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星屑シネマの七番スクリーン  作者: パラレルワールドの住人


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星屑シネマの七番スクリーン――九回裏の向こう側

お越しいただきありがとうございます。

本日はあるアスリート選手のお話になります。

どうぞお楽しみください。


雨の日になると、柊透真は、少しだけ指先でボールの縫い目を探す癖があった。


もう必要のない癖だった。

三十一歳。プロ十二年目。右肘を二度壊し、球速は落ち、今年は一軍登板なし。

そしてその日の午後、球団事務所で静かに言い渡された。


「来季の契約は、ありません」


何度も覚悟した言葉だった。

それでも実際に耳にすると、不思議なくらい何も感じなかった。

怒りも、悔しさも、涙も出ない。ただ胸の真ん中だけが、空いたロッカーみたいに冷えていた。


球場を出ると、雨が降っていた。


傘を差さずに駅へ向かいながら、透真はぼんやり考えていた。

もし、あのとき。

高三の夏、甲子園予選の決勝で肩を壊したあと。

社会人野球に進まず、教師になって、地元に残っていたら。

父が倒れた夜、病院に駆けつけられたかもしれない。

母を一人にしなくて済んだかもしれない。

あの人に「野球しかない人だね」と言われて、去られなくて済んだかもしれない。


「……もし、野球を選ばなかった俺がいたら」


そう口にした瞬間だった。


駅前の見慣れたアーケードの脇に、細い路地が伸びていた。

そこにあったはずのない、濡れた煉瓦の壁。

かすかに灯るネオン。


星屑シネマ


金色の文字が、雨粒の向こうで滲んでいた。


透真はしばらく立ち尽くした。

だが吸い寄せられるように歩き出し、重いガラス扉を押し開けた。


中には、古い映画館特有の、埃とフィルムと甘いバターの匂いが漂っていた。

ロビーには誰もいない。

ただ、銀色の蝶ネクタイを締めた老人が、カウンターの向こうに立っていた。


「いらっしゃいませ。今夜の上映をお待ちしておりました」


透真は眉をひそめる。


「ここ、なんなんですか」


老人は静かに笑った。


「お客様が、ずっと観たかったものを上映する場所です」


差し出されたチケットには、映画のタイトルの代わりにこう印字されていた。


『柊透真/野球を降りた世界』


透真の喉が、ごくりと鳴った。


七番スクリーンは、思っていたよりずっと広かった。

天井には星屑みたいな小さな灯りが散り、古びた赤い椅子が夜の底まで続いているように見えた。


やがて照明が落ち、スクリーンが白く浮かび上がる。


最初に映ったのは、土のグラウンドだった。


朝の地方都市。

白線の引かれた校庭。

バックネットの向こうに低い曇り空。

そこに立っていたのは、ジャージ姿の透真だった。


少し短い髪。

日に焼けた首筋。

胸元には高校名の入ったホイッスル。

プロ野球選手ではない。

地元の高校で保健体育を教えながら、野球部のコーチをしている“もう一人の透真”だった。


「……先生、ノックお願いします!」


生徒たちの声が飛ぶ。

スクリーンの中の透真は「一本で終わると思うなよ」と笑って、バットを握った。


その笑顔を見た瞬間、現実の透真は息を詰めた。


自分がもう何年もしていない顔だった。


映像は淡々と続いた。


朝はホームルーム、昼は授業、放課後は部活。

雨の日には部室で配球ノートを見せながら、「勝てる投手は速い球を投げる投手じゃない。苦しいときに、一球ずつ理由を持てる投手だ」と話している。


夜は実家で母と夕飯を食べ、仏壇の前で父に手を合わせる。

プロ入りしなかったその世界では、父の最期に間に合っていた。

病室で「お前の投げる球、もっと見たかったな」と言われ、泣きながら頷く透真が映った。


透真は座席で奥歯を噛んだ。


やっぱりこっちの方がよかったじゃないか。

そう思いかけた、その時だった。


場面が変わる。


夜のグラウンド。

練習が終わり、誰もいないマウンドに、スクリーンの中の透真がひとりで立っていた。

手には古い硬球。

静かな照明の下で、彼は捕手のいないホームベースへ向かって、一球だけ投げる。


乾いた音。

低めいっぱいに決まる、綺麗なストレート。


投げ終えたあと、彼は少し笑って、すぐに泣いた。


「一度でいいから……プロのマウンド、立ってみたかったな」


誰に聞かせるでもないその独り言が、場内に落ちた。


透真は、指先から血の気が引くのを感じた。


映画は続く。


夏の県大会。

“もう一人の透真”が育てたエースは、ベスト四で敗れる。

甲子園には届かない。

ロッカールームで生徒たちが泣き崩れるなか、透真は一人ひとりの肩を叩いて回る。


最後に、エースの少年が声を震わせて言った。


「先生、俺、先生みたいな投手になりたかったです」


透真は少し困ったように笑った。


「なるなよ。お前は、お前の球を投げろ」


そのあと、少年が続けた。


「でも、先生がいたから、俺、投げ切れました」


その一言を聞いた“もう一人の透真”の顔には、プロ入り会見でも、ヒーローインタビューでも見たことのない種類の光が差していた。

報われたような、まだ足りないような、どうしようもなく人間らしい顔だった。


透真はようやく理解した。


この世界の自分は、父の最期に間に合った。

母の隣にいられた。

生徒たちに囲まれて笑っていた。

けれど、一人の夜には必ず、投げなかったボールの重さを抱えていた。


そして、今の自分は。


父の死に目には会えなかった。

恋人も失った。

華やかなスターにもなれなかった。

だが確かに、一軍のマウンドに立った。

満員のスタンドのざわめきの中で、サインに頷き、自分の一球で試合を終わらせた夜を知っている。


どちらの人生にも、ちゃんと喪失があった。

どちらの人生にも、他方を羨む瞬間があった。


上映の最後、スクリーンの中の透真は、部室で一人スコアブックを書いていた。

ふとテレビから、現実の世界のプロ野球ニュースが流れる。

そこには、若い頃の柊透真が映っていた。

一軍初登板のあの日。

球場の照明の下で、緊張した顔で帽子のつばを直す自分。


“もう一人の透真”はテレビを見つめ、少しだけ笑う。


「そっちの俺、投げられたんだな」


悔しさでもなく、敗北でもなく。

遠い友人を祝福するみたいな声だった。


そこで映画は終わった。


場内に灯りが戻ると、いつの間にか老人が隣の席に座っていた。


「ご鑑賞、ありがとうございました」


透真はしばらく何も言えなかった。

喉の奥が熱かった。


「……あっちの俺も、後悔してるんですね」


「ええ」


「でも、幸せそうでもあった」


老人は頷く。


「幸せと後悔は、同じ人生に同居できますから」


透真は空になったスクリーンを見た。


「じゃあ、どっちが正しかったんですか」


老人は静かに答えた。


「正しい人生は上映しておりません。

あるのは、別の痛みを引き受けた人生だけです」


透真は目を閉じた。


プロで終わることが、失敗だと思っていた。

夢を叶えきれなかった自分は、選択を間違えたのだと思っていた。

けれど違うのかもしれない。


自分は、自分の人生の代償を払ってきただけだ。

ただそれだけで、間違いとは限らない。


「……まだ、野球をやっていてもいいですかね」


老人は少しだけ目を細めた。


「誰に許可を求めておられるのです」


透真は、そこで初めて笑った。


ロビーへ戻ると、カウンターの上に小さなフィルム缶が置かれていた。

蓋には手書きで、


『未上映作品:最後の登板の、その先』


とあった。


それを手に外へ出ると、雨は上がっていた。

振り返った先に、もう映画館はなかった。

濡れた壁があるだけで、路地も入口も消えている。


翌朝、透真は母に電話をかけた。

それから、昨夜のまま鞄に入っていたグローブを取り出し、地元の独立リーグの入団テスト会場へ向かった。


プロ野球選手としての物語は、たぶん一度終わったのだろう。

けれど、野球を生きる物語までは、まだ終わっていない。


受付で名前を書くと、隣にいた高校生くらいの少年が、緊張した顔で声をかけてきた。


「すみません、もしかして……柊投手ですか」


透真は少し考えてから、笑って答えた。


「うん。今日はただの、もう一回投げたい人だよ」


青空の下、朝のグラウンドにはまだ誰の足跡もなかった。

新しい白線の匂い。

湿った土。

掌になじむボールの重さ。


透真はマウンドに立ち、キャッチャーミットを見た。


この先の人生が、どんな形になるのかはわからない。

もう大歓声の中には戻れないかもしれない。

それでも、今この一球を選べるのは、自分だ。


彼はゆっくり振りかぶり、

まだ誰のものでもない未来へ向かって、真っ直ぐな球を投げた。

最後までお読みいただきありがとうございます。

明日はどんなパラレルワールドが待っているのでしょうかまたのお越しをお待ちしております。

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