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雨音を数える令嬢は、辺境技師と明日の水路をひらく  作者: 銀細工ナギ


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19/20

水路を返す判決

 公開審査の広間には、朝の光がまだ届いていなかった。


 高い窓の外では、王都の屋根が薄い霧に沈んでいる。けれど、広間の中央に置かれた証拠箱からは、濡れた木と土の匂いが漂っていた。


「リゼット・ヴァレンシュ。提出した資料について、順に説明せよ」


 審査官長が言った。


 私は一礼し、最初の帳簿を開いた。


「辺境第三水路の配水量は、記録上、七年前から毎年減少しています。しかし、雨量計の数値と農村からの報告は一致しません。こちらが水路管理所で保管されていた原簿、こちらが王都配水局へ送られた写しです」


 並べた二冊の帳簿には、同じ日付の記録があった。けれど、水量の欄だけが違っている。


 広間の後方で、誰かが息をのんだ。


「写しでは、第三水路の分配量が原簿の六割に減らされている。さらに減らされた四割は、王都北区の私設貯水池へ送られていました」


「根拠は」


 配水局の高官が立ち上がった。隣にいるセドリックも、険しい顔で私を見ている。


「古い記録を読めない下働きの娘が、数字を見誤ったのではないか」


 その言葉に、広間のあちこちから嘲笑が起こった。


 私は帳簿を閉じた。


「私は過去の記録を読めません。けれど、水の音は聞き分けられます」


 静かに言うと、笑い声が途切れた。


「記録だけでは分からなかった分岐を、私は水の流れから確認しました。王都地下には、公式の配水図にない旧水路があり、そこから私設貯水池へ水が送られていたのです」


 ノアが一歩前へ出た。


「旧水路の構造は、現存する水門と一致します。操作盤、弁の鍵、地下の堆積物を調べれば、長年使われていたことも確認できます」


「技師ノア。君は配水局の出身だったな」


「はい」


「ならば、君自身が旧制度の設計に関わった可能性もある」


 ノアはすぐには答えなかった。


 かつての彼なら、身分と知識を盾にして相手を黙らせただろう。けれど、彼は広間全体を見渡してから、はっきりと言った。


「可能性ではありません。俺は過去に、記録の不備を見つけながら報告しませんでした」


 ざわめきが広がる。


「上官の命令に従い、数字を疑う農民を無知だと決めつけた。その結果、水を失った村がある。俺にも責任があります」


 セドリックが顔を歪めた。


「自分を犠牲にして同情を買うつもりか」


「違う」


 ノアは彼を見た。


「事実を隠したまま、制度だけを変えても同じことが起きる。だから、俺の記録も審査に提出する」


 彼が差し出した束には、配水局内部で書き換えられた設計図の控えと、上官からの命令書が含まれていた。


 審査官が一枚ずつ確認する。高官が止めようとしたが、アーヴェルが証人席から声を上げた。


「その命令書の封印は、昨夜押収した鍵箱のものと一致します。石工組合の記録にも、旧水路の補修費が毎年計上されています」


 農村の代表たちも続けて証言した。


 水門が閉じられた夜。突然枯れた井戸。配水局員から口止めされたこと。私設貯水池へ運ばれる樽を見たこと。


 一人の証言だけなら、疑われたかもしれない。だが、ばらばらだった声は、帳簿と水路とともに一つの形を作っていった。


 昼の鐘が鳴るころ、審査官長が立ち上がった。


「旧配水制度は、公益を損なう形で運用されていた。私設貯水池への優先配水契約を無効とし、隠された旧水路を含む全水路を王立共有水路として管理する」


 高官が叫んだ。


「そんな権限が審査会にあるのか!」


「本審査会は、災害時の水利裁定権を持つ」


 審査官長は冷たく告げた。


「さらに、改竄された帳簿の責任者と、昨夜の地下水門操作に関わった者を拘束し、刑事審理へ送る。水路管理所には、現地代表と技師による監督委員会を置く」


 最後に、彼女は私を見た。


「雨量と水路の異常を最初に報告した者として、リゼット・ヴァレンシュを臨時監督官に任ずる。辺境へ戻り、新制度の施行を監督せよ」


 広間の奥で、セドリックが一歩下がった。


 彼は私の婚約者だった。私の能力を笑い、家名が落ちたときに手を離した人だった。


「リゼット……あのときは、君のためを思って」


「もう、私の人生をあなたの都合で説明しないでください」


 それだけを告げると、彼は黙った。


 審査が終わり、広間の外へ出る。冷たい風が頬を撫でた。王都の地下では、今も水が流れている。閉じ込められていた水が、本来あるべき場所へ戻り始めている。


「辺境へ戻るのは、すぐに決めなくてもいい」


 ノアが言った。


「私は戻ります」


「分かっていた」


「あなたは?」


 彼は少しだけ目を伏せた。


「俺も戻る。今度は、君の判断を記録するためではなく、君と同じ場所で働くために」


 胸の奥で、小さな雨が鳴った。


 それは遠くの水路が開いた音かもしれない。けれど私は、その音を聞きながら、彼の隣に立つ未来を思い描いた。


 王都から辺境へ帰る道は、まだ長い。


 制度が変わっても、傷ついた村がすぐに癒えるわけではない。新しい水門を造り、失われた記録を集め、互いに疑い合う人々の間で、何度も説明しなければならない。


 それでも、もう水は奪われるだけのものではない。


 私たちの手で、皆のもとへ返される。


 ノアが差し出した手を、私は今度、自分の意志で取った。


「帰りましょう」


「ああ」


 遠くで、王都の鐘が鳴った。


 判決を告げる鐘ではない。


 新しい水路の始まりを知らせる鐘だった。

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