四日目の夜
その日の午後、セリムとサマンサは王都にある製糸工場に足を運んでいた。生糸をはじめ木綿糸、亜麻糸など色々な糸を紡いでいた。それを布にするのは隣にある工場で、そこでは機織り職人が布を織る。どちらの工場も国営であり、アスラン王国の大切な貿易品である。また別に染色工場もあり、糸を染めたり、布にしてから染めたりしていた。彼女は普段何気なく着ていた服がこのような過程を経て布地になり、更に職人の手によって作られていくという事を初めて知った。
「サマンサはどこでも楽しそうに見学をしていたね」
「どれも興味深く見学させてもらいました。布地が出来上がるまでに、これほどの人が動いていると知らなかった事を恥ずかしく思います」
「王宮で暮らしていたのならば職人は見えなくて当然だと思う。私は自由だったから」
「機織りはこの国の女性なら誰でも出来るそうなので私もしてみたいと思いました」
「館のどこかに織機はあると思うけど」
セリムの言葉にサマンサは瞳を輝かせて彼を見た。
「そうなのですか? 機織りしても宜しいですか?」
「使えそうなら構わないよ。家政婦長辺りなら織り方も教えてくれると思う」
サマンサは笑顔で頷くと早速今夜マッサージの時に相談しようと思った。自分に出来るかはやってみないとわからないが、これで暫く暇が潰せそうだと嬉しかった。
「そんなに機織りが気に入った?」
「私はまだこの国で何をしていいのかわからないので、何かをしてみたいのです」
「サマンサがしたい事は応援するから何でも言っていいよ」
セリムは笑顔を浮かべた。視察中、彼はたまにうわの空だった。前日までそのような事はなかったのだから、今日の仕事で何かあったに違いないとサマンサは思っていた。彼女は何があったのか尋ねようと思ったが、今は別館へ帰る道を歩いていて誰が聞いているともわからない。
「ありがとうございます」
尋ねるのならば夜にしようと思い、サマンサはセリムに笑顔を向けた。
夕食と入浴を終え、マッサージ中にサマンサは早速機織りについて聞いてみた。この館には確かに織機はあるが、暫く使用していないので明日動くか確認してみて、使えそうなら織ってみましょうと言われ、彼女は笑顔で宜しくと答えた。
サマンサが自室で暫く待っているとセリムが部屋に入ってきた。彼はソファーに腰掛けたまま暫く無言だった。沈黙が続くと何も話さないまま自室へ戻ってしまうと思い、彼女は先に口を開く事にした。
「セリム殿下、お伺いしたい事があるのですけれども宜しいでしょうか」
「あぁ、何でも答えるよ」
「私達は縁あって結婚したのですから、もし何か悩み事があるのでしたら私に仰っては頂けませんか?」
サマンサの言葉にセリムは申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「サマンサに気を遣わせて悪い。大丈夫、気にしなくてもいい」
「そうですか、私は信頼して頂けていないのですね」
サマンサは寂しそうに視線を伏せた。勿論心の中でそのような事は思っていない。ただの駆け引きである。それに気付かないセリムは慌てたような表情を浮かべた。
「ち、違う。サマンサには何も心配して欲しくない。大丈夫、サマンサの事は私が必ず守ってみせるから何も気にしなくていい」
「本当は何も出来ない女だと思っていらっしゃるのでしょう? 私は少しでもセリム殿下の力になれたらと思っておりますのに、とても寂しいです」
「何も出来ないなどとは思っていない。アスラン語も覚えてくれたし十分優秀だと思っている」
「それなら何故何も仰って下さらないのですか? 今日の午後からセリム殿下の様子がおかしい事くらいわかっております」
サマンサは幼い頃から色々な情報を集めて、王宮の力関係を冷静に眺めて暮らしてきた。その癖が抜けず、セリムの態度が昨夜の話の延長なのではないかと気になって仕方がなかったのだ。
「いや、これは個人的な話だから」
困惑するセリムにサマンサは責めるような視線を向けた。彼は降参したかのように顔を歪める。
「エイメンが改めてサマンサに挨拶をしたいと言ってきて。その、俺は会わせたくないからどう断ろうかなと悩んでいて……」
「エイメン殿下の顔は好みではありませんとお伝えしたはずです」
「それはわかっている。だけどエイメンは博識だし、きっと俺と話すより楽しいと思う。だから嫌だなと思って」
セリムは視線を落とした。一人称が俺になっている事にも気付いていない様子がサマンサには憎めなかったが、ここで微笑むのは違うと思い彼女は表情を取り繕った。
「何を心配されているのか存じ上げませんけれど、私はレヴィ王国の王女としてセリム王太子に嫁ぎました。エイメン殿下と会話が弾もうとも嫁ぎ先を変えるつもりはありません」
「エイメンがサマンサの運命の相手だったとしても?」
サマンサは昨夜セリムが言っていた事がやっとわかった。王位継承権から運命の相手の話に流れたのはエイメンが運命の相手の場合という仮定が彼の中であったからなのだ。しかし何故そこでその仮定が成り立ったのかまでは彼女にはわからなかった。
「少なくともお会いした時には何も感じませんでした」
セリムは嬉しそうな顔をした後、すぐに寂しそうな表情を浮かべた。サマンサは忙しい人だなと心の中で思っていた。
「つまり俺にも感じていないという事だよね。いや、わかっていたけど改めて言われると辛いな」
「そもそも私には運命そのものがわからないのです。どうやって運命かを知るのでしょうか」
「俺はサマンサを見た時、全身に衝撃が走った。今まで誰にも感じた事のない、表現のしようのない感情が溢れて来て、この人と人生を共にしたいと瞬時に思った」
サマンサは困っているのを表に出さないようにするので精一杯だった。そのような事を二年前に彼女は感じなかった。その時感じなかったのなら、もう自分にとってセリムは運命の人ではないのかもしれない、そう思うと何故だか少し寂しい気持ちになった。
「あの時渡した指輪は気に入らなかった?」
突然話の方向が変わってサマンサはセリムをじっと見つめた。彼は悲しそうな表情をしている。二年前、謝罪と共に彼から指輪を受け取った。急遽用意した物だったのか、彼女の指には合わなかった。それでも彼女はわざわざ自分の指に合うように直してもらい、婚約を正式に発表してから王宮を出立する前日まで左手薬指にはめていた。
「あれは婚約指輪ですから結婚したらつけないのですけれど」
「え? そうなの?」
アスラン王国には結婚指輪も婚約指輪もない。二年前はハサンの意見を受け入れて用意したもので、多分セリムも意味を分かっていなかったのだろう。サマンサは立ち上がり鏡台の引き出しを開けて箱を二つ手に取ると、元の場所に腰掛けてテーブルの上に箱を置いた。一つは二年前貰ったもの、もう一つは正式に婚約が結ばれた後で贈られたものである。
「この国には結婚指輪がないのですから、ずっと身に着けておけばよかったですね」
「いや、私も詳しく風習も知らず申し訳ない。ハサンが結婚したい女性に指輪を贈るのが向こうの大陸では普通だと言っていたから」
サマンサは微笑むと箱を二つ開けた。
「セリム殿下、宜しければはめて頂けますか? 結婚指輪としてはめる事にします」
「いや、それならしなくていい。こうして大切に持っていてくれただけで十分だから」
そう言いながらセリムは二つの箱を閉じた。サマンサは彼の真意が読めずに眉を顰める。
「形に拘っても仕方がない。私は表面上だけ夫婦になりたいわけではないから」
サマンサはどうにもセリムの真意を掴めなかった。一人称が私に戻ったのだから本心を隠しているのかとも思うのだが、何を隠しているのかがわからない。
「エイメンの事はハサンにも相談して決めるよ。妙な事を言って悪かった。おやすみ」
セリムはそう言うと逃げるように自室へと戻っていった。サマンサはテーブルの上の二つの箱をじっと見つめたまま、本当はどういう対応をすれば彼が喜んでくれたのか暫く考えていた。




