夫婦の幸せを願う者
翌朝、ポーラがサマンサの部屋を訪れるとサマンサは既に起きており、ソファーの肘掛に身体を預けながら窓の外を眺めていた。
「おはようございます。サマンサ様、セリム殿下は嬉しそうでしたか?」
「知らないわ」
ポーラは予想外の答えに、目を見開いてサマンサを見た。
「枕カバーは渡されたのですよね」
「苛立ったから背中に投げつけてやったわ。ごみ箱にでも入っているのではないの?」
「まさか」
それだけはありえないとポーラはサマンサを見つめた。しかしサマンサはポーラを見ようともしない。
「どうせ素人が織った物だから洗濯に耐えられず、すぐ駄目になるわ。ごみみたいなものよ」
「そのような事はありません。家政婦長も丁寧に織られていたので十分な出来だと仰っていました」
「そう。それなら次はポーラに敷布を織るわね」
「私ではなくセリム殿下へお願いします」
「煩いわね、何であの人に織らなければいけないのよ」
サマンサは身体を起こすとポーラを睨んだ。ポーラは今まで見た事のない不機嫌なサマンサにかける言葉が見つからなかった。サマンサは視線を外すとため息を吐く。
「八つ当たりして悪かったわ。折角アスラン語を覚えてここまでついてきてもらったけれど、お兄様達と一緒に帰るかもしれないから、そのつもりでいて」
「まだ一週間ですよ? 早くないですか?」
「セリム殿下が出て行けと言ったら出て行くしかないでしょう?」
「そのような事を仰せになるはずがありません」
「そのうち言うわよ。この話は終わり。着替え宜しく」
『まだ話は終わっていません』
ポーラはレヴィ語でそうきっぱり言うとサマンサを睨んだ。
『この婚姻の為に準備期間として二年も費やしています。関わった人の数は数えきれません。私もそれなりにここまで大変だったのです。それを一週間で帰るなど、到底受け入れられる話ではありません』
『ポーラはここに残ればいいわ。レヴィでなら侍女はすぐに見つかるのだから』
『逃げるなんてサマンサ殿下らしくありません。一体何があったのですか?』
ポーラに詰問されサマンサは視線を外す。
『ゼフラ様に帰るくらいなら最初から来なければよかったのにと、嘲笑われても宜しいのですか? 負けを認めるのですか?』
『負けていないわよ。どう見ても私の方がセリム殿下の事を考えているでしょう?』
「それでは何故、セリム殿下がサマンサ様に出て行けなどと言うと思われるのでしょうか?」
ポーラはアスラン語に戻し、穏やかな口調でサマンサに問いかけた。サマンサは視線を暫く漂わせた後、俯いた。
「私はセリム殿下と夫婦になろうと思っているのに、向こうはそう思っていないのよ。それはつまり、夫婦として成り立たないという事でしょう?」
「サマンサ様の気持ちが上手く伝わっていないだけではないでしょうか」
ポーラの優しい声にサマンサは顔を上げると彼女を見つめた。
「結婚してすぐに神殿へ行かれたのを覚えていますか」
「えぇ。マナータ神殿でしょう?」
「神殿へ行かれた時、中で誰かとすれ違いましたか?」
サマンサは何故そのような事を問われるのかと眉を顰めながら、数日前の事を思い出す。
「誰もいなかったわ。とても静かで壁画も綺麗だったから、ポーラも行ってみるといいわよ」
「私は独身ですから用がありません。あの神殿は夫婦で誰ともすれ違わずにマナータ様に祈りを捧げて神殿を出る事が出来れば、二人は一生幸せになれると言われているそうですよ」
サマンサはあの日セリムが何と言っていたかを思い出していた。何もしなければ天罰の対象になるから日々努力が必要だと。セリムが自分にとってどういう努力をしているかわからないけれど、果たして自分は何をしただろう。枕カバーを織ったのは家政婦長に言われたからだし、昨夜の夕食もエイメンに対しては正しく振る舞ったのかもしれないが、セリムを途中で置き去りにしなかっただろうか。セリムが言いたい事を聞かなかったのではないのだろうか。
「サマンサ様、私ではナタリー様やライラ様の代わりにはならないと思いますけれど、セリム殿下の愚痴を聞くだけなら出来ます。溜め込まれるのはよくないのではないでしょうか」
ポーラの優しい声色にサマンサは反省をした。セリムが何を考えているのかわからず、ただ一方的に苛立ってしまった。本当なら彼の言い分を聞いて、自分の思っている事を伝えて、少しずつお互い寄り添っていく、それが必要なのではないだろうか。彼女は視野がとても狭くなっているような気がした。
「そうね。朝食の時に少し話を聞いてくれる?」
「勿論です」
「ありがとう、ポーラ」
サマンサはポーラに微笑んだ。
サマンサは朝食後、家政婦長と共に織機のある部屋へと移動をした。彼女はポーラにセリムの事を話してすっきりしていたものの、家政婦長には枕カバーについて尋ねられた時どう誤魔化そうか悩んでいた。
「サマンサ様、枕カバーに刺繍をされたのですね」
「何故それを知っているの?」
サマンサが枕カバーに刺繍をしたのはライラに言われてからなので、知っているのはポーラだけである。家政婦長は微笑んだ。
「セリム殿下の部屋を担当している使用人が、枕と手紙を持って私の所へ来たのです」
そう言って家政婦長は手に持っていた手帳から一枚の手紙を取り出し、サマンサに差し出した。彼女はそれを受け取って目を通す。枕カバーを傷めないように細心の注意を払って洗濯をして欲しい。その内容を読んで彼女は呆れた表情をした。枕カバーの取り扱いを注意する前に、こちらの気持ちを注視してほしいと言いたい気分だった。サマンサは家政婦長に手紙を戻した。
「この別館で文字を読める使用人は私しかいない事を失念してしまう程、セリム殿下は嬉しかったのでしょうね」
「家政婦長だけなの?」
「側近であるハサン様とメルトも読めますけれど、使用人となると私だけですね。使用人がこの手紙をごみと勘違いして捨てていたらどうする気だったのでしょうか」
「セリム殿下はそういう所まで気遣えないと思うわ。婚約した時、私にアスラン語の手紙を送ってきて困ったもの。おかげで読み書きの習得は出来たけれど」
正式に婚約をした時、アスラン王国の使者から手紙を受け取り、すぐに返事を書いて欲しいと頼まれた。しかし当時のサマンサには何が書いてあるのか全く分からず、アスラン語の教師に内容を読んでもらい、その教師が困惑していたのを思い出した。恋文を翻訳する程嫌な仕事もないだろう。しかも当時は言葉など覚えなくともいいから、すぐに来てほしいというような浮かれた内容だった。
「セリム殿下は昔からそうなのですよ。相手の気持ちを読み過ぎたり、自分が我慢すればいいと思って遠慮をして逆に相手を困らせたり。いい子なのは間違いないので憎めないのですけれどね」
サマンサは家政婦長のいい子と言う言葉が引っかかり、問うような視線を投げかけた。先程もメルトの事は呼び捨てであったし、昔から知っているような雰囲気がしたのだ。その視線に気付いた家政婦長は頭を下げた。
「失礼致しました。私はメルトの母であり、セリム殿下が幼少の頃より身の回りのお世話を担当しておりました。セリム殿下が軍人になられて仕事がなくなった時にオルハン殿下に声を掛けて頂き、ここで働き始めたのです」
「では今もセリム殿下の身の回りの世話を?」
「いいえ。セリム殿下は軍隊で慣れてしまい、身の回りの事は御一人でされます。洗濯や掃除はこちらに任せて下さいとお願いしたほどです」
兄も軍人であり従者はいなかったと考え、サマンサはそこでふと気付いた。ジョージと似ていると感じてから、知らぬ間にジョージとセリムと比べていたのかもしれない。ジョージは剣の腕が一流で軍人達からの人望も厚く、議会に出れば法案について議論できる賢さも併せ持つ。流石にジョージと比べて勝手にセリムに不満を持つのはお門違いだと思えた。
「いかがされましたか?」
急に考え込んだサマンサの顔を家政婦長は覗き込んだ。サマンサは笑顔で首を横に振る。
「いえ、いい人なのに軍人であったのは精神的に辛かったのではないかと思って」
「セリム殿下は一人でも血を流す人が減ればいいと、そう考えておられます。王太子になられてからは戦争を終わらせようと努力されています」
「そうなの。戦争が早く終結するといいわね」
「えぇ。それでは敷布を織りましょうか」
家政婦長にそう言われサマンサは頷いた。敷布を織るのに何日かかるかわからないけれど、とにかく今日の午後はセリムに昨夜の態度を謝ろうと思った。




