昨日の宿敵は今日も宿敵のまま
その日は朝からぽかぽか陽気であった。
雲一つない澄み渡った青空。ほんのりと冷たい風が爽やかに吹き抜ければ、何処からともなく花びらがやって来るような、絶好のお散歩日和。
「うふふ……今日はフィルゼと一緒に、お外でお昼ごはんを食べましょうか」
バルコニーで温かな日差しを浴びながら、アイシェはのほほんとした笑顔で伸びをした。午前中は決裁業務でひたすら書類と睨み合っていたが、次の公務までは少し時間が空いているはずだ。
フィルゼは必ず誘うとして、侍女たちの助言役として宮殿に滞在中のセダと、愛する妻との時間を設けるために新兵の指導を倍速でこなしているティムール、それから書庫に籠りがちなカドリも引きずって昼食にしよう。きっと賑やかな時間になることだろう──もう既に嬉しくなってきたアイシェはその場で小さく足踏みをした。
「シュリ〜っ!」
そうして彼女がふわふわとした声で宙に呼び掛けると、晴天をゆるゆかに滑空していた影が颯爽と欄干に降り立つ。
鋭い爪を備えた黄色い趾、同じく黄色い瞳に真っ黒な瞳孔を持つ一羽の鷹は、アイシェが宮殿で過ごすようになってから出来た友人だった。
彼──シュリは随分前からこのバルコニーで羽休めをすることが多かったようで、アイシェに呼ばれずとも素知らぬ顔で欄干に止まっている姿が頻繁に目撃できる。
そのため自然と顔を合わせる機会が他よりも多く、話し相手だけでなくちょっとしたお使いにも快く応じてくれる彼に、思い切って呼び名を決めたのがひと月ほど前のことだ。
「シュリ、こんにちはっ。今日は良いお天気ですね」
悩みに悩んで決めたシュリという名前は、狼月の古い言葉で「晴れ」を意味する単語に由来する。
晴天に翼を広げ、悠然と舞う姿がとても素敵だったからと命名の理由を告げた翌日、バルコニーに返礼の木の実が散乱していたのは言うまでもない。
凛々しい見た目に反して人懐こいシュリの頭を優しく撫でつけながら、アイシェはおもむろに傍らの観葉植物に手を伸ばした。
「えっと、集合の合図は……丸い葉っぱをそのままフィルゼに渡せば良いんだっけ……?」
有事に備え、近しい者たちにだけ伝わる合図──すなわちアイシェが密かに憧れて止まなかった毛玉式暗号文の練習がてら、適当な葉を見繕う。
フィルゼ曰く、これに複数の伝達事項を加える場合は、葉の先端を折ったり特定の切り込みを入れたりすることで、伝達してくれる動物に要らぬ負担を与えずに済むとのこと。
観葉植物ならば宮殿の何処に置いても怪しまれないし、合図に使った葉は処分も容易い。残る問題は、アイシェが全ての暗号を覚えきれるかという一点のみだ。
「──よし! シュリ、こちらの葉っぱをフィルゼに渡してきてくれますか? ……ありがとうございますっ、いつも通り終わったら自由にしてくださいね」
結局あまり自信がなかったので、アイシェは葉の裏側に「おひるごはん」と書いて渡した。シュリがやれやれと首を振ったのは錯覚だと思いたい。
ぱくりと葉を咥えて飛び立った友人を見送り、ついでに観葉植物にもきちんと水やりをした彼女は、意気揚々と踵を返そうとしたが。
「……?」
バルコニーの下方、中庭を囲う柱廊に目が留まる。
文官や騎士など多くの人々が行き交う中、とぼとぼと力なく歩く一人の兵士。
何だかとても悲しそうな、疲れ切った様子で歩く彼は、不思議とアイシェの意識を強く引きつけた。
「何でしょう……あの方を放っておいてはいけないと、わたくしのお悩み相談受付人としての勘が告げています……!」
新米皇帝から一転、自称お悩み相談受付人となったアイシェはそわそわと辺りを見渡し、欄干に隠れるように身を屈める。そうして瞬く間に毛玉の姿へ変身すると、すぐさま彼女の傍らに半透明の狼が現れた。
「狼さんっ、わたくしを下まで連れて行ってくれますか……! ──わあ〜っ」
いいよ、と軽く頷いた狼に咥えられ、毛玉はバルコニーを飛び出したのだった。
◇
『なぁ、チェンク。そんなに思い悩むなら、実家に帰ってきていいんだぞ。しばらく一緒に畑仕事でもしてりゃ、少しは気分も落ち着くさ』
『そうだよ。騎士団での給金をこっちに送ってくれるのは助かるけど……肝心のあんたが元気じゃなきゃ意味ないよ』
『チェンク兄ちゃん、帰ってくるの? やった〜』
故郷で暮らす家族の温かな声が青空へ溶け、意図せず溜息がこぼれ落ちる。
狼月軍に所属する青年チェンクは、この半年間ひたすら兵士の務めを全うしてきた。故ルスラン帝から〈大鷲〉の称号を与えられた豪傑ティムール・トクの指導の下、毎日へとへとになるまで訓練を行い、治安維持のために城下の巡回を担うだけでなく、ミスが許されない軍備の点検業務などにも積極的に関わった。
デルヴィシュ帝の時代とは異なり、平民出身という理由で不当に虐げられることは一切なく、寧ろその働きぶりを見た上官が昇給を打診してくれたり、同僚ともそれなりに良好な関係を築くことが出来ていたりと、傍目から見ればチェンクは順風満帆の暮らしを送っている。
だが──チェンクは家族にも相談した通り、深刻な悩みを抱えていた。
それは。
『わたくしは風吹き砦の妖精さんです!』
彼にとんでもないトラウマを植え付けた自称妖精さんの声が、あろうことか狼月のうら若き皇帝と全く同じに聞こえるという、本当に勘弁してほしい厄介な症状が治らないことだった。
「うう、クソ、何で俺だけ呪いが解けないんだ……!」
人気のない東屋にやって来たチェンクは、長椅子に腰掛けるや否や頭を抱えた。
半年前まで〈豺狼〉ケレム・バヤットの部隊に所属していた怠惰な兵士たちは、風吹き砦の妖精さんの怒りを買ったことで哀れにも精神を病んでしまったが、真摯な心で奉仕活動に勤しむことで次第に回復していった。
もう何処からも妖精さんの啜り泣きは聞こえないし、兵士の仕事は真面目に取り組めば存外楽しいし、結果的に妖精さんのおかげで改心できたと彼らは明るい笑顔で語っていたが──。
『え……女の子の声?』
『あー、啜り泣きの前に聞こえた……どんな声だったっけな。ちょっと思い出せねーけど』
何と、あの恐ろしい怪物の声をはっきり覚えていたのは、チェンクだけだったのである。
それもそうだ。風吹き砦の飼育部屋で真正面からアレに挑み、直接言葉を交わしたのは彼だけなのだから。訳が分からないまま一方的に怪物の語りを聞かされた同僚たちとは、少々状況が違う。
いやしかしそんなことってあるのかとチェンクが絶望したのも束の間、公の場に初めて現れた新しい皇帝は彼を大いに震撼させた。
『皆さん初めまして。わたくしはアイシェ・ユルディズ・タネル。我が父ルスランの遺志を継ぐべく、宮殿に参りました』
淡いピンク色の艷やかな髪、帝室の姫らしい瑞々しい肌、あどけなさの残る落ち着いた笑み……何処をとっても可憐な乙女だった。
──その声を除いて。
皆が歓声を上げる中、チェンクは一人真っ青な顔で狼狽え、自分の聴覚がおかしくなったのかと無意味にも耳を塞いでみたが、結果は変わらず。
「やっぱり、田舎に帰るか……俺は元々、兵士になる人間じゃあなかったんだ……」
顔を覆い、深い溜息を一つ。
いつも親身になってくれる上官には引き留められるかもしれないが、慢性的な睡眠不足で皆に迷惑をかけるわけにも行くまい。そろそろ腹を括るべきだろう。
半年前に用意した辞表を再び取り出すときが来たようだと、チェンクが長椅子から立ち上がろうとした瞬間だった。
「あの、とても思い詰めたお顔をしていらっしゃいますが、何か悩みごとですか……っ?」
「え?」
すぐ隣に、足の生えたピンク色の丸い物体がいた。
◇
「ど、どどどどうしましょう!! 気絶してしまいました!! えーん、そんなに体調が悪かったなんて……!」
白目を剥いて倒れたチェンクの傍ら、毛玉がえんえんと泣き咽ぶ。彼女の周りに集った小鳥たちが「いやそうじゃなくて」と言いたげな空気を醸し出しているが、慌てふためいている当人が気付くわけもなく。
毛玉はぴくりともしない青年の側をぽすぽすと一頻り跳ね回った後、逡巡の末に小鳥たちを振り返った。
「み、皆さんっ、こちらにカドリを呼んでくれますか!? もしかしたら熱射病かもしれません……!」
恐らく違うだろうが、毛玉のお願いを聞かない選択肢は端から無いのか、小鳥たちは快く案内役を引き受けてくれた。
彼らがさっそく飛び立つ姿を後目に、毛玉はあわあわとチェンクの顔色を確認する。やはり少し青褪めているようだ。唇も紫色だし、早めに医務室に運んでやらなければ──。
「あれ? この方、どこかでお会いしたような……」
「うう、やめてくれ……もう俺を許してくれ……」
「あっ! 起きましたかっ?」
ぶつぶつと譫言を漏らしたチェンクはしかし、目の前から毛玉の声が聞こえたことでピシリと息を止めたようだった。彼は頑なに瞼を閉じたままガタガタと震え始める。
「ヒッ……な、何でお前が──い、いや、あなた様がここにいらっしゃるのでしょうか……あなた様は風吹き砦の妖精さんのはずでは……」
「……。……? ……はッ……!!」
そこで毛玉はようやく、目の前で気絶したフリを続けている青年が、風吹き砦で対峙したネズミ嫌いの兵士であることを思い出した。
加えて彼が未だに風吹き砦の妖精さんにビビり倒していることも何となく感じ取り、毛玉はひとまずその場でわたわたと足踏みを繰り返す。
ただ思考を整理するための小さな足踏みが、チェンクからは東方に棲息するオコジョが獲物を狙うときに行う怪しげな儀式のように思われていることなど露知らず。
毛玉は暫く考え込んだ後、「よし」と小声で気合を入れつつ彼に向き直った。
「こほん……──フッフッフ、風吹き砦の妖精さんからお話は聞いています。あなたはあの砦で、動物たちを辛い目に合わせていた者たちの一人ですね」
そして精一杯の低い声を出し、デンと仁王立ちをしてみせる。
急に雰囲気が変わったことに気付いたのか、チェンクが片目をうっすらと開く。威厳も何もない丸々とした立ち姿にもかかわらず、彼は「ひぇっ」と情けない悲鳴を漏らした。
「待ってくれ、まさか前に会った妖精さんとは別人……!?」
「そう。わたくしは、えっと、皇都本部の妖精さんで、風吹き砦の妖精さんは支部長なのです!」
「よ、妖精さんの組織があるのか!?」
風吹き砦にさえ行かなければ妖精さんに会うこともないと信じていたチェンクにとって、この事実は絶望以外の何物でもないだろう。
過去の罪が組織全体に共有されてしまっては、もはや助かる術は無いのではないか──そんな諦念がありありと浮かんでいた。
「ああ、おしまいだ! ついに俺を殺しに来たのか!」
「こ、殺す!? そんなことはしません! あわわ、泣かないで……」
倒れたまま号泣するチェンクを、毛玉も悲しい気持ちで慰める。よもや自分の行いがここまで彼を追い詰めていたとは──しょんぼりと反省しながら、毛玉はチェンクの鼻先をよしよしと足裏で撫でた。
「安心してください。その格好を見るに、あなたは狼月軍に残っているのですよね? 今のところ、軍内部で問題が発生したという報告は届いておりません。きっとあなたも、今は真面目に兵士として勤めているのではありませんか?」
「は、はい……何とか、俺なりに頑張っています……」
ここで己の潔白を強く主張してこない辺り、やはり彼は気弱な男なのだろう。しくしくと泣き咽ぶチェンクに毛玉が小さく微笑んだなら、彼女のそばに一匹の子猫が擦り寄ってきた。
おや、いつの間に来たのだろうと毛玉が体を傾げると、子猫は「みゃあ」と高い声で鳴いた。
「猫ちゃん、どうしました? ……まぁ! 怪我をしたときに保護してもらったのですか? この方に? あらあら、お名前まで! ニライちゃんと言うのですね、うふふ」
「えっ、ニライ!?」
チェンクが勢いよく起き上がり、毛玉に擦り寄るぱやぱやの子猫を凝視する。
面倒を見ていた子猫がすっかり気を許している姿を見てか、ようやく彼も少し落ち着いたようだった。
「……よ、妖精さん、あなた様はやっぱり動物の声が分かるんですか……?」
「はい! ニライちゃん、あなたのことがとっても大好きなようです! 『毎日ごはんをくれてありがとう』ですって!」
「ニ、ニライ……っ!!!!」
今度は感動の涙を溢れさせたチェンクが、子猫のニライをがばりと抱き上げる。
「お、俺、もっと頑張って良い家に住むからな! そしたらお前をちゃんと連れて帰って! 一緒に暮らそうな!! 約束だ!!」
「みゃぁ」
「妖精さんも、あのときは本当にすみませんでした! 俺、あなた様とニライに恥じないように生きていきます!!」
「はい! その意気です!」
おいおいと泣き咽ぶ彼を見上げ、何とか事態の収束に成功した毛玉はホッと息をつき──例のごとく、釣られて「えーん」と泣いたのだった。
その忙しない一部始終を、大量の鳥に呼び付けられたカドリと、偶然通りがかったフィルゼが何とも言えない顔で眺めていたことは、もはや言うまでもなく。
そして後日、風吹き砦の妖精さんと和解したことで前向きになったチェンクは、改めて若き皇帝の声を聞いて──「やっぱり同じ声じゃねえか」と混乱のあまり数日寝込んだのだった。




