仕方ないだろ、宿直医に連続して当たってしまったんだから。」

「レンにーちゃん、説教はいいって。それよか、レンにーちゃんは、新谷田大学付属病院なんだから、奴のことは知ってるよな? 」

「今野泰道のことか? 通称ヤス。」

 辰子は携帯を持ちながら頷いた。

「ああ、そいつだよ。」

 しばしの沈黙。

「俺が若大将だったら、彼の3メートル以内どころか、同じ部屋にも居たくない。大事な友達も近づけないな。」

 辰子はちょっと驚いた。

「そりゃまた、どうして? 」

 またちょっとの沈黙。

「医者がこういう情報を漏らすのは、あんま褒められたことではない。けど、若大将のためにも言わざるをえないな。彼は確かに、うちの病院に居た。しかし、不祥事を起こしてクビになったんだ。」

 辰子は「やはり」と心の中でつぶやいた。

「……女相手に変態行為かよ? 」

「そうだ。若大将、その様子だと、やはり心当たりがあるみたいだな。」

「あ、ああ、まあな。」

「彼は患者二人に診察と称して、いかがわしい真似をした。強制わいせつだよ。ナースの一人が、それに気付いて騒ぎになった。」

「患者に手を出したってわけかよ。ひでえな。しかも二人も。」

「おれが思うに、表沙汰になっていないだけで、被害者はもっと他にも居ると思う。」

「捕まらなかったのかよ? 」

「本人は診察と強弁したわけだが、何より被害者が親告はおろか告発もしないと言うから、事件にはならなかった。強制わいせつや強姦に関しては、被害者がバッシングされるという封建的な土壌が強いからね、この国は。」

「反吐の出そうな話しだぜ。」

「だが、彼の問題はそれだけではないんだよ。」

 へ?

 辰子はまたちょっと驚いた。

 レンにーちゃんの唾を飲み込む音が、携帯越しにも聞こえる。

「彼の周囲で、行方不明者が5人も出ているんだ。」


 翌日学校で、辰子は希望と桜に昨夜知ったことを話して聞かせた。

「レンにーちゃんってのは、うちの道場の門下生だぜ。俺より8つ年上で、俺が小学生の頃はかわいがってくれて、勉強も教えてもらったもんだ。で、今は医者やってるんだ。それで奴のことを、色々と聞きだしたんだ。」

 希望は腕を組んで考え込んだ。

「彼の周囲で、失踪者が5人も? 」

「ああ、その5人のうち、3人はどうにも奴の変態行為の被害者らしいってんだ。いずれも奴の好み、胸の小さい女の子かお前らみたいな工事中の適応者。」

 桜が不安げに言う。

「あとの2人は? 」

「まず1人目は奴の同期の医者。医局では、奴の出世のライバルみたいな人だったらしい。もう一人は、新谷田大学医学部の研究員。その人が失踪してくれたおかげで、奴の再就職のための席が空いたそうだ。」

 希望は首を傾げた。

「けど、2件の強制わいせつに加えて、そんな物騒な話しがあったら、いくらなんでも警察が気付くんじゃないのかな? 」

「そこだよ。」

 辰子は不愉快気に言った。

「レンにーちゃんが言うには、まず奴は本当に優秀な人材なんだそうだ。生理学の研究でも、大学院時代に色々と凄い発見をしていたんだそうだ。だから病院も大学も奴には甘い、と。で、もう一つは奴は、とんだボンボンなんだとよ。」

 その話しを引き継ぐように、桜は肩をすくめて言った。

「あいつ、大手製薬メーカーの今野製薬の次男坊だと思うよ? 」

 辰子は、目をパチクリさせた。

「桜、知ってるのか? 」

「知っていると言うより、昨日ネットで調べたんだよね。世界的な巨大企業の今野製薬の会長さんの次男なんだって。社長は長男がなってるみたいだけど。」

 希望は、ため息をついた。

「……なるほどね。」

 辰子は、眉をひそめた。

「それとよ、レンにーちゃんが言うには、その5人も、家庭や何やらで複雑な事情を抱えていて、家出しても不思議じゃない状態だったんだとよ。それで警察も、普通の失踪事件として扱ったんだそうだ。」

 希望は不安になってきた。

 あのヤスとか言う男、最初に思っていたよりも、ずっとずっと危ない男だったようだ。

 このまま、あいつと同じ屋根の下でバイトなんかしていて、大丈夫だろうか?

 希望は桜に視線を向けた。

「もし良かったら、この5件の失踪事件について、分かる範囲でいいから、調べてくれないか? 」

 桜は目的のあるハッキングが出来るということで、ちょっと嬉しそうだ。

「良いよ? 」


4.商店街にて

 その翌日、希望は何気なく、近所の古書店に立ち寄った。

 スーパーに買出しに行くついでである。

 毎週のように覗いている店なので、品揃えもだいたい分かっているので、あまり新しい発見は期待できないのだが、これは一種の日課である。

 すっかり顔見知りの店主にとっても、常連の希望はもはや店の風景の一部らしく、読みかけの文庫本から顔を上げようともしない。

 で、店主のレジ台の前を通った時、希望は歩を止めた。

 こ、これってまさか?

 それは古書のカタログのようだった。

 そこに奇妙な洋書の写真があったのだ。

 ショイヒツァーの『神聖自然学』?

 いわく「世紀の愚行? バロック科学の傑作? 聖書と自然科学を図象学的に融合させようとした奇書の中の奇書! すばらしい胴版画の図版多数!! 」

 それはいい。

 問題はその稀覯書の写真だ。

 旧約聖書の挿絵に数学の公式だの医学の解剖図だのを組み合わせた奇怪な絵が、細密な胴版画で刷られており、その見事な写真が載っている。

 しかし希望が目に留めたのは、最後の写真で、その本の見開きの部分だ。

 そこに見覚えのある蔵書票が貼られていたのだ。

 桜が見つけたあの物騒な文句が書かれたものだ。


『仏の顔も三度 本を借りて返さない偸盗の輩は 人界の100年が忉利天の一昼夜 その寿命を一昼夜として1000歳 黒縄地獄に堕ちるであろう』


 もちろん写真は縮小されているので、小さな蔵書票の言葉が全て読めるわけではない。

 しかし、あの蔵書票に間違いなかった。

 希望は店主に声をかけた。

 店主は文庫本から、顔をあげる。

「ああ、このカタログかい? これは古書の業界人向けのオークションのそれだよ。ま、わしみたいな街角のショボくれた古本屋には、関係のない話しだがな。」

 希望は首を傾げた。

 まさか、この本は今バイトしているあの図書館から流出した本なんだろうか? でも、あの図書館は15年以上、関係者以外は立ち入り出来なかったはずだ。

「ここに出ているショイヒツァーの『神聖自然学』ですけど、これは何十年も前のオールド・コレクションの放出なんでしょうか? 」

 店主は眼鏡を取ると、カタログの書誌データに目を凝らす。

「いや、かなり最近に売りに出されているな。」

 希望は不安な気分になった。

 と言う事は、誰かがあの図書館から本を勝手に持ち出して、売ったってこと?

 これはあの図書館を管理している田中さんに言うべきか?

 いや、もしかしたら犯人は田中さん? あの実直で真面目そうな人が?

 とりあえず希望はこの件については、余計なことを喋らないことに決めた。


 その翌日の水曜日の午後、希望は新谷田中学の校門の前に居た。

 弟のカッ君に、忘れ物を持って来るように、頼みこまれたためだ。

「はい、カッ君。道着を持ってきたよ。」

 希望はカッ君に忘れ物を渡す。

「助かったよ、兄貴。」

 普段はムスッと難しい顔をしている弟だが、こう言う時は照れ臭そうな顔をしながらも、ちゃんと礼を言ってくれる。

「館長は、道着を着ないと道場には入れてくれないもんね。」

「兄貴も道場に来るか? 」

 希望は首を横に振った。

「ううん。今日は商店街で買い物をしようと思ってる。」

「そうか、気をつけろよ、兄貴。」

「カッ君も、怪我は程々にね。」

 そう言って弟と別れると、希望は近くの商店街へと向った。


 新谷田中学のすぐ隣に、新谷田高校がある。

 新谷田財団のハイスクールと言えば、女子高校の聖ブリジット、男子校の新谷田である。

 もし自分が「適応者」では無かったら、多分希望はこの高校の生徒になっていただろう。

 そんなちょっと感慨に近いものにふけりながら、希望は新谷田高校の校門を眺めていた。

 古風な学生服の制服を未だに採用しているのが、この新谷田高校である。


 あれ?

 新谷田高校の校門から、一人の少年が出て来た。

 見覚えのある顔である。誰だっけ? 希望は記憶をさぐる。……うん、思い出した。

 そうだ! 白銀ツバメさんだ!

 ややくせっ毛で、中性的ながらも精悍な雰囲気の顔立ち。優しそうにも眠そうにも見える表情。

 でもツバメさんは大学生だよな。でもここは高等学校だ。ツバメさんの歳の近い弟だろうか? それとも単なる他人の空似?

 しかし、彼の鞄のキーホルダーに「白銀」とある。と言う事は、あの少年は多分ツバメさんの弟だろう。それも歳がかなり近い。

 にしても、あまりにも似ている。顔立ちや年齢だけではなく、背格好まで。それこそ笑ってしまう程そっくりである。

 希望は別に尾行しようなどとは思って居なかった。単に、進行方向が同じなだけだ。そのツバメさんに酷似した少年は、希望の20メートルほど先を歩いている。

 やがて少年はとある店の前で歩を止めた。

 大き目の洋風の大衆レストランである。

 入り口には、登りがかかっていて、「生ビールあります」とある。

 少年はその登りをみて、舌なめずりをした。文字通り、舌で唇をペロリとなめまわした。

 それは何となく、美味しそうな餌を前にした犬か猫のそれを思わせる。

 そして少年は、その店に入って行った。

 夕食でも取るのだろうか? にしては、どう考えても早い時間である。


 希望はいったんその店の前から立ち去った。好奇心に惹かれるものの、尾行までしたいとは思わない。

 希望はすぐ近くの100円ショップで、雑貨をいくつか買った。

 買い物は10分とかからず終わり、再びあの大衆レストランの前を通りかかった。

 希望は好奇心に負けて、大きなガラス窓越しにレストランの中をちょっと覗いてみた。

 やはり食事時ではないためか、店の中はガラガラだ。しかし一人だけ客が居る。

 それは背広を着た青年だった。口ひげも生やしている。

「あれ? 」

 その青年は着ているものこそ違うし、どこかわざとらしい口ひげを生やしてはいる。しかしその顔は、白銀ツバメさんに間違いなかった。

 彼は枝豆をつまみに、ビールをジョッキで美味しそうに飲んでいた。

 あの学生服を着た高校生のツバメさんの弟(?)の姿は、どこにも無かった。

 ちょっと首をかしげながら希望は、とりあえず大衆レストランの隣の八百屋で買い物をすることにした。


5.辰子のライバル

 希望が弟のカッ君に、忘れ物を届けていた頃。

 辰子はちょっと遠出をして、とある他流派の剣道の道場へとやって来ていた。

 そこは閑静な住宅街で、庭付きの大き目の家が多い。その道場の回りも樹木が植えられ、虫の鳴き声もする落ち着いた雰囲気の場所である。

 半世紀以上続いたパンデミックは、皮肉なことに大きな環境の改善をもたらしていた。この辺りの緑の多い住宅地も、その影響による。

 ともあれ辰子は、そっとその道場の内を覗き込んだ。

 ここの道場の門下生は、ほとんどが社会人だ。だから、この時間は誰も来ていない。

 道場主の息子以外は。


 辰子は、微笑した。

 お、居る居る。

 一人の少年が、黙々と素振りをしていた。彼が竹刀を激しく振るたびに、汗が飛び散っている。

 辰子はその少年に声をかける。

「よお、楠木くすのき! せいが出るな! 」

 少年は素振りをやめて、こちらを向く。そして怪訝そうに応えた。

「誰かな? 」

 辰子は竹刀の入った長い巾着袋を振って挨拶をする。

「おいおい、忘れたのかよ、宿命のライバルを。」

 すると、その楠木は、ちょっとびっくりしたような表情になった。

「か、柏崎か!? 」

 辰子はニッと白い歯を見せた。

「おうよ、あがっていいか? 」

 少年は、ちょっと戸惑いながらも頷いた。

「あ、ああ、勿論だ。」


 辰子は靴を脱ぎ、ソックスも脱いで裸足になり、道場にあがった。

「お邪魔しまーすっと。」

 そう言って辰子は、道場に上がると、初代館長の写真と神棚に向かって、それぞれ一礼する。

 楠木は、そんなセーラー服姿の辰子を、しげしげと眺めた。

「お前、本当に女の子になったんだな……」

「そいつはどうかな? 身体は女になったが、中身は男のままだぜ? 」

「……話し方は変わらないよな。うん、やはりお前は柏崎だ。」

 辰子は満足そうに笑った。

「それよりも楠木。お前、剣道の全国大会で優勝したそうだな? おめでとう。」

「そういう柏崎こそ、古剣術の無差別試合で、十連覇を達成したそうだね。おめでとう。」

 辰子は肩をすくめた。

「お前の居ない大会で優勝したって、あんま意味はねえって。」

「……それは俺も同じだよ。」

 楠木はさびしげに言った。

 辰子も軽く苦笑した。

 楠木は、ため息をついた。

「でもそれはお互い無い物ねだりか。お前、女の子になっちゃったもんな。お前とは、もう二度と公式試合は出来そうもないな……」

「お前が古剣術の大会に出るのは、……やっぱり無理か? 」

 楠木は頷いた。

「ああ、遠慮しとくよ。あれは剣道じゃなくて、古武術だろ? 剣術家のお前と違って、スポーツ剣道しか知らない俺にとっては、ルールが幅広すぎて、ちょっと合わない。」


 辰子は持ってきた竹刀入りの巾着袋を壁に立てかけた。

 そして辰子は、セーラー服のタイをはずし、ボタンもはずした始めた。

 それを見て楠木は、慌てて目をそむけた。顔は真っ赤だ。

「お、おい、何をしてるんだ? 」

「ちょっと、ここの防具を借りるぞ。どうだ? 久しぶりに勝負と行かないか? 」


 それから、1時間後。

 二人は寄り添うようにして、道場の壁に寄りかかるようにして座っていた。

 二人とも無我夢中で試合をしたせいか、疲労困憊と言った様子。髪の毛は汗でしっとりと湿っていた。

 辰子は鞄からポカリを取り出して、それを飲む。

「ぷはー! あー、いい汗かいたわ! 」

 そう言って、ポカリの入った水筒を楠木に手渡す。楠木も水筒からポカリをラッパ飲みにする。

 辰子は満足そうに微笑みながら言った。

「にしても、楠木。お前、腕を上げたなあ。」

「そう言う柏崎こそ、相当なものじゃないか。未だに3回に1本取るのがやっとだよ。」

「ふっふっふ、そう簡単に追い抜かれてたまるか。」

 辰子は親指を立て、ウインクしてみせた。

「やっぱお前は凄いや。」

「いや、全然修行は足りねえよ。」

 楠木は充分知っていた。辰子がこう言うのは、謙遜でも何でもない。本気でそう思っているのだ。彼の目標である祖父の域には、全然遠いというわけだ。

「楠木、お前こそ、今の自分に満足してるわけじゃねえだろ? 」

「もちろんだ。俺はまだまだ強くなってやる。お前にもそのうち追いつくかもよ? 」

「おう、楽しみにしてるぜ? 」

 そう言って、二人は腕を軽くぶつけ合った。


 ここで辰子は軽く鼻を掻きながら言った。

「なあ、楠木。」

「うん? 」

「今度、デートしねえか? 」

「ぶっ!! 」

 楠木は飲みかけのポカリを吹き出した。

「か、柏崎、お前、何を言ってるんだ? 」

 楠木は顔を赤くしながら、戸惑ったような表情だ。

 辰子は軽く楠木の肩を叩いた。

「ごっこだよ、ごっこ。デートごっこだって。いっしょに買い物とお茶でもしねえか? 」

 楠木はうつむいた。

「駄目だよ……」

「は? 」

「俺、彼女が出来たんだ。」

 それを聞いて、辰子は目をパチクリさせた。

「へ、彼女? 」

 楠木は頷いた。

「同級生の子だ。全国大会で優勝したら、決めてたんだ。告白するって。そうしたら、OKを貰った。」


 しばしの沈黙。

 辰子は笑った。

「そうか。」

 辰子は、てきぱきと防具を脱ぎ、セーラー服に着替えた。

 楠木はと言うと、鞄から何やら小さな袋を取り出した。

 そしてそれを辰子に手渡した。

 それはお守り袋だった。中に小さな木の板が入っている。

「柏崎、これをお前にやるよ。」

「これは? 」

「鹿島神宮のお守りだよ。」

「へえ、剣道の神様の? 」

「全国大会の土産だ。お前のぶんも買っておいたんだ。やっと渡せる。」

 辰子はそれを受け取ると、ニコリと微笑んだ。

「ありがとよっ! 」


 辰子は、鼻歌をうたいながら帰路を急いでいた。

 思わず一人言が出る。

「ふーん、楠木に彼女が出来たか。」

 うん、まあ、当然だろうな。あいつは顔こそジミメンだが、中味は本当にいい奴だからな。もてて当然だ。同じ男の俺でさえ、惚れ惚れとするほどの。うん、結構結構。良かった、良かった。

 そう考えながらも、辰子は足元に転がっていた空き缶を力いっぱい蹴飛ばした。

 それは、すぐ横のフェンスにぶつかり、跳ね返って、辰子の足元に転がって戻ってきた。

「あ、あれ、変だな? 」

 なんで、こんなに腹が立つんだろう?

 そして、どうして涙が出てくるんだ?

 辰子は、ハンカチを取り出すと、それで目頭を押さえながら、そんな自分を誰かに見られないように気を付けながら、足早に帰路を急いだ。


 辰子と楠木が、無我夢中で剣道の試合をしていた頃、希望は買い物を追え、三たびあの大衆レストランの前に居た。ちょうどその時、自動ドアが開き、そこから一人の少年が出て来た。

 希望は目をこすった。

 間違いない、最初に見た学生服を来た高校生、ツバメさんの弟(?)である。

 開いた扉越しに店内が見えたが、あの背広姿のツバメさんの姿は無い。代わりに彼の居た席には、空っぽのビール・ジョッキが置かれている。

 着替えたのだろうか? そして、あの口ひげは多分変装用の付けヒゲだ。そうとしか思えないわけだが、いつの間に?

 希望は思い切って、声をかけてみた。

「あの、ツバメさん? 」

 すると、その少年は、はじかれたように飛び上がり、慌ててこちらを振り向いた。

 どうやら、すぐそばに希望が居たことに、本当に全然気付いてはいないようだった。

「あ、二ノ宮くん? 」

 と返事をして、「しまった」と言う顔をすると、慌てて口を抑えた。

 やっぱり、この少年はツバメさんだ。

「ツバメさん、高校生だったんですか? 」

 ツバメさんは、こちらを睨むようにして視線を向けた。

 だがすぐに困惑したような表情になる。

 そして、気まずそうに言った。

「このことは、秘密にしてくれないかな? 」


 希望とツバメは、すぐ近くのカフェへと入った。

「おごるよ」と言うツバメさんに誘われるまま、希望はカフェの屋外の席にすわった。

 ツバメさんは頭を掻いている。

「その、ちょっとお金が欲しくてね。」

「それで、大学生のふりをしてたんですか? 」

 希望は呆れたように言った。

「大学1年も、高校3年もあまり変わらないだろ? 」

 まあ、見た目は、そりゃそうかもしれないけど。

「でも、飲酒はやりすぎですよ? 」

 希望はちょっと語気を強めた。 

 ツバメさんは、ますます気まずそうな顔になる。

「そうだね、返す言葉も見つからないよ……。美味しそうなお酒の良い臭いがしたんで、誘惑に負けて、つい……」

 お酒が好きということは、さては普段から飲んでるな? 

 とは思ったが、ぼくは別に少年課の補導員ではない。

「でも、目的はお金だけでは無いんですよね? 」

 ツバメさんは、もじもじしながら頷いた。

「うん。あの耶麻文庫やまぶんこは、すばらしい。あれ程のコレクションを直接見る機会は、今回の仕事を除けば、もう二度と無いと思ったんだ。」

「まあ、確かにあそこの本は凄いですからね。一昨昨日に見せて貰った古い図鑑ですけど、あんな美しい本がこの世にあるなんて、初めて知りましたよ。」

 ツバメさんは大きく首を縦に振っている。

「そうだろ? 君もそう思うだろ? 」

 やっぱりなあ。

 希望は苦笑した。

 この人、本の話しになると、目がキラキラ輝きだす。

 同じ本好き同士だろうか。その気持ちは相通じるというか、思わず共感を覚えてしまう。

「分かりました。このことは黙っています。」

 ツバメさんの表情が、ぱっと明るくなる。

「ありがとう、恩に着るよ。」

 そう言って、額がテーブルにぶつかるんじゃないかと思うほど、深く頭を下げた。

「でも、辰子と桜には話します。」

「え?」

 ツバメさんは再び不安そうになる。

「大丈夫、ぼくが良く言っておきますから。二人とも、口が固いから大丈夫ですよ。」

「……分かった、君らを信じるよ。」

 そう言って、ツバメさんは、はにかむ様に微笑した。


6.不審

 その翌朝の教室。

「おはよおぅ~~~」

 辰子が、腑抜けたような声で朝の挨拶をしながら、ふらふらした足取りで、教室に入って来た。

 顔は寝不足と言った呈で、生気も覇気も無い。

 何かあったな?

 希望も桜も、すぐに悟った。

 辰子がこんな顔をする理由は、だいたいが剣道で不覚を取った時だ。

 希望も桜も、辰子の方から打ち明けてくるまで、そっとしておいてやることにした。

 いつもだったら午後になれば、「まだまだ修業が足りねえ」の決まり文句の後に、何があったか自分から話してくる。

 だいたいが剣道絡みのヘマだ。練習試合で油断して格下の相手に惨敗したとか。

 しかしこの日は、どういうわけか、辰子は一日中、何も言わなかった。

 けど、元気を取り戻すのも、いつも通り早かった。

 午後になると、まだ若干覇気が足りないものの、いつもの辰子に、ほぼ戻った。


放課後、三人は学園内のカフェで、いつものごとくアイスティーを飲みながら井戸端会議を開いた。

 まず希望が、古書店で見たカタログに、あの図書館の本がオークションに出されていたことを報告する。

 辰子は腕を組んで、「うーん」と難しい顔をする。

「つまり、誰かが本を盗んで売っていたってことか? 」

 希望は頷いた。

「そうとしか思えないんだよ。でも、あの図書館は15年も誰も利用できなかったわけだから……」

 桜はノートパソコンを取り出し、電源を入れながら言った。

「私達が、リストのチェックをしているわけだから、盗難があれば、いずれ分かると思うよ? 」

 辰子が首を傾げた。

「にしても、図書館の本を盗んで売るバカなんているのか? 」

 希望は軽く首を横に振った。

「それが居るんだよ。そう、たびたびでもないけどね。それで立派な社会的立場があるのに大英博物館に出入り禁止になる人も居る。ヴァールブルグ学派でも、フランシス・イエイツの有名な弟子がウォーバーグ図書館から本を盗んで売るというスキャンダル事件も起こっているんだ。」

 希望はアイスティーを乾いた喉に流し込む。

 そして自分の推理を言った。

「普通に考えて、本を持ち出せる立場に居たのは、あそこを管理している田中さんか木野さんなんだよ。もし、二人が犯人だったら? 」

 桜はノートパソコンのキーを叩きながら答えた。

「二人はリストに細工できる立場に居ると思うよ? 」

 希望は、軽く頷いた。

「もしそうなら、誰も気付かないだろうね。」

 辰子は頭を掻いた。

「あー、だったら、俺たちは余計なことは言わないが吉だな。」


 続いて希望はツバメさんのことも話す。

 辰子はあまり興味無いという顔だ。

「大学1年も、高校3年も、あんま違わないだろ。あの人が年齢を1つサバ読んでたからって、だからどーしたって? 」

 それを聞いて桜は嬉しそうだ。

「きゃー、やっぱり。」

 やっぱり?

 桜は、ノートパソコンの液晶モニターを見せた。

「私、ツバメさんのことを、もっと知りたかったんだよね。だからね、ちょっと調べて見たの。新谷田大学の学生名簿には、ツバメさんの名前は無かったけど、新谷田高校の名簿に当たったら、すぐに見つかったよ? 」

 さすがハッカーの桜、手が早い。

 辰子は、つまらなそうに言った。

「どっちにしても、胡散臭い人だぜ。」

「でも、イケメンでかっこいいと思うよ? 」

「俺は、イケメン男ってのは、そもそも苦手なんだ。男だったら、中身で勝負しろや。」

「ツバメさんは中身も悪くないと思うよ? 」

「でもイケメン野郎じゃねえか。」

「じゃあ、辰子はどんな男の人が好みなの? 」

「あのなあ、俺は身体は女だけど、中身はパーペキな男なんだぜ? 男と恋をする薔薇じゃねえよ。」

「けど、女の子と恋をしても、百合だと思うよ? 」


 希望は、そんな二人のやり取りを見て苦笑した。

 でも今は、そんなことより……

 桜は頷いた。

「ヤスの周囲で起こった失踪事件について、調べてみたよ? 」

 桜はノートパソコンのモニターを示した。

「結論から言うけど、ヤスの周囲の行方不明者は5人じゃなかったようだよ? 8人だった。」

 希望は呆気に取られた。は、8人?

「そんなに? 」

「うん、でもまだ他にも居るかもよ? 何しろ「事件」にはなっていないもんね。」

 辰子は眉をひそめた。

「レンにーちゃんは5人と言ってたんだがな。じゃあ、つまり俺が聞いたのは、氷山の一角かよ。」

 桜は頷いた。

「レンさんも知らなかったんだと思うよ? 私もこれを見つけたのは偶然だったし。公表されている「人探し」のリストを見ていたら、偶然見つけたの。彼らの住所がヤスの居た病院と近かったから、もしかしてと思って、それらを病院の患者データと照応させてみたら、大当たりだった。」

 希望は、モニターを見た。

「まずは少女が3人、適応者が2人、いずれもヤスの患者だった子達か。」

 桜は頷いた。

「この子達は、運悪くヤスの好みだったんだと思うよ? 胸が小さかったり、私達と同じ適応者だったりしたんじゃないかな。でもこの子達は、ヤスとは特別親しかったわけじゃないみたい。診察を受けるだけの医師と患者の関係だったそうだよ? 」

「警察が動かなかったのは? 」

「この子達は家族との関係も良くなかったり、複雑な事情を持ってたりしたみたいなんだよね。家族も捜索願いを出すとき、家出だと思っていたみたいだし、それで警察も家出として処理したみたいだよ? 」

 辰子は顔をしかめた。

「怪しまれないために、そういう子を選んで狙ったんじゃねえのか? 」

 希望は首を横に振った。

「そうかもしれないけど、それはあくまで憶測だよ。」

 桜は、キーボードを叩く。

「この子達以外の3人の失踪者は、いずれも大人だよ? まずは学生時代の同じゼミ生。」

「その人のことはレン兄ちゃんも言ってなかったな……」

「この人は、ヤスとは特に親しくも、仲が悪かったわけでもなかったみたいだよ? これも、見つけたの偶然なんだよね。当時の大学の記録に残ってたんだよね。」

「その人が失踪して、ヤスに何か得するようなことがあったのかよ? 」

「これは、あくまで推測だよ? ヤスはゼミの成績が2番だったみたい。この人が消えることで成績がトップになったみたいだよ? 」

 モニターには、さらに二人の男女のデータが写し出される。

 それを見て、辰子は顎をさする。

「うへえ、レン兄ちゃんの言っていた通りかよ。こっちのおっさんは、奴の同僚で出世のライバルだった人か。こっちの白衣を着た女性は新谷田大学の生理学研究員かよ。この人が失踪したおかげで、奴の再就職先の席が空いたわけだ。」

 桜は肩をすくめた。

「でもそれは、ぜーんぶ憶測だと思うよ? たまたま失踪事件が起こったため、偶然からヤスが得をしただけかもしれないよ? 」

 辰子は呆れたように言った。

「それと、そんなしょうもないことで、人を殺すような奴がいるのかあ? って普通の人間だったら思うよな。」

 希望は腕を組んで考え込んだ。

「……サイコパスかな。」


7.キャスト・パズル

 結局この週末、3人は悩んだ末、いつも通りバイトに行くことにした。

 報酬が、あまりに美味しすぎたからだ。

 けどヤスの奴は警戒するに越したことはない、と言うことで意見は一致した。

 ヤスの助手は、辰子が買って出た。奴は俺には興味ねえみたいだし、戦闘能力が一番高いのは俺だろ? というわけだ。

 桜は今日は秀介さんの助手になった。

 希望は、ツバメさんを手伝うことになった。

 

 今日のツバメさんの仕事場は、地下8階の最深部の部屋だ。

 奇妙なことにその部屋は、他の部屋よりも遥かに大きかった。天井の高さだけでも2倍はあるだろう。

 そして部屋の四隅には、奇妙なブロンズ像があった。それは犬にも獅子のようにも見える。最初は狛犬かシーサーかと思ったのだが、よく見ると全然違う。だいたい目が4つもある狛犬なんて聞いたこともない。

 階段の反対側の奥の部屋には、「ホスト・コンピューター」とラベルのある部屋があり、「関係者以外立ち入り禁止」とあった。


 希望のツバメさんに対する印象は、最初と比べ大きく変わっていた。

 最初はよく分からない本能的な恐怖感のようなものがあったのだが、それは今や完全に消えていた。

 それはこの間、ヤスにイタズラされそうになった所を助けて貰ったこともあるのだが、年齢をサバ読むような人間臭いところがあり、そして何よりも同じ本好きであることだ。

 見てくれもかなり良い。美肌の中性的な美少年だし、それでいて良い体格をしていることは服の上からでも分かる。細くスリムに見えるが、それは贅肉が無いだけで、かなり鍛えた身体をしていることは、彼の腕をみれば良く分かる。それと新谷田高校の生徒だという事は、頭も悪くないはずだ。

 そして態度も紳士的で、優しいのだ。細かなところでも、いちいち気配りをしてくれる。こうした所にも、希望は好感を持った。

 例えば高い所にある重たい本は、彼が全て引き受けてくれる。それも「それはぼくがやるから、君はいいよ」とは言わず、自然体に希望がやらなくても済むように、自分でてきぱきと片付ける。

 トイレに行きたくなって「すいません」と言うと、「どうぞ」とだけ答え、視線を向けたりしない。

 カッ君や親父殿や道場の館長みたく、ガサツでズボラな男ばかりに囲まれて暮らしている希望にしてみれば、これは新鮮な体験だった。


 作業がだいぶ進み、お昼近くになった頃だったと思う。

「ごめん、ちょっと上に行って、足りないリストを貰ってくるね。」

 ツバメさんは、そう言って螺旋階段を上って行った。

 手が空いて一人になった希望は、何気なく本棚から適当に本を取り出しては、パラパラとめくって見た。

 素晴らしい銅版画の挿絵の入った古い科学書が並んでいる。18~19世紀頃ぐらいの書物だろう。

 ふと希望は、その中から奇妙な本を見つけた。

 表紙が金属製だ。青銅製だろうか?

 手に取って見たが、ずしりと重たい。表紙を見たが、題名らしきものはどこにも無い。何が書かれた本なのだろうか?

 こういう金属製の表紙の本もあるとは聞いていたが、それにしてもこの本はちょっと異様だった。

 まず鍵がかかっていてページを開くことが出来ない。そして鍵穴らしきものはどこにも無い。どうやって開くんだ?

 その本の金属製の表紙には、幾何学的な文様のレリーフがある。触ってみると、それがカチャカチャと動く。

「キャスト・パズル? 」

 ルネサンスの時代、数学者ジェラロモ・カルダーノが紹介したことにより、「知恵の輪」がヨーロッパにも普及した。このカルダーノは、占星術師であり魔術師でもあった。彼はこうしたパズルが、ある種の神秘的な力を呼び起こすと考えていたらしい。

 こうした「知恵の輪」は、様々なバリエーションを産みながら進歩し、19世紀のイギリスでちょっとしたブームになった。それは知恵の輪と言うより、立体的なパズルのそれに近い物も多い。日本でもルービック・キューブなるパズルが流行ったことがあったが、それもこうした立体パズルの一つである。

 そんな薀蓄を頭の中で反復しながら、希望はその本を見つめた。

 なるほど、表紙にはめ込まれているレリーフのパーツが可動式になっている。これを色々と動かして正解を当てれば、この本が開く仕組みになっているのだろう。

 希望は、そのパズルをカチャカチャと動かして見た。これは予想以上に難解だった。

 色々といじっているうちに、カチリと音がした。同時に本が音をたてて鳴り出した。音楽を奏でている。オルゴールの音だった。

 希望は驚きと同時に感心する。

 凄い、どういう仕掛けだ? 砂時計を仕込んだ「仕掛け本」の話しは聞いたことがある。しかしさすがにオルゴールが仕掛けられた本は初めて見る。

 思わず、そのパズルにちょっと集中しかけた時、そこにツバメさんがリストを持って戻って来た。


 ツバメさんは、ちょっと目を丸くした。

「二ノ宮さん、その本をどこで? 」

 希望は、ちょっと慌てた。

「あ、いや、そこの本棚にあったので、ちょっといじってみたくなったんです。」

 ツバメさんは、そっとその本を希望から受け取るようにして、取り上げるとパズルをカチャカチャいじっている。すると、オルゴールの音が止まった。

「この本は、壊れやすいから、触らないほうがいいと思う。」

 そう言って、ツバメさんは優しく微笑んだ。

 そしてそのキャスト・パズルの本を本棚に戻した。


 後は黙々と作業だ。

 ここで希望は、ツバメさんがさっきの本をチラリと見て、小声でつぶやくのを聞いた。

「それにしても、どうしてあの本がこんな所に……」


8.等活地獄

 とりあえず、この日のバイトは、問題なく終わった。

 希望と辰子と桜は、作業を終えると、閲覧室で帰り支度をしていた。

 ちょうどその時だったと思う。

 階下から、大きな悲鳴が響いた。

 希望と辰子は、反射的に声が響いてきた階段へと視線を向ける。

「え? 」

「何だよ、今のは? 」

 桜は怯えた表情だ。

 さっきの悲鳴は、中年女性の声だった。司書の木野さんに、間違いなかった。

 希望と辰子は、立ち上がると階段へと走る。桜も恐る恐る後に続いた。


 そこは地下1階の中央の書庫だった。

 木野さんが青い顔をして立っており、そのすぐ横に秀介さんが居た。

 希望たちの姿を認めると、秀介さんが怒鳴った。

「見るな! 君たちはそこに居ろ! 」

 だが、今さら希望たちの脚は止まらない。

 三人は部屋へと入った。


 書庫の床を見て、希望は息を呑んだ。

 そこには、あの田中さんが倒れていた。

 胸には大きな包丁が突き刺さっている。ワイシャツは大量の血で染まり、床には血溜まりができていた。

 辰子は、口を手で抑える。

「う、嘘だろ? 」

 桜の顔は青いが、表情は落ち着いている。

 希望は、木野さんを見た。

 木野さんは震えながら言った。

「田中さんは、30分ほど前に階下を降りて行ったんです。お茶が入ったので、彼を呼びに行ったら……」

 希望は改めて田中さんの遺体を見た。

 急所が一突きだ。偶然か、それとも人間の身体を熟知した奴の仕業か。

 秀介さんは、顔が土気色だが、彼も落ち着いていた。

「とにかく死体には触らず、警察を呼ぼう。」

 希望たち三人は、秀介さんに追い立てられるようにして、地上1階へと戻った。


 木野さんは、地上1階の閲覧室の司書台の上にあるアンティークな作りの電話のダイヤルを、震える手で回した。

 そして怪訝な顔で受話器を置く。

 彼女はもう一度、ダイヤルを回したが、再び怪訝な顔になる。

「変です、通じません。」

 希望はスマホを取り出し、110番してみた。

 駄目だ、通じない。

 液晶には空しく「圏外」の文字が。

 木野さんが説明する。

「この建物は、電波は一切遮断されているんですよ。携帯の類は通じません。」


 そこにホールの方から、ツバメさんがやってきた。

 ツバメさんは、閲覧室に居る面々を見回して、怪訝な表情になる。

「どうしました? 」

 秀介さんが答える。

「ちょっと問題が起こった。」

「問題? 」

 ツバメさんは、地下へと続く階段へと歩を進めかけた。

「やめておけ。」

「何があったんです? 」

「そんなことより、白銀君。君は帰ったんじゃないのか? 」

 ツバメさんは、軽く首をかしげながら答えた。

「それが出入り口の鉄の扉が閉まっていて、出られないんです。」

 秀介さんは、ちょっと大きな声を出していた。

「なんだって!? 」


 一同はホールを抜け、出入り口の扉の前に立った。

 なるほど、あの分厚い鉄の扉が閉まっている。

 木野さんがカードキーを取り出し、カードセンサーに差し込んだが、扉はうんともすんとも言わない。

 秀介さんとツバメさんと辰子が、三人がかりで扉を開けようとしたが、扉はびくともしなかった。

 希望は、軽くため息をついた。

「どうやらぼく達、閉じ込められちゃったみたいだね。」

 辰子は顔をしかめた。

「おいおい、冗談じゃねえぞ!? こんな狭苦しい建物の中に、死体と一緒に缶詰めだなんて。」

 ツバメさんが、びっくりしたように言った。

「死体!? 」

 秀介さんは肩をすくめた。

「地下1階に行けば分かる。田中さんだよ。」

 ツバメさんは困惑した表情になった。

「田中さんが? 急病ですか? 」

 希望は、木野さんを見た。

「とにかく、この扉を開ける方法は無いのですか? 」

 木野さんは、ちょっと困ったような顔になった。

「私も、ここのセキュリティには詳しく無いのです。ただ、ここの全てを管理しているホスト・コンピューターが地下8階にあって、それの電源をいったん切って再起動すれば、全てのセキュリティ・システムがリセットされて解除されると聞いたことはあります。」

 辰子が呆れたように言った。

「おいおい、何でそんな大事な物を、最下層の部屋に置いたりしてるんだ? 」

 希望も同意見だった。本当にそうだ。火災などが起こったら、どうする気なんだろう。 これは設計ミスと言うか、火災条例に違反しているんじゃないのか?

 辰子は桜を見て言った。

「なあ、桜。ハッキングでこれを解除できねえか? 」

 桜は、既に司書台に置いてあるパソコンのキーボードをカチャカチャいじっていた。

「もう始めてるよ? ここのセキュリティ、半端ないね。かなり難しいと思うよ? 」

 希望もモニターを覗き込む。わけの分からない文字列が、ズラズラと流れている。

「破るのに、どれくらいかかる? 」

「参ったなあ。私の知らないソフトだよ? OSからして、かなりマイナーな物を使ってる。これ、セキュリティのためにわざとしてるんだね。やってみなければ分からないけど、最悪数日かかるかも? 」

 秀介さんが、目をぱちくりさせている。

「この子、ハッカーか? 」

 希望は、顔を上げた。

「電話もスマホも通じない以上、地下8階のホスト・コンピューターを再起動させるしか無いと思います。」


9.黒縄地獄

 結局、全員で地下8階まで降りることにした。

 田中さんの刺殺の事もあり、誰も一人になりたくなかったし、グループ分けも面倒だったからだ。

 田中さんの刺殺体の横を通り、地下2階へと降りてゆく。


 ここで辰子が一番気になることを言った。

「なあ、ヤスの奴はどこに居るんだ? 」

 秀介さんとツバメさんが顔を見合わせる。

「そう言えば、さっきから姿が見えないな。」

「もう、先に帰ったんじゃないでしょうか。」

 希望は、ひどく嫌な予感がしてきた。


 一同は、地下2階に到達した。

 地下3階に通じる階段を下りるには、中央の大きな書庫を横断し、反対側まで行かなければならない。

 辰子は不審げに言った。

「この建物、なんでこんなややこしい作りにしたんだ? 」

 希望も内心で首をかしげていた。これって、どう見ても火災条令にひっかかる。まるでわざと避難しずらく作られてるみたいだ。


 その部屋には、背の高い本棚がずらりと並んでいる。ひんやりとした雰囲気である。

 そして、その部屋の中央近くまで来た時だったと思う。

 突然灯りが消えて、周囲が真っ暗闇になった。

 な、何だ!? 

 一同は驚愕したが、声を出す間もなく、再び灯りが点灯した。

 辰子が、驚いた顔のまま言う。

「な、何だったんだ、今のは? 」

 ここで桜が突然、小さな悲鳴をあげた。

 それを見て、誰もが息を呑んだ。


 木野さんだった。

 彼女は宙吊りになって、身体を激しく痙攣させている。

 ツバメさんが叫んだ。

「誰か、ハサミかナイフを!! 」

 希望は慌てて近くのデスクに駆け寄ると、引き出しを開け、文房具をあさった。

 鉛筆やボールペンを掻きだしては、床に放り投げる。

 あった、大きめのカッターだ。


 木野さんは、黒い縄で首を吊られていた。その縄は、背の高い本棚の上から伸びていた。

 身体の痙攣も止まり、苦悶の表情もゆるみ、手足もダラリと垂れ下がっている。

 ツバメさんが、希望から受け取ったカッターで縄を切断した。

 床に文字通り落下した木野さんの脈を秀介さんが見ている。そして彼は首を、ゆっくりと横に振った。


 秀介さんは、冷や汗をかいている。

「これは一体どういうことだ? 首吊り自殺? 」

 いや、そんなはずはない。

 希望は、辰子と桜と顔を見合わせた。

「……さっきの灯りが消えた時に、誰かが木野さんの首に縄をかけ、いっきに吊り上げた。」

「ああ、そうとしか思えねえな。この異常なまでの仕事の早さ、素人じゃねえな。」

 誰の仕業だろう? まさかプロの暗殺者?

「木野さんは、一番後ろを歩いていたと思うよ? 」

 希望は頭を掻いた。

「誰かが本棚の陰に潜んで居て、木野さんを背後から襲ったと考えるのが妥当だと思う。犯人はぼくらの中には、多分居ない。」

 それを聞いて、ツバメさんも頷いた。

「俺もそう思う。この手際の良さ、たぶん手慣れた奴だ。」

 秀介さんが、冷や汗をかきながらちょっと取り乱し始めている。

「君達は何を言ってるんだ? 何で俺たちが、その、何だ、プロの殺し屋か? そんなのに命を狙われなければならないんだ? わけが分からないぞ? と言うか、君ら何者だ? 何でそんなに落ちついていられるんだ? 」

 希望は、再び辰子と桜を顔を見合わせた。

 どうして落ち着いてるって、やっぱ慣れてしまったんだろうな。色々と恐ろしい目に遭って来たから。正直、ここより悪魔博士の研究所のほうが、ずっと怖かったと思う。

 ツバメさんも、なぜか落ち着いて居た。

「とにかく、ここから出ることが先決です。早く地下8階まで行きましょう。」

 それには誰も異論は無かった。

 希望はそんなツバメさんを見て、ちょっと驚いた。

 普段は優しそうな眠そうな顔をしているツバメさんだが、今は表情が引き締まっている。その鋭い目つきは、まるで獲物を狙うような猛禽類のそれだ。


10.衆合地獄

 辰子はそっと希望に耳打ちした。

「なあ、ヤスの奴、本当にどこに行ったんだ? 」

 うん、希望もそれが気になっていた。

 これはヤスの仕業だろうか? でも、あいつがぼくらを殺す動機なんて、ちょっと思い当たらない。

一同は階段を下り、地下3階へと辿りついた。

 部屋の中は薄暗い。

 辰子は身を震わせた。

「うー、なんかここも嫌な予感がするぜ。」


 その刹那、後ろでバターン!! と物凄い音がした。

 希望も辰子も桜も、飛び上がるほど、びっくりした。

 それはツバメさんと秀介さんも同じようで、慌てて後を振り返った。

 見ると、さっき階段を下りてきたドアが閉まっている。

 秀介さんが、そのドアを引いてみる。

「駄目だ、向こうから鍵がかけられている。」

 希望は軽くため息をついた。これではもう、後戻りは出来ない。

「いよいよ、先に進むしか道は無いようですね。」

 そう言って、書庫に脚を踏み入れようとした瞬間。

 ガシャン!! とガラスの割れるような、あるいは金属同士がぶつかるような音がした。

 書庫の床を見て、辰子は思わず叫んでいた。

「な、なんじゃあ、こりゃあ!! 」


 床から無数の先の鋭く尖った鉄製の串が、突き出ている。

 数千、いや数万本あるかもしれない。

 3階の書庫の床は、文字通り剣山と化していた。

 希望はその鉄の串を掴んで引っ張ってみた。駄目だ、床に固定されていて抜けそうにない。

「これじゃ、先に進めないよね……」

 ツバメさんも、突き出た鉄の串を調べている。

「長さは10センチはあるね。これはちょっと危険だ。」

 その時どこからか、モーターが回転するような音がし始めた。

 ガシャン!!

 突然、左右の壁からも、数百、数千本の鉄の串が飛び出た。壁もまた剣山と化している。

 そしてモーターのような機械音と共に、左右の壁が、一同を挟むようにゆっくりと動き始めた。 

 辰子は怒鳴った。

「おいおい! 冗談だろう!? 」

 剣山と化した左右の壁が、ゆっくりと迫って来る。

 このままじゃ壁の針で、全員串刺しだ。

 しかし後方のドアは固く閉まり、前の書庫は床が一面、針の平原だ。


 秀介さんは、後方の閉まっているドアに体当たりを始めた。

 木製のドアだから、もしかして?

 だが、扉は軋むものの、とても破れそうに無い。


 左右の壁は、どんどん迫ってくる。

 万事休す?


 希望は意を決した。

 落ち着け、里見流無手勝さとみりゅう・むてかつ古柔術の奥義に「刃渡り」があったはずだ。

 希望は静かに観想する。あの時を思い出せ、免許皆伝の日に、日本刀の上に裸足で立ったじゃないか。あれに比べれば、こんな針如き。

 足の裏に均等に体重をかけろ。そして足を上下にだけ動かし、間違っても引くな。

 希望は剣山の上に飛び乗ると、そこを走り抜けた。

 走れる、走れるぞ!!

 希望は眼前の本棚に手をかけると、それを力いっぱい押し倒した。

 大きな音をたてて、本棚が剣山の上に倒れる。

 希望は怒鳴った。

「みんな!! その本棚の上に乗って!! 」

 まず、桜が倒れている本棚の上に飛び乗った。続いて辰子、ツバメさん。

 だが秀介さんが、やってこない。

 希望は叫んだ。

「何をしているんです!? 」

 秀介さんが悲鳴に近い声でさけんだ。

「う、上着が、針にひっかかった! 駄目だ、取れないっ! 」

「だったら、その上着を脱ぐんです!! 」

「だ、駄目だ、間に合わない!! 」


 ツバメさんが、桜と辰子に覆いかぶさる。

「駄目だ、見るな!! 」

 左右の壁は、ますます狭まる。

 そして、

 ガシャーーーン!!!


 希望は目をつぶって、耳を塞ぎかけたが、秀介さんの悲鳴は聞こえなかった。

 代わりに……

「だ、大丈夫だ!! 」

 閉じた左右の壁の隙間から秀介さんの声がした。

 ツバメさんは、ふーっと息をついた。

「後方のドアを破れたんですね? 」

「あ、ああ、火事場の馬鹿力だ。でも、肩を脱臼した。首も変に捻った……。げ、激痛で動けない。」

「壁が閉じてしまいましたね。もう、あなたは俺たちと一緒には来れないでしょう? 」

「あ、ああ。入り口が塞がれてしまったからな。い、痛みが回復したら、今来た道を戻って地上1階に行ってみる。俺は俺で、何とか外に助けを求める方法を探すよ。」

「お願いします! 」

 秀介さんとは、ここで別れざるをえないようだ。


 ツバメさんと希望ら三人は、皆で協力し合いながら、手を伸ばし、隣の本棚を床に倒す。そして倒れた2つ目の本棚に飛び乗ると、また次の本棚を倒す。

 こうして剣山の海の上に橋を作って、どうにか反対側の階段にまで到達した。

 辰子は毒ずいた。

「くそったれ! 一体どうなってるんだ? 」

 希望は、回りを睨み付けた。

「どうやら、この図書館自体に、人を殺す目的の仕掛けがあるみたいだね。」

「さっき、木野さんの首をくくった縄もそうなのか? 」

「可能性は高いね。」


 ここで桜が、「きゃっ! 」と小さな悲鳴をあげた。

 辰子が驚いて声をかける。

「どうした、桜? 」

 桜は、希望の足元を指差した。

「の、希望の足!! 」

 え?

 希望の白いソックスが、真紅に染まっていた。

 ツバメさんが驚いて言う。

「何てことだ! 靴とソックスを脱いで!! 」


 ツバメさんは、ワイシャツとTシャツを脱いで半裸になる。

 そして脱いだTシャツを引きちぎると、希望の両足をグルグル巻きにした。

「運がいい。大きな血管はやられていない。靴底が剣山の針を、ぎりぎりで止めてくれたようだ。」

 それでも希望の足の裏は悲惨な状態だった。

 辰子も桜も、それを見て青い顔をしている。

「穴だらけだな……」

「痛そう……」

 希望は無理に笑顔を作った。

「大丈夫、これ、見た目ほどには、痛くないんだよ。」

 ツバメさんは額の汗をぬぐった。

「にしても、君は凄いド根性だ。恐れ入ったよ。」

 辰子は、頷いた。

「こいつは、なりはこんなでも、漢の中の漢なんだよ。」

 辰子が、まるで自分のことのように自慢気に言うので、希望は顔を真っ赤にした。

 ツバメさんは希望の足の応急処置を終えると、素肌の上から、さっき脱いだワイシャツを再びまとった。

 イケメン好きの桜は、ツバメさんの着替えを見て、今度は顔を赤くした。蒼くなったり、赤くなったり忙しいことである。

 

11.イスラムのカノーン

 ツバメさんは、一呼吸置いて希望に言った。

「その足じゃ、走ることはおろか、歩くこともできないだろう? 」

「平気ですよ。」

 そう言って、希望は足の痛みをこらえながら立ち上がろうとしたが、それより先にツバメさんに抱きかかえられた。

 またもや、お姫様抱っこである。

 そうだった。この人、見かけによらず、凄い馬鹿力なんだよね。

 そしてこの人の胸も腕も、凄い固い。痩せて見えるのは贅肉が無いだけで、いい身体をしていることが良く分かる。「基礎工事」で筋肉をだいぶ失ってしまった希望は、むしろ羨望のようなものを感じた。

 同時にツバメさんの体温を感じて、ちょっと恥ずかしいと思うと同時に、気分が不思議と落ち着いてくる。


 一番前を辰子が歩き、続いて桜、最後に希望を抱きかかえたツバメさんが、その後を追った。

 階段を下りると、そこは地下4階である。

 辰子は、キョロキョロと辺りを見回した。

「きっとここにも、何か物騒な仕掛けがあるぜ? 」

 桜も同意見だ。

「何か武器を持つと良いと思うよ? 」

 辰子は頷いた。

 すぐ近くに、掃除道具の入ったロッカーがある。

 辰子はロッカーを開けると、中から棒雑巾を取り出した。モップの部分をはずして、柄の部分だけを持つ。

「こんなのしかねえのかな。」

 そんな辰子の肩を、桜が叩く。

「うん? どうした、桜? 」

「そこの床でみつけたよ? 」

 それは鉄製のパイプだった。

「でかした! 桜!! こっちのほうが強力だ! 」

 辰子は木製のモップの柄を放りだすと、かわりにその鉄パイプを握った。


 地下4階の書庫も薄暗く、部屋の中はひんやりとしていた。

 辰子が慎重に歩を進める。

 部屋の反対側にある下階へと通じる扉は閉まっていた。

 辰子はそのドアのノブに手をかけ引いてみたが、びくともしない。

「くそ、鍵がかかってやがる。」

 一同は部屋を見回したが、静まり返っていて、特に変わった物はない。

 希望は、ツバメさんに抱きかかえられながら、つぶやいた。

「この部屋は、とりあえず安全っぽいね。まだ油断はできないけど。」


 ツバメさんは、優しく希望を書庫の中央に置かれている椅子にすわらせた。

 桜は部屋の中央のテーブルに、パソコンが置かれているのを見つけた。

 そしてすぐにそのパソコンの前に座ると、物凄いスピードでキーボードを叩きだした。

「やった! このパソコン、生きてると思うよ!? 」

 辰子は鉄パイプを握りしめながら、「まだ安心は出来ない」と言った顔で、周りを警戒しながら部屋の中を巡っている。

 希望は、そっと椅子から立ち上がった。

 足の裏に鋭い激痛が走ったが、ぐっとそれに耐える。ゆっくりと、びっこを引きながら、どうにか本棚のそばへと辿りついた。

 辰子が呆れたように声をかけてきた。

「この後におよんで、また本の虫がうずくのかよ? 」

 希望は足の痛みをこらえながら、泣き笑いみたいな表情を浮かべて言った。

「何か、手がかりになりそうなものはないかなと思ったんだよ。」

 ツバメさんが、本棚のプレートを見て言った。

「ここはケルムスコット・プレスのコレクションがあるね。」

 希望はツバメさんを見た。

「ケルムスコット・プレスですか? 」

 ツバメさんは頷いた。

「そう、ウィリアム・モリスの起こした出版社だ。」

 希望は痛みと不安を一時的に忘れ、大きな声を出していた。

「ウィリアム・モリスですか! す、凄い!! 」

 辰子が訝しげに首をかしげる。

「煙たいスコットさんがどうしたって? 」

 ツバメさんは苦笑して訂正する。

「ケルムスコット・プレスだよ。」

 ここで希望が説明する。

「ウィリアム・モリスと言うのは、19世紀イギリスの詩人、インテリア・デザイナー、マルクス主義者。と言うよりは、本好きの間では、製本芸術家として有名な人なんだ。彼は、本というものは読むためだけの実用品と言う考え方を嫌った。本という物は、総合芸術であり、見た目の美しさから、手触りに至るまで美しくなければならないと考えたんだ。それで彼は中世の写本を丹念に研究し、独自の美しい字体の活字を特注した。そして全てのページに、縁飾りの文様を入れ、挿絵も凝った物にした。で、使用する紙にもこだわって、羊皮紙や手漉きの紙を使ったんだ。」

「う、何だかよく分からねえが、本オタのマニアな奴だったんだな? 」

「まあ、そんな所だね。でも、そうした贅沢な製本が祟って、ケルムスコット・プレス社は経済的には成功しなかったんだよ。それでモリスの死後まもなく解散になった。それで、ここから出版された本はプレミアがついて、今では世界中のコレクターの間で凄い高値が付いているんだ。」

 ここでやっと辰子が興味を示した。

「ひゅー、つまりここにある本は、お宝、骨董ってわけか? 」

 希望は頷いた。

 ここでツバメさんが表情を緩め、希望に向って言う。

「それほどの製本芸術家だったモリスなんだが、現在の愛書家から見れば、ちょっと信じられない側面もあったんだよ。何だと思う? 」

 そう訊ねられて、希望は首をかしげた。

「うーん、分かりません……」

「製本に関心がなかったんだよ。だから、ケルムスコット・プレス社の本は中身のページが豪華な割りには、表紙が貧弱だったり、装丁がおざなりだったりするんだ。」


 それを聞いて、希望はちょっと納得した。

 ヨーロッパには伝統的に、本の製本屋という職人芸の店がある。

 当時のセレブ達は、豪華本を購入すると、こうした製本屋に依頼して、オリジナルの表紙、オリジナルの装丁を作らせた。

 それを見越して、当時は豪華本であっても、表紙が貧弱だったり、あるいは装丁すらしていない単なるページ集だけを売るということすらあった。

 製本は、購入者がそれぞれの美意識や趣味に基づいて、それぞれ自分でやってください、と言うわけだ。

 だからモリスは、装丁にはあまり関心を示さなかったのだろう。

 希望は顔を上げた。

「ということは、つまり……」

 ここの本の装丁には、この耶麻やま文庫独自のオリジナル製本が施されているはずだ。


 しかし、本棚からそれらの本を引っ張り出してみても、ありきたりなモロッコ革、マーブル紙で装丁した物ばかりである。

 たまに、アルファベットが刻印された物もあるが、それは本の内容とは無関係の意味不明な物ばかりだった。

 ATATAとかHAHAVAとかKOKOBAとか。

 辰子はそれを見て言った。

「あたた? ははば? ここば? なんか北斗の拳みてえだな。あーたたたた! たわばっ! ひでぶっ! ってか? 」

 しかし、希望は一冊の本を見て、ちょっと驚いた。

 その本はモロッコ革の表紙に金箔を押している。その金箔の模様が、8階で見たあのキャスト・パズルの本にそっくりだったのだ。

 いや、そっくりと言うレベルではない。これはあきらかに、あのキャスト・パズルを模している。

 隣の本を手に取ってみる。これも、あのキャスト・パズルを模したものだ。

 ツバメさんが難しい顔をしている。

「嘆きの構造体……」

 希望はツバメさんの顔を見た。

「嘆きの構造体? 何です、それは? 」

 ツバメさんは、ちょっと戸惑ったような表情になった。

「あ、いや、これらの本の表紙の紋様のことだよ。」

「紋様ですか? 」

「それより、この装丁の本は、ケルムスコット・プレスでは無いようだね。」


 希望は、恐る恐るそれらの本を開いた。

 それはダンテの『神曲』だった。つづいて『聖パトリックの煉獄』、『トゥヌクダルスの幻視』、『聖ブランダンの航海記』、『ヘハロート』、『ミーラージ』?

 これっていずれも、天国とか地獄とか、死後の世界を旅行するというテーマの文学ばかりだ。

 そしてその中でも、ひときわ年季の入った古書があった。

 希望はそれを開いて驚愕した。

 『イスラムのカノーン』!?

 訳者は「Dr.Yamada」。「尸条書より現代語訳したもの」とある。

 希望は、「ちっ! 」と舌を鳴らしていた。

 またしても、だ。

 偶然は必然、必然は偶然だっけ? あの魔術師が言っていたことが本当なら、この本に今回の事件の謎を解く鍵があるかもしれない。

 希望はその本のページをめくって見た。薄汚れた古書の紙に、かすれた活字が躍っている。

 希望は、パラパラとページをめくった。すると、鉛筆でアンダーラインが引かれた箇所があった。

 希望はそれを読んでみる。


「この存在、仮にハイドラと呼ばれるもの。しかし深みの者どもの眷属にはあらず。外なる神々の一柱である。ハイドラなる名の語源は、頭が無数にあることからそう呼ばれる。しかしその無数の頭はハイドラの頭にあらず。知性を持った生物の脳髄の苦痛を食らうがために、首を狩り、己の身体の一部としてつなぎ、移植したものである」


 何のこっちゃ?

 もともとこの奇怪な本には、意味不明な記述が多いのだが、今回のこれもそうだ。


 その時だった。

 隣の小部屋の一つから、何やらカタン! と小さな音がした。

 誰か居るのだろうか?

 希望は本を置くと、そのままびっこを引きながら注意深く歩を進め、隣の小部屋へと入った。

隣のその部屋は未整理の本が山積みになっている。

 それらの本の山脈の間を歩いて行た時だった。

 突然、首筋に何か硬い冷たい物が押し付けられた。

 ナイフだった。

 同時に聞き覚えのある声がした。

「よお、希望ちゃん、生きているうちにまた会えて嬉しいよ。」

 希望は軽くため息をついた。

「ぼくは全然嬉しくない。」

 そう言って希望は首にナイフを突きつけらたまま、後ろを振り向いた。

 希望はヤスをじっと観察した。

 ヤスは確かにイケメンである。しかし生憎と今は、不安と恐怖と笑いが入り混じった表情で、それが全てぶち壊しになっていた。

 ナイフの刃先が、首にピタピタと触れられる。

「希望ちゃん、その様子だと、足を怪我しているのかな? 」

 取って付けたような優しい声だ。

 こいつ、何をする気だ?


 ヤスは命令口調で言った。

「脱げ。」

 はい?

「上着を脱いで、上半身裸になれ。」

 希望は肩をすくめた。

「いちおう聞いてみるけど、何のために? 」

 ヤスはナイフを、ちょっと強く押し付けて来た。

「資源の有効利用のためだよ。どうせ君は、間もなくここで死んじゃうんだ。だったら、その前に楽しんでおかなきゃ、もったいないじゃん。」

「ぼくが死ぬ? 」

「そうだよ。ほれ、向こうの書庫に居る桜ちゃんも、イケメン野郎も、ホルスタイン娘も、間もなく皆死んじゃう。あいつらがどうなろうと、知ったことか。でも君は、俺の好みなんだよねえ。」

「それはどういう意味だ? 」

「いいから、脱げ。それとも今すぐここで俺に殺されちゃいたい? 」

 希望は「やれやれ」と言った表情で、軽くため息をついた。

「あんま、ぼくをなめないでよね。」

 希望は、素早く軽く手を振った。

 ヤスの手からナイフがはじき飛ばさえ、それは床に転がった。

 同時にヤスの身体は、一回転し、そのまま本の山の中に叩き込まれていた。

「ぼく、こう見えても古柔術の免許皆伝者なんだよ、いちおう。」


 大きな物音を聞きつけ、辰子とツバメさんが、小走りにやってくる。

 希望は、びっこを引きながら、部屋を出た。

 辰子が心配そうに声をかけてくる。

「おい、どうしたんだ? 」

「ヤスの奴が居たんだ。」


 ヤスは倒壊した本の山の中で、身体を大の字にしてのびていた。

 目を白黒させている。

 しかし彼の口からは、こんなつぶやきが漏れていた。

「きょ、強烈だよねえ。そして、このえげつ無さ。ますます俺の好みだあ。俺、本気になっちゃう。」


後篇につづく!!

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