むかしばなし
幹也と日菜は、幼なじみだった。
子供の頃からよく遊んだし、自然と同じ小学校、中学、高校に進学した。
ただ、高校時代は年頃だったこともあり、段々と疎遠になってしまったのだが。
高校二年生になり、特進クラスを選んだ幹也は日菜とクラスも別になり、一緒に帰ることも喋ることすらもなくなった。いつか昔のような関係に戻れたらと幹也は願っていたが、それを表に出すことはできず、時間だけが過ぎていった。
そんなとき、とある噂が聞こえてきた。
日菜がクラスの人間から虐められているというのだ。
まさかそんな、と幹也は思った。日菜は可愛いし、性格も優しい。少し大人しめではあるが、虐められるような人間では無いと思っていたのだ。
しかし、その不穏な噂は日に日に強くなっていき。まるで日菜が虐められていることが事実のように語られていた。
そんなバカな、とは思いつつも、ここまで噂が広がると気になってしまうのが人情だった。幼なじみなら尚更に。
最近話せていないが、なんとか話を聞いてみよう。
そう心に決めた幹也は、廊下で偶然日菜に出会うことができた。
久しぶりに会った彼女は……なんというか、暗かった。
未来にまるで希望を抱けていないかのような。
一刻も早い死を願っているかのような。
目を離した瞬間には、廊下の窓から飛び降りていても不思議じゃないような。
「ひ、久しぶりだな……元気にしていたか?」
失言した、と幹也は早速後悔した。どこからどう見ても、今の日菜が元気なようには見えないからだ。
「……元気なように見えるの?」
日菜の声は暗く、澱んでいて、怒りすら込められていた。
「い、いや、」
あまりにも冷たい対応に、しどろもどろになってしまう幹也。
そんな彼の様子が気にくわないのか、日菜はこれ見よがしにため息をついてから幹也の横を通り過ぎようとする。
「ちょ、ちょっと待てよ! お前に関する変な噂を聞いたんだ!」
反射的に日菜の左手首を掴む幹也。
そこで違和感に気づく。
日菜の手首に何かが巻かれていたのだ。
視線を落とし、巻かれた何かが包帯であると認識する幹也。
左手首の巻かれた包帯。虐められているという少女。二つの事柄が一つになり、『リストカット』という結論に至る幹也。
「……痛い」
「あ! スマン! えっと、その手首は……?」
「幹也には関係ないでしょう?」
心底ウンザリとしたその返答にさすがの幹也もカチンときてしまう。
「なんだよその態度! せっかく心配してやっているのに!」
これもまた失言だと幹也は口にしてから気づく。せっかく。してやっている。なんという上から目線だろうか。
「……誰のせいだと思ってるのよ!?」
「へ?」
急に怒鳴りつけられて幹也の思考は停止してしまった。誰のせい? 俺のせいだとでも言うのだろうか?
「あ……」
そんなことを言うつもりはなかったのか、日菜は自らの口元を手で押さえた。そのまま逃げるように走り去ってしまう。
「お、おい! 待てよ!」
追いかけるのは簡単だった。幹也は男性で、日菜は女性。すぐに追いついて、また手を掴んで止めるのは容易だった。
しかし幹也が思い出したのは、日菜の手首を掴んだときの「痛い」という発言。
日菜を傷つけたくない。
その優しさが、彼の行動を縛り付けたのだ。
――あのとき追いかけてさえいれば。
その後悔は、その後十年、彼を何度も何度も苦しめることになる。
◇
日菜を逃がしてしまったあと。
幹也は野球部のグラウンドに向かい、晴彦の元へ向かった。日菜のクラスの担任は晴彦だからだ。
幼なじみの伸一が野球部なので何度か足を運んだことがあり、迷いはしなかった。
ちょっとした休憩時間を見計らい、日菜が虐められているのではないかと相談する幹也。
しかし、
「――証拠はあるのか!」
野球部の指導を邪魔されたせいか、晴彦は不機嫌であった。……そもそもが常に生徒のことを下に見る人間だったのだが。
「いえ、証拠は……」
そんなものはない。日菜の様子にいても立ってもいられずにグランドまでやって来たのが今の幹也なのだから。
「バカなことを言って邪魔をするな! こっちは甲子園行きが決まって忙しいんだ!」
怒りを発露させながら地面に竹刀を叩きつける晴彦。野球の指導になぜ竹刀が必要なのか理解できない幹也であるが、聡明な彼はこれ以上証拠もないままに説得するのは無理だと察した。
部活時間も半ばを過ぎ、帰宅部の生徒はみんな帰ってしまったであろう時間。虐めに関する証拠集めをしようにもどうしようもなさそうだった。
野球部を離れて一旦校舎に戻る幹也。
「……明日。明日から本格的に動こう」
伸一に事情を話すのもいいかもしれない。彼は幹也や日菜ともクラスが違うが、一人よりも二人の方が情報を集めることが容易になるはずだからだ。幼なじみなのできっと協力してくれるはず。
他に何かできることはないかと幹也は考える。
「……そうだ。朝と放課後に一緒に帰るのなんてどうだ?」
自分に言い聞かせるようにその案を口にする。
日菜とはクラスが違うので一日中守るわけにもいかないが、少しでも多くの時間『味方』と過ごすのは精神的にもいいはずだ。
「…………」
少し悩みつつ、スマホを取り出した幹也。
日菜にメッセージを送ってみるが、既読にはならなかった。
「もう帰ってしまったかな?」
幹也から逃げたのだからまだ学校に留まっている可能性は低い。が、まだいる可能性もある。
電話口ではまた失言してしまうかもしれないし、相手の顔が見えないので感情の機微が分かりにくい。
直接会って話し、登下校の同行を申し出た方がいいと判断した幹也は日菜を探すことにした。もう帰ってしまった可能性が高いが、まだ残っているかもしれないからだ。
……なにやら嫌な予感がしたから、というのもある。
クラスこそ別になったが、意識はしていたので日菜がどのクラスなのかは分かっている。二階の、一番奥。階段から最も遠く非常階段から最も近い教室だ。
――ぎしり、と。
二階に着いたとき、耳元でそんな音が聞こえた気がした。学校の校舎内でそんな音が聞こえるはずがないのに。
「うん……?」
幻聴か、あるいは誰かの上履きの音でもしたか。なんとなく階段を振り返る幹也だが、誰もいなかった。もちろんロープなんてものはない。
いや、踊り場の窓から見える松の木の枝には、冬から放置されているロープが張られたままだが……さすがにその音がここまで聞こえることはないだろう。
「雪吊りっていうんだっけ?」
用務員が交代してから放置されたままだが、なんてことを考えながら日菜の教室を目指す幹也。
なんだか、嫌な予感がする。
廊下に暗い雰囲気が漂っているというか。おどろおどろしいものが日菜の教室から漏れ出ているというか。
学校ならば幽霊が出ても不思議ではないかもしれないが、しかしまさか、夕方から出没することもないだろう。
他愛もないことを考えながら幹也は日菜の教室を覗き込み――
――ぎしり、と。
今度は確かに聞こえた。
かつてはテレビが設置されていたという、天井から吊り下げられたテレビ台。
今となっては遺物とすら言えるそれにロープを掛け、日菜が首を括っていた。
倒れた椅子。
揺れる身体。
力なく垂れ下がった四肢。半分白目を剥いた赤黒い顔。異様なほど伸びた舌。
明らかに、死んでいた。
もう助からないと確信した。
それでも、幹也は駆け寄らずにはいられなかった。
「う、うわぁ! うわぁ! わぁああぁあっ!?」
取り乱しながら日菜の足に抱きつき、持ち上げる幹也。
まだ温かい。
柔らかい。
しかし、その温もりは急激に失われていった。
「なんで!? なんでだよ!? なんで首なんて!?」
日菜の足を抱き抱えながら叫び続ける幹也。後から考えればもっといい方法はあったはずなのだが、初恋相手の死体を前にして錯乱した彼に、それ以上のことを求めるのは酷だった。
数分後。狂乱した彼の声を聞いて駆けつけた別の生徒がやって来るまで。彼はそうして日菜の身体を抱え続けていたという。




