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1 未知か無知か

 月が昇りはじめる頃、岩井栄二が夕飯のチャーハンをコンロにかけたフライパンでふりまわしていると、インターホンがピンポーンと鳴った。

 築40年越えのアパートのせいか、あるいは経年劣化かなにか知らないが、とても乾いた音で、あえて表記するならティントーンに近いがそれはさておき、英二は火力強めで炒め中だったこともあり、露骨に眉をひそめる。


 そして、眉をひそめたのは来客予定のない夜であることにも起因している。

 セールスや勧誘のたぐいはめったにこないので、女友だちのだれかが唐突に来訪したのかもしれない。

 ドアの向こうで、ちょっと逢いたくなっちゃって、とかなんとか髪をゆびでいじりながらいいわけするところが想像できる。


 栄二はため息をつく。

 見目麗しい両親から生まれ、どこかしら人を突き放したところが感じられる雰囲気から、栄二は幼い頃からモテた。

 古くは幼稚園時代にはじまり、めぐる季節のごとく途切れることなく28歳のいまもモテつづけている。

 現況、やむをえず三人の女友だちと交際しているが、それは栄二が望んでそうなったのではなく、ときどき接近する流星群や、防ぎきれない隕石衝突みたいなものだった。


 しぶしぶコンロの火をとめた。

 チャーハンをぺとぺとにする行為だが、予想外の訪問者である可能性も加味するのが栄二のストイックなところだ。

 ついでに栄二の部屋はアパートの二階だが、ほかの部屋の住人に変わり者が多いのでクレーム対策でもある。


「――はい、どちらさま?」


 ドアノブをにぎりながら訊ねたが、返事がないので栄二はグイッと開けた。


「お夕飯どきにすみません、ああ、いい匂いですねぇ」


 廊下にいたのは予想外というか、予想を大きくうわまわるどころか、想像さえしたことがない、未知のものだった。

 質感でいえば液体と固体のはざま、角はなくおおざっぱな縦横50センチほどの楕円、水たまりに垂れたガソリンのような色合いのかたまりである。未知というよりムチムチの。


 少し動けばゆれるので、非常にやわらかそうであるため、よく知らないのに液体金属という単語が脳裏をよぎったりする。のっぺらぼうとかそういう妖しさはなく、どちらかといえば、いっぱい集まるとばよえんと消えてしまいそうな趣きだ。目はないけれど。


「お部屋に失礼してもよいでしょうか?」


「……えっと、知り合いだっけ?」


 わりと不躾な要求だったので、栄二は慎重になる。もちまえのクールさで顔にはみじんもでないけれど。


「初対面ですよ、エイジさん」


 謎の物質はぷるんとゆれる。なぜか既視感のあるゆれかたで、それにはどこか好印象をもったが、「岩井」という表札しかないところ名まえを知られている時点で先手をとられている。

 しかたないので後手にまわることにした。


「とりあえず、きみの名は?」


 謎の物質はふよふよと(まるで楽しそうに)ゆれながら答える。


「名まえはまだありませんでしたが、エイジさんたちの流儀にあやかって、ミモイ……あ、いや、ミモでけっこうです。そのようにお呼びください」


「へぇ……」


 なんのことかはわからないが、クイズとかで困惑させないだけ比較的親切だ。


「まァ、いいや。とりあえず寒いし、廊下で立ち話もなんだから、どうぞ」


「それでは、お邪魔しますね――」


 すると、ミモとやらは栄二のわきをすりぬけるようにして入室してきた。

 見た目にそぐわない案外するどい動きで、栄二は感心する。


 ドアを閉めてふりむくと、ミモは蛍光灯に照らされ、黄色っぽくなっていたが、どこかしら虹色のような間色だらけの鈍い光沢をはなっていて――栄二の意識はふと、二次元の世界でまっしろなところをじりじりと移動している点を観察していた。


 束の間、栄二はここではないまっしろななにもない空間にいて、遠くから射してきた一線の光に射抜かれたような気がして、目を見開き、前髪が跳ねるようにもちあがる。

 でも、だいたいぜんぶ気のせいだった。


「お夕飯はチャーハンでしたか。しかもまだ未完成? ほんとうにお邪魔してしまいましたね。このうえない失態です」


 ミモはふるえる。もうしわけなさそうに。


「いや、かまわないけど」


 栄二は腰に手をそえる。

 そう、問題は山積みであり、チャーハンがぺとつくとかそういうレベルではたぶんない。現実的に問題なのはチャーハンのぺとつきぐらいかもしれないけれど。


「ああ、未完成でも冷めないうちに召し上がってください、ぜひ」


「オレだけで?」


「はい、わたしは食べても食べなくてもかまわない存在ですので」


 存在ですので……なかなか聞かないセリフまわしである。


 栄二は眉をひそめたが、チャーハンをこれ以上台無しにするわけにはいかないので、「それじゃ遠慮なく」とフライパンから皿に盛ると、冷蔵庫からペットボトルの緑茶をコップにそそぎ、スプーンを口にくわえてから両手でそれらをもち、居間の円卓についた。


「ふふ、しぐさがワイルドですね」とミモがゆれた。「エイジさんはおモテになるでしょう?」


 おモテ……。


「まァね」


 栄二はコップの緑茶を口にふくむ。思いのほか、口内が渇いていた。


「ガールフレンドの一人や二人はちょちょいのちょいですか、ふふ」


 ミモはふにふにゆれる。気さくな社長のような笑いかただった。

 円卓の栄二の対面に移動して、ちょい、とか、ちょちょいってなんでしょうね、と勝手に噴きだしたミモにときどき目線を送りながら、栄二はチャーハンを口に運んだ。


「――エイジさんは、一人暮らしなのに、あまり横着なさらず律儀なんですね」


 ミモが話しかけてきた。

 全体の色合いがクリーム色とうす紫っぽいところがまざった感じに変化している(ようにみえた)。


「……そう?」


「ええ、料理もされるし、食器も使われるし――洗濯もこまめになさっている」


 栄二は2Kの部屋に住んでいるが、室内に干してあるシャツやタオルのことを指摘したらしい。

 目も鼻もないわりには、抜け目なく観察している。


「まァね。洗いものはきらいじゃない」


「奥の寝室もきっちり片づいてはいないけれど、乱雑というほどではないですね」


 栄二は口をとめる。

 いつみてきたのか――疑問がキュゥッと湧いたが、すぐにどうでもよくなった。

 そもそもミモとやらは人間らしくないから、どんな性質があってもふしぎはないだろう。栄二のチャーハンのスプーンに寝室が映っていたなんていうトリックもあるかもしれないし。


「きっと、育ちがいいんでしょうね。食事中にスマホもみない」


 ミモがお世辞のようなことをいってきた。でも、褒めたいのだから否定するのもへんだろう。


「まァ、両親よりも祖父母の影響かな。スマホはもともとあまりみないし」


「よくあることですね。そこにあるヨガマットも使われるんですか?」


 ミモは円卓の横に敷かれたマットを指し示すようにゆれた。指はないけれど。


「ああ、そうね、ヨガじゃなくて坐禅をするんだけど、そういえば爺ちゃんの真似だね」


「へぇ……お爺さんお婆さんはお元気ですか?」


「うん、もう亡くなったよ」


「すみません、不躾に」


「よくあることだよ。オレが高校生の頃の話だから、もう10年近くまえの話。気にしないで」


 ミモは「レガシィ」と低い声を発してふるえた。

 

 だいたいにおいてミモが視界に入っていたせいで、チャーハンのぺとつきに苦慮することなく完食した。

 ずいぶん静かな夜で、自動車の走行音も犬の遠吠えもしなければ、アパートのべつの部屋からも物音ひとつしなかった。


「――で、ミモはそもそもなんなの? どうしてオレのところにきたわけ?」

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