第1話 委員長、恩返しされる
巨大な黒い拳が、私に向かって落ちてくる。
逃げ場はない。杖を握る手が震えた。
――なんで、こんなことになったんだろう。
話は少し前に遡る。
*
最初に言っておくと、私はおひとよしではない。
困っている人を見れば声をかけるし、頼まれた仕事はだいたい引き受ける。
けれど、それは単に、放っておくと気になるからだ。
気になるものを片づけているだけ。
だから私は、おひとよしではない。
――そう思っていた。
*
「委員長、悪い。日直代わってくんない?」
六月の月曜日。
朝のホームルームが始まる十分前だった。
「今日、部活の朝練が長引きそうでさ」
「日直は朝だけじゃないでしょう」
「放課後もミーティングが……」
「黒板消しと日誌は?」
「お願いします」
「プリント配布は?」
「お願いします」
私はため息をついた。
「今回だけだからね」
「さすが委員長!」
「あと、先週の数学のプリント出してないでしょ」
「なんで知ってんの?」
「名簿に丸がついてなかったから」
「怖っ」
「褒め言葉として受け取っておきます」
逃げるように教室を出ていく背中を見送り、
私は黒板の日直欄に自分の名前を書き足した。
三年二組、学級委員長。
それが私、篠宮紬の肩書きだった。
「委員長、ホチキスある?」
「教卓の二段目」
「委員長、シャーペン貸して」
「昨日貸した一本は?」
「あ」
「返してから言いなさい」
朝からこんな調子だ。
私は便利屋じゃない。
そう思いながら、結局シャーペンをもう一本貸した。
自分でも、ときどき思う。
どうして断れないんだろう、と。
嫌われるのが怖いわけではない。
頼られるのが嬉しいわけでもない。
ただ、私が断ったせいで誰かが困る場面を想像すると、
どうにも落ち着かなくなるのだ。
五分で済むならやればいい。
私が少し我慢すれば丸く収まるなら、それでいい。
昔からそうだった。
その性格が人生を決定的に狂わせたのは、その日の放課後である。
*
「たすけてぇ……」
日直を代わった私は、ゴミ袋を両手に持ったまま足を止めた。
「……え?」
「たすけてぇ……」
校舎裏の植え込みから、子どものような声がする。
ゴミ袋を置いて枝をかき分けると、そこに白い生き物がいた。
ちょっと猫に似ている。
ただし耳が異様に長く、額には青い宝石。
しかも後ろ足が園芸用の網に絡まっている。
「……何これ」
「ひどい! 第一声が何これ!?」
「喋った」
「さっきから喋ってたよ!」
「暴れないで。余計に絡まるから」
私はしゃがみ込んだ。 素手では外せそうにない。
「ちょっと待ってて」
「どこ行くの!?」
「ハサミ借りてくる」
「置いていかないでぇ!」
「三分で戻るから」
結局、十分かかった。
戻るなり白い生き物は、
「遅いぃぃぃ!」
と泣いた。
「ごめん。じっとして」
一本ずつ網を切る。
最後の一本を外すと、白い生き物が私の腕に飛びついた。
「助かったぁ! 恩人!」
「ちょっと、汚れる」
「この恩は絶対返す!」
「別にいい。それより怪我してるじゃない」
後ろ足から血が出ていた。
私は鞄から薄い水色のハンカチを出し、傷口に巻いた。
「これ、高そう。血がついちゃうよ」
「洗えばいいでしょ」
「……君」
「何?」
「すっごく、おひとよしだね!」
結び目を少し強く締めた。
「痛い痛い痛い!」
「誰がおひとよしよ」
「ごめんなさい!」
私は立ち上がった。
「じゃあ私、ゴミ捨てがあるから」
「待って! 僕の名前はミル。
魔法王国フィオレからやってきた妖精なんだ!」
「そう」
「反応薄くない!?」
「喋る時点で普通じゃないのはわかったから」
「君は?」
「篠宮紬」
「紬だね! そして恩返し!」
「いらない」
「遠慮しないで!」
「遠慮じゃなくて本当に――」
ミルの額の宝石が猛烈に輝いた。
嫌な予感がした。
「君に魔法少女の力を授けます!」
「いりません!」
間に合わなかった。
光が胸に飛び込む。 制服が消えた。
「え」
白と紺を基調とした、フリルだらけの衣装。
肩にリボン。胸にもリボン。腰にもリボン。
そしてスカートは短い。
「ちょっと待って」
手には銀色の杖、 頭には小さなティアラ。
「魔法少女プリズム・リリィ!」
「やだ、戻して」
「え?」
「今すぐ戻して」
「でも魔法少女――」
「戻して!」
「はい」
五秒後、私は制服に戻った。
人生で初めて、本気で妖精を睨んだ。
*
「説明して」
「はい」
ミルは校舎裏で正座していた。
一度与えられた力は解除できない。
ただし、魔法少女になったからといって戦う義務はない。
「じゃあ戦わない」
「うん」
「絶対戦わない。私は受験生なの。塾もあるし、来月は期末試験。
これ以上仕事を増やす余裕はありません」
「わかった」
「わかればよろしい」
ゴミ袋を持ち上げたその瞬間、
ドォン!
校舎の向こうから爆発音が響いた。
窓ガラスが震え、グラウンドから黒い煙が上がる。
続いて悲鳴。
「何!?」
「虚ろの獣だ!」
「何それ」
「人間の心から力を奪う怪物!」
「警察」
「普通の人には倒せない!」
「自衛隊」
「物理攻撃はほとんど効かない!」
また悲鳴が上がった。
私は黙った。
逃げ惑う生徒たち。 黒い煙の中心に、巨大な影。
「ねえ、確認するけど」
「うん」
「私なら倒せる?」
「倒せる」
「私以外は?」
「今、この街にはいない」
「……そう」
目を閉じる。
深く息を吸った。
「一回だけだからね」
「え?」
「今回だけ」
胸元のペンダントを握った。
「変身」
*
魔法少女になって最初にわかったことがある。
空を飛ぶのは、思ったより怖い。
「高い高い高い!」
「もっと上!」
「無理!」
「飛べるんだから!」
「飛べることと怖くないことは別!」
私は地上二メートルを飛んだ。 全力疾走より少し速い。
「遅い!」
「初日なの!」
グラウンドに着く。
黒い泥を固めたような怪物がいた。
高さは三メートルぐらい?
周囲には何人もの生徒が倒れている。
「死んでないよね?」
「生命力を吸われただけ!」
「それ、早く言って!」
怪物の腕が振り下ろされる。
「魔法は!?」
「念じて!」
「雑!」
「防いでって思って!」
必死で念じる。
透明な壁が現れた。
激突。
「っ!」
衝撃で吹き飛ばされ、尻もちをつく。
「痛っ!」
「紬!」
「何!?」
「怖かったら逃げても――」
「今それ言う!?」
怖い。足が震える。
私は昨日まで普通の中学生だったのだ。
逃げたい。
そのとき、怪物の足元に倒れている一年生が見えた。
「危ない!」
考えるより先に飛び出した。
一年生を抱えて転がる。
怪物の腕が地面を抉った。
「紬、攻撃して!」
「どうやって!」
「杖!」
「だから使い方を!」
「願うんだ!」
「何を!」
「相手を倒したいって!」
杖を握る。
倒したい。消えてほしい。
この子たちを傷つけないで。
強く思った瞬間、杖の先に光が集まった。
「いけ!」
杖を振り抜く。
光が怪物の胸を貫いた。
黒い身体にひびが入り、ガラスのように砕け散る。
「……倒した?」
「倒した! すごい! 初戦で一発だよ! 才能あるよ!」
「そう」
「きっと歴史に残る魔法少女に――」
「二度とやらないから、私」
「え」
「今回だけって言ったでしょ」
私は変身を解いた。
倒れていた生徒たちが目を覚まし始める。
それだけ確認して、ゴミ袋を回収しに戻った。
塾には四十分遅刻した。
――今回だけ。
本当に、そのつもりだった。
*
三日後の放課後。
「紬! 商店街に虚ろの獣!」
スマホを握ったまま、私は動けなくなった。
――今回だけって、言ったのに。
「怪我人は?」
「今のところいない。でも――」
「場所は?」
ミルの声が、なぜか嬉しそうに聞こえた。
私は、まだ「嫌」と言えていなかった。




