34 小さな幸せ
34 小さな幸せ
ソフィーの結婚式は、滞りなく終わった。
花嫁衣装に身を包んだソフィーは、まるで物語のなかのお姫様のように美しかった。けれど、隣に立つ彼と顔を見合わせて笑う姿は、王女というより、恋する一人の娘そのものだった。
式が終わっても、王都では祝宴や披露のための行事がしばらく続く。
主役であるソフィーたちはもちろん、第二妃エリーゼも、まだ王宮を離れることはできない。
わたしたちは一足先に辺境へ戻ってきた。
華やかな王都も楽しかったけれど、見慣れた家の扉を開けた瞬間、わたしは心の底からほっとした。
「やっぱり、ここが一番落ち着くわ」
そう言うと、荷物を運び込んでいたキーランが振り返った。
「王宮の豪華な部屋よりも?」
「もちろんよ。あちらには、あなたが作った棚も、いつもの椅子もないもの」
「俺はいたけど」
「そうね。だから、ちゃんと眠れたのよ」
わたしが笑うと、キーランは少し照れたように目を細めた。
けれど、戻ってきた翌日から、キーランは近所の人たちに引っ張りだこになった。
わたしたちが王都へ出かけている間にも、頼みたいことがいくつもたまっていたらしい。
「キーラン、納屋の扉がうまく閉まらなくてな」
「うちの屋根も見てもらえないかい? 雨が降ると、少しだけ水が落ちてくるんだよ」
「悪いんだが、薪を運ぶのを手伝ってくれないか」
朝になると、誰かが家を訪ねてくる。
キーランは嫌な顔一つせず、頼まれた家へ出かけていった。
「少しくらい断ってもいいのよ」
ある朝、わたしは彼の上着の襟を整えながら言った。
「王都から戻ったばかりなのだから、疲れているでしょう?」
「これくらい、どうってことない。それに、みんな俺たちが帰るのを待っていてくれたんだろう?」
「キーランが帰るのを、でしょう?」
「ミーナがいなければ、俺だけ帰ってきても誰も喜ばない」
「そんなことはないと思うけれど」
「俺はそう思っている」
きっぱりと言い切ったあと、キーランはわたしの額に口づけた。
「行ってくる」
「はい。気をつけてね」
今日は近所の果樹園で、リンゴの収穫を手伝うことになっていた。
今年は枝がしなるほど実がついたのに、収穫する人手が足りないのだという。
キーランなら高い枝の実も簡単に採れるし、リンゴを詰めた重い籠も一人でいくつも運べる。果樹園の主人は朝早くから迎えに来て、拝むように彼を連れていった。
わたしも一緒に行こうかと思ったのだけれど、
「ミーナは家で休んでいてくれ。王都ではずっと人に囲まれていたんだから」
と、キーランに止められてしまった。
だから、その日は家のことを済ませたあと、庭に椅子を出して彼の帰りを待つことにした。
王都へ向かう前にはまだ青かった木々の葉が、ところどころ黄色く色づいている。吹き抜ける風にも、かすかに冷たいものが混じり始めていた。
それでも日差しは柔らかく、庭で過ごすにはちょうどいい。
わたしは膝に毛糸の籠を置き、冬に向けてキーランの手袋を編んでいた。
「手袋なんて必要ない」と言うかもしれない。
けれど、必要かどうかと、わたしが編んであげたいかどうかは別の話だ。
何度か編み目を確かめているうちに、遠くから子どもたちの笑い声が聞こえてきた。
そろそろ夕暮れが近い。
わたしは毛糸を籠に戻し、家の前を通る小道へ目を向けた。
すると、木立の向こうから誰かが歩いてくるのが見えた。
小さいキーランだった。
「キーラン」
立ち上がり、名前を呼んで、大きく手を振った。
小道の先で、キーランが立ち止まった。
こちらに気づいたらしい。
次の瞬間、彼の歩みが目に見えて速くなった。
けれど、両手には赤いリンゴを大事そうに抱えている。籠に山盛りのようだ。
手を振り返したくても、振ることができない。
それでも、遠くから分かるほどの、とびきりの笑顔を浮かべていた。
その姿を見た途端、胸の奥に温かなものがあふれた。
不思議な気持ちだった。
キーランはわたしよりずっと背が高く、逞しい。いざとなれば獣の姿となり、わたしを背に乗せてどこまでも走ってくれる。
そんな彼が今は、小道で、とても小さく見える。
わたしは、あの小さなキーランを両手でそっと抱え上げたいと思った。
大切なものを手のひらに包むように。
誰にも傷つけられないように。
これまで彼が、何度もわたしを守ってくれたように。
「ただいま、ミーナ」
「おかえりなさい」
額にはうっすらと汗が浮かんでいる。
「走ってきたの?」
「少しだけ」
「リンゴを落としてしまうでしょう」
「落とさなかった」
キーランは得意そうに胸を張った。
「果樹園の主人が、好きなだけ持って帰れと言ってくれたんだ。一番赤くてきれいなものを選んだ」
「まあ。わたしのために?」
「ほかに誰がいるんだ」
当然のことのように答える。
わたしは籠からリンゴを一個とった。
秋の日差しを浴びた果実は、磨いた宝石のようにつやつやと輝いている。
「おいしそうね」
「ああ。もぎたてを一つ食べさせてもらった。甘かった」
「それなら、あとで一緒に食べましょう」
「はい、飛び切りの一個を食べましょう」
キーランは腕のなかのリンゴを落とさないように気をつけながら、わたしの顔をのぞき込んだ。
「ずっと、ここで待っていたのか?」
「ええ。あなたが帰ってくるのを待っていたの」
そう答えると、彼は一度まばたきをしたあと、また嬉しそうに笑った。
「それなら、もっと早く帰ってくればよかった」
あまりにも素直に言われて、今度はわたしが照れる番だった。
「朝から出かけていただけではないの」
「それでも会いたかった」
「わたしもよ」
わたしはリンゴを抱えたまま、キーランの胸へそっと額を寄せた。
彼は両手がふさがっているので、わたしを抱きしめることができない。少し困ったように腕を動かし、それから諦めたように笑った。
「ミーナ。リンゴを置くまで待ってくれないか」
「いやよ」
「落としそうだ」
「さっき、落とさないと言ったでしょう?」
「それは走っても落とさないという意味で……ミーナにくっつかれたら、話が違う」
「では、気をつけてくださいな」
わたしは彼の胸元に頬を寄せたまま、目を閉じた。
キーランの身体から、日なたの匂いとリンゴの甘い香りがした。
華やかな王宮の結婚式も、幸せそうなソフィーの笑顔も、きっといつまでも忘れない。
けれど、わたしにとっての幸せは、もっとささやかな形をしているのかもしれない。
帰ってくる人を庭で待つこと。
小道の先に、その姿を見つけること。
目が合えば、互いの足が自然と速くなること。
そして、その人がわたしのために選んだリンゴを、大切そうに抱えて帰ってくること。
「ミーナ」
「なあに?」
「今度こそ、ただいま」
わたしは顔を上げ、すぐそばにある彼の笑顔を見つめた。
「ええ。おかえりなさい、キーラン」
今度は遠くに小さく見える彼ではない。
手を伸ばせば触れられる、大切な人だった。
ここで完結です。読んでくださいましてありがとうございます。




