小話⑥(最終話)
入隊したばかりの新兵達は各地にある拠点を一定の期間ごとに移動しながら、必要な訓練や地理の把握に励んでいた。国の南にあるこの一帯では、春からは海の向こうの隣国から、秋以降は王都周辺から避寒してくる観光客が集まって来る。元々、有数の保養地としても知られているので、王都から遠い割には常に賑わっている場所である。
住んでいる人間は総じてのんきな気風なのか、頑張れよ、などと訓練場の囲いまで見学にやって来る有様だ。見世物じゃないんだぞ、と言ってやりたい気持ちでいっぱいである。しかし生憎、ここには有名な鬼教官が幹部として在籍していた。その全く容赦のないしごきにより、這う這うの体で宿舎に戻るのが精一杯なので、文句を言う体力は残っていなかった。
ここは治安も安定しており、もちろん新兵なので銃火器の類は触らせてはもらえない。ひたすら体力強化と基礎訓練の繰り返しである。
ただし他より良い事もあって、宿舎周りの設備が他よりずっと新しく綺麗に整っている。その上ご飯も美味しい。保養地を管理する寛大な領主様が、建て直しの際に随分と予算を割いて下さったのだと言う。
また見学に来る住民達だが、非番で街へ行った時にはやあやあ、と先輩や上官とは違った気安い距離感で声を掛けて来る。食事処へ行けば軍所属というだけで値引きしてくれる店も多い。育った町を離れて仕事に励む新兵達にとって、ちょっとした清涼剤としても機能していた。
さて、本日は領主様の身内が訓練の見学に来る旨のお達しがあった。領主様には評判になるほどの美しい奥方と三人の娘がいるそうで、新兵達はおお、と期待に胸を膨らませた。しかし残念ながら、見学者は跡継ぎでもある入り婿だそうである。なんとその人物はかつて、軍に所属していた経歴の持ち主でもあるらしい。
その経緯であれば、貴族階級出身である事は想像に難くない。自分達のような平民階級とは既に扱いが違うので、きっと鬼教官にしごかれる自分達をふんぞり返って眺めるつもりなのだろう。
やるせない気持ちで他の基地より明らかに美味しい朝食をぺろりと平らげた新兵達は、ぞろぞろと訓練場に足を向けた。先輩や教官に見られても叱責されない程度の重たい足取りである。
「この辺、結構栄えているよな。田舎の割に」
「領主様がやり手なんだよ。保養地に来る金持ちからごっそり搾り取っているわけだ。感心、感心。徹底的にやってくれ」
「いいよな、俺の故郷のドラ息子の話聞きたいか? 思い出すだけで泣けて来るぜ……」
訓練場に辿り着くと、いつもは定刻少し前にやって来るはずの鬼教官が既に配置についている。新兵達はぎょっとして顔を見合わせ、慌てて駆け足を始めた。視察があるためか、いつもより出て来ている教官の数も多い中、見慣れない見事な赤毛の青年が一人混じっていた。鬼教官と何か話し込みながら、訓練用の武器をどこか懐かしそうに手にとって、感触を確かめているかのようだった。
「……ルイーズの顔は、何か私に不満がある時の表情にそっくりだな」
「あなた、実の娘なんですから、私に似るのは当然ではありませんか」
両親はルイーズの向かいの席で、あちらこちらから届く封書にのんびり目を通していた。それがいつの間にか、こちらに揃って目線を向けている。
「だってヒューイ様、一人で軍の視察に行ってしまうなんて」
昨日の夜、彼は急に翌日の予定の変更を申告してきた。父が許してくれたので、保養地近くにある軍の基地に顔を出すのだと教えてくれた。
今日は朝から夏らしい天気の良い日である。仕事であるのは重々承知、でもここ数日はずっとそればかりだったので、ルイーズは全く面白くなかった。
きっと疲れも溜まっているだろうからいよいよ、ずっと温めていたお出かけを提案してみようか、と思っていた矢先でもあったので、尚更である。
二人きりで思う存分ゆっくりしたいという口実の下心もあって、それを見透かされたような気分でもあった。
「ヒューイ君は昔の知り合いに会いに行ったのだ。学生の頃に教官だった人らしい」
「じゃあ何にも心配いりませんね」
「……昔の知り合い?」
昨日はそんな事を言ってはいなかった。父が知っているのならルイーズにも教えてくれて良かったはずなので増々面白くなかった。
「……お父様、もしよろしければこれからちょっと出かけませんか? 以前にヒューイ様が王都で、軍の学校の同期に嫌味を言われたって気にしていたので、心配なんです」
ヒューイが貴族階級の出身ではないのだが、父が見込んで子爵家に婿入りする事になった。それが気に入らない、と王都での滞在はわずかな期間だったにも拘らず、どこから聞きつけたのか、既に苦言を呈されていた。
そういう話は父かルイーズにするべきなのに、わざわざヒューイに向かって言う辺りが汚い、とまだ憤ったまま現在に至る。
「……ヒューイ君は我々より遥かに喧嘩慣れしている気がするがね。余計なお世話にならないといいが」
「ルイーズが駆けつけてあげたいんだから、一緒に行って下さいな。あなたが『新しい宿舎はどうだ、何か不満はないかね』と顔を出すだけでも効果があるでしょう」
「慣れているからと言って、私達が気を回さなくていいという話ではないと思います、お父様」
父は自分以外の家族にしばらく視線を向けた後、手元の封書を片づけ始めた。そばにいた使用人に目配せをしながら出掛ける支度を、と言付けてくれた。
「何だか荷物が多くはありませんか、お父様」
「……戦いに赴くのだろう? 準備しておくに越した事はないさ。三日三晩続くかもしれない」
急遽出かける支度を進めたルイーズに、父は素知らぬ顔で言った。せっかくなので以前にヒューイにもらった、碧い石のイヤリングをつけ、日傘を手に玄関までやって来た。
何故か使用人達はヒューイの分も着替えを引っ張り出し、トランクに詰めて馬車に運び込んでいる。それを不思議に思って眺めていると、不意に父が名前を呼んだ。
「ルイーズも結婚してから、しっかりしてきたな。これから先、彼は確かにまだまだ学ぶ時間を必要としているかもしれないが」
ヒューイは父の事を学生時代の数学教師のようだとよく口にする。けれど自分にとっては、いつも通りの穏やかで優しい父であった。
「この男だ、という相手を選んだ甲斐があった。どうかこれからも仲良くな」
父はルイーズに封筒を差し出した。中で開けなさい、と先に馬車に乗り込みながら娘を急かした。
訓練に励んでいる若者の応援をするのは、周辺住民の初夏の風物詩であるらしい。街の郊外にある軍の敷地近くは見学者でそれなりに賑わっていた。
馬車を近くに停めて人だかりに近付くと、顔の広い父が誰にも気がつかれないくらい、どの人も視線が一か所に集中している。
ほら領主様の、と誰かの声が聞こえた。父が適当な人に話し掛けると、相手は興奮したように、ずっとあんな感じで手合わせしているのだと説明してくれた。それからようやく父の正体に気がついたようで、慌てて頭を下げた。
訓練場の中央で赤毛の青年と、教官らしき堂々とした体格の軍人による模擬試合が、周囲に集まっている人間の視線どころか訓練中の新兵達まで釘づけにしていた。
ルイーズが目で追うのもやっとの激しい応酬である。しかし何か示し合わせているかのように決着はつかず、鍔迫り合いの後に距離を取って、再度激しく打ち合う動きを繰り返している。
ルイーズも決して、彼のかつての肩書や職務を軽く見ていたわけではない。けれど初めて目の当たりにするヒューイの不敵な、荒々しさを含んだ眼差しや動作は、自分にいつも向けられる物とは異なっていた。
「かっこいい……」
ここに来る当初の目的をすっかり見失ったルイーズは思わずそう呟いた。結局訓練が終わるまで、他の人達と一緒になって手合わせに見入ってしまった。
領主の身内兼、基地の上官の知り合いという特殊な枠で訪問したヒューイは、訓練後に新兵らしい初々しさに満ちた一団から、謎の称賛の眼差しを浴びた。水使って下さい、というありがたい申し出を素直に受けて身支度を整える。
「お疲れ様でした! すごいですね」
「……ど、どうも」
一応真面目に視察するつもりで基地を訪れたのに、学生時代のかつての教官から、訓練に参加させられる流れになっていた。新兵そっちのけで本気になってしまい、罰の悪い思いである。
子爵に何故か着替えを持って行け、と荷物を押し付けられたのだが、そうでなければ汗と砂ぼこりだらけで屋敷に帰らなければならなかった。
身体が鈍って仕方がないだろうからまた近いうちに、と懐かしい顔の鬼教官のこれまたありがたい配慮に丁寧なお礼を重ねて、ヒューイは帰り支度を始めた。鞄を開けると碧い小鳥が全部で三羽、ヒューイの荷物からぬっと顔を覗かせた。もう慣れた、とは言えどう見ても生きている鳥なので、ぎょっとするのは否めない。もし誰かが勝手に荷物に手を伸ばした場合、と過去の嫌な記憶から、ようやく彼らの意図が思い当った。
「ああ、荷物番のつもりなのか」
やっと理解したか、と言わんばかりに小鳥達は得意気な表情で、三羽横並びになった後に、それぞれ元の小さな形にころりと戻った。それを専用の小箱にしまって基地を後にする。
街で何かお土産でも買っていくべきかと思案しながら歩いていると、見知った顔が二つ並んでいる。ヒューイは顔をひきつらせた。
「……観に来ていたんですか」
「視察だ」
「し、視察です」
子爵と一緒に来たらしいルイーズは日傘と、帽子を目深に被っていて表情は窺えない。自分が彼女に贈った、碧い石のイヤリングが揺れているのが見えた。
まさか年甲斐もなくはしゃいで剣を振り回している様子を家族にじっくり見られているとは思わなかった。沈黙しているヒューイと、黙ったままのルイーズをよそに、子爵が口を開いた。
「それでヒューイ君、街へ出て来たついでに別件の用事も済ませて来てくれないか。私はあちこち散策して、お土産を買ってから屋敷に帰る。ルイーズに詳しい説明をしておいたから」
行くぞ、と子爵は近くに停めていたらしい馬車に向かって踵を返した。それを追いながら、お疲れ様でしたとルイーズが口を開いた。
「街にもうすぐ新しくできた宿があるそうで。是非一度意見を聞かせて欲しい旨の話が来ているそうです。その招待状がこれです」
「……ああ、それで着替えを持って行けとおっしゃったんですね」
そうです、とまだルイーズの表情は窺えない。そんなに呆れているのだろうかと、ヒューイはそうっと身を屈めると、ようやく彼女の碧い瞳と目が合ったが、彼女は何故かまた帽子で隠してしまった。
「……あの、なんだか顔赤くないですか? 暑いならどこかに移動しませんか。何か冷たい飲み物を買えるお店とか」
「暑いわけではなくて、あの……ちょっと見惚れてしまって」
「え?」
もういいです、とルイーズは先にずんずん先へ行こうとするので、ヒューイは慌てて隣に並んだ。
「大体、ヒューイ様はどうして知り合いがいる話を教えてくれなかったんですか? 以前に軍の同期だっだと言う方に嫌味を言われたとおっしゃっていたので、同じ事が起きているのではないかとすごく心配したんです。とっても、大変に」
それについては全く弁解の余地がないヒューイは言葉足らずだった事を、誠心誠意謝罪した。学生時代には本当に怖かったので、こんな風に呼ばれて気を遣ってもらえるとは思っていなかったのだと言い訳めいた説明をした。それは一応通じたようで、ルイーズはようやく足を止めて、こちらを見上げた。
「私も勝手な事をしてすみませんでした。次はなるべく気になる事はその時に伝えるようにしますね。それで新兵の指導監督という方、お知り合いなのですね」
「ええ、家柄が良くても成績が良くても全く忖度してくれなくて好きな教官でした。あの声を聞くと、条件反射で身体が動くんですよ。もう刷り込まれているんです」
そうなんですか、とルイーズが少し笑う気配がしたのでほっと息をつく。それにしても、次期領主という立場のおかげはあるとしても、あのとにかく厳しくて恐れられていた相手がこんな風に接してくれるとは思わなかった。
馬車に乗って宿に辿り着くと、そこで義父とは別行動になった。たまには夫婦でゆっくりするのも必要だ、と手を振りながら従者を一人連れて、市場の方へ向かって行った。
ルイーズによると子爵は色々と思うところがあったらしく、二人に気を遣ってくれたのであるらしい。
ヒューイはルイーズと一緒に目当ての建物の、まだ新しい綺麗な外観に感心しながら身分を明かした。一番良い部屋を用意していますのでどうかよろしくお願いします、と歓待されながら想定している客層や価格帯の話を真剣に聞き、食事はいつ持って来るかなどの打ち合わせを終えて、その良いお部屋へと通される。
「……流石にあれだけ運動したらヒューイ様も疲れたでしょう?」
「いえ、そういうわけではないんですが」
二人はやれやれとお上品な部屋の、居心地の良いソファに並んで座った。ルイーズにまた余計な心配をさせるのも申し訳ないので、ヒューイは何とかこの複雑な心境を説明しようと言葉を探した。
「ルイーズは今まで猫と遊んだ事は……。そういえば子供の頃、子猫をこっそり面倒見ていたらしいですね。動く物に片端から手を出すあの感じ、わかりますか」
「ええ、可愛いですよね」
ルイーズは懐かしい記憶が甦ったらしく、にこにこしている。その様子を眺めながら、ヒューイも今までの時間を思い返した。
今までずっと一人で生きて来たつもりだった。誰も頼れなくて、物心ついた時から周囲を睨みつけるようにして、折れたら負けだと自分に言い聞かせ続けた。相手が攻撃して来た瞬間には反撃しているくらいで何とか、ここまでやって来たのである。
それが、ここへ来てから状況は一変してしまった。何かを守るために戦う事も必要だけれど、繋がりを頼りつつ自分もその一部として支え合うのが新しいやり方である。ヒューイが知らない事はルイーズがよく知っていてくれるので、これからもきっとたくさん頼る事になるだろう。
被っている猫、と彼女に冗談交じりに口にした事があった。それはずっとヒューイ自身を守ってくれた盾であり、武器でもある。
「……私がずっと被っていた猫さんは、優しくしてくれる人には、どう対処したらいいかわからないんですよ、本当に」
ヒューイの声は、心の底から本当に困っているらしい。先日猫を被っている、とヒューイは冗談混じりに言っていた事を思い出した。
王都で顔を合わせた、あの汚いやり方の王太子や、義兄達ですら引き剥がそうとしてできなかった、彼をずっと守って来た猫の話であるらしい。
「私は子猫のお世話をした事がありますから、大丈夫ですよ」
母は、最初が肝心だと言っていた。それが具体的にいつなのかと言えば、ここへ来る前、王都で顔を合わせた直後だとルイーズなら解釈するだろう。だからつい先ほどまで武器を手にしていた手を取って、自分が耳につけているイヤリングを触らせた。
顔も合わせず婚約して、どう接触して良いのかすらわからずに、時間だけが過ぎてしまった事。勇気を出して初めて手紙を贈りあって、人混みの中から見つけ出してくれた事。ずっと会いたくて、それがようやく叶った時の気持ちは、何にも代えがたい宝物のように今でも時々思い出す。そうしてルイーズ自身も、幸せに浸るのであった。
「この時の気持ちは、もう忘れてしまいましたか?」
大好きなヒューイには守られるだけではなく守りたいと思っている。いつも笑っていて欲しいし、何より楽しく幸せに暮らすべき人なのだ。
それがきっと二人に共通している事を、ヒューイもよくわかっているはずである。なぜならその後彼が何をしたか、忘れるわけがないのだから。
だからきっとこの先に何が待っていても、二人で必ず乗り越えられると、ルイーズは信じている。
「ずっと二人で出かける機会を狙っていたんです。明日お屋敷に帰るまで、ずっと一緒ですから。誰にも邪魔なんてさせませんからね」
私の猫は狡猾なのだとルイーズは説明した。するとヒューイはあの時のように、ルイーズの耳元でイヤリングを軽くつつきながら、やがて口を開いた。
「……明日まで大好きなあなたを独り占めしていいなんて、ここに来てから、どんどん贅沢になっている気がひしひしとするんですよ。それによくわかっていると思いますけど、あなたの結婚した相手は欲張りですからね。味を占めてどんどん欲しがるようになるでしょうから、ルイーズが何とかして下さいよ」
あなたのおかげで、とヒューイは喋っているうちに調子が戻って来たのか、悪戯を思いついたかのような表情を浮かべる。ルイーズが一番最初に見た笑い方も、今と同じだった。
当時は何が起きたのかさっぱりだったが、もう結婚して時間が経っている夫婦なのである。今のルイーズは彼にこちらを向いて、と優しい声で注意されるまで、彼の腕の中を楽しんでいる余裕さえあった。




