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聖騎士の信仰と偽聖女の祈り  作者: 東西南北


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2 聖女シレネ


「祈りなさい、シレネ」


耳の奥で鳴る優しい声が誰のものだったのか、少女にはもう思い出せない。

気がつけば、少女は泥とゴミのなかにいた。


目の前には、崩れかけた石造りの小屋の壁。手元にはボロボロになった毛布が一枚。それが少女の世界の始まりだった。それ以前の記憶を辿ろうとしても、そこには霧が立ち込めたような空白があるだけだ。


かつて少女を抱いた腕の温もりも、名前を呼んだ声も、泥とゴミの匂いと過酷な毎日にかき消されてしまった。少女は最初から、この掃き溜め(スラム)の一部として産み落とされたのだと、そう信じるしかなかった。


少女には、 両親の記憶がない。


彼女の人生は、ただ生き延びるためだけのものだった。食べ物を探してゴミを漁り、時には大人たちの目を盗んで、硬いパン切れを盗んだ。


掃き溜め(スラム)の子どもたちの間には、暗黙の掟があった。生きるために、強く、狡猾でなければならない。少女はその掟を肌で感じながら育った。


小さな体の少女は、大きな子どもたちにいじめられ、殴られ、蹴られた。食べ物にありつくのも一苦労だった。誰かに盗まれないよう、見つからないよう、常に警戒しながら生きていた。


そんなある日、少女の運命を変える出来事が起こる。


いつものように市場でスリを働いていたとき、少女は一人の男に捕まった。男は、彼女の細くしなやかな指先と器用さを見て、驚きを隠せないようだった。普通の男なら、怒鳴りつけ、殴りつけるところだ。しかし、男は静かに、そして奇妙な笑みを浮かべていた。


「面白い。その手先の器用さ、ただのスリで終わらせるのは惜しい」


男は少女を「孤児院」と名乗る場所へ連れて行った。男が名を尋ねると、少女はシレネと名乗った。「そりゃあ、良い名だ」と男は薄く笑った。


そこは、表向きは貧しい子どもたちを保護する施設だったが、その実態は犯罪者の隠れ蓑であり、子どもたちを犯罪者に育て上げるための組織だった。


孤児院に入ってからも、シレネの苦難は続いた。子どもたちの間で序列があり、いじめや暴力は日常茶飯事。大人もそれを傍観するだけ。飢えて死ぬ心配だけはなくなったが、常に、誰かの顔色をうかがいながら生きるのは変わらなかった。


ある日「孤児院」の司祭が、詐欺師の講義を開いた。その講義の中で、シレネが他の子どもたちとは一線を画す才能を見せたのだ。彼女は、教えられたテクニックをすぐに習得し、応用した。嘘をつくこと、他人を欺くこと。それは、スラムで生き抜くために身につけた、彼女の天性の才能だった。


司祭は、シレネの才覚に目を見張った。彼は、シレネを特別な生徒として、詐欺の専門的なテクニックを教え込んだ。人々の心を操る方法、感情に訴えかける方法、そして、誰にも気づかれないように、巧妙に嘘をつく方法。


シレネは、それらをすべて吸収した。彼女の心には、もうかつての弱さや、怯えはなかった。代わりに、冷たい計算と、人々を欺く喜びが芽生えていた。


そして司祭に命じられ、旅に出た。彼女に、もはやスラムのゴミ溜めを漁っていた頃の面影はなかった。白い法衣をまとい慈愛に満ちた笑みを浮かべる彼女は、完璧な「聖女」だった。


彼女の隣には、助祭の身なりに扮した男が付き添っていた。男の名はドミニク。彼は彼女の監視役であり、指導者であり、そして最大の共犯者だった。彼は、人々の心を読み解く術を彼女に教え込み、巧妙な詐欺の舞台を用意した。


彼らの目的は一つ。


地方の村々を回り、小さな奇跡で評判を得て、やがて領主や貴族たちの耳に噂を届かせること。そして彼らから「寄付」という名の、大きな金を巻き上げることだった。


病に苦しむ者を見かける度に、シレネは女神への信仰を説く。そうして彼女はコップに水を注ぎ、赤い薬草を入れる。するとコップの水は赤く染まる。そして、そのコップの底には、あらかじめ色が消える染料が仕込まれていた。シレネが祈りを唱えてコップを振ると、水はみるみる透明になった。


「聖女様だ! 聖女様が、癒やしの水を授けてくれた!」


人々は感嘆し、シレネを信じた。その水を飲み、元気になった者もいれば、その後の看病も空しく亡くなった者もいた。だが、それでも彼らは、シレネの奇跡が病人を救ったと信じた。


ある辺境では、村人の半数が熱病で倒れた。


「聖女様、どうかこの村をお救いください!」


村人たちの悲痛な叫びに、シレネは静かに頷いた。彼女は村の井戸の水を「穢れた水」だと断じ、そのまま使うことを禁じた。そして井戸の水を大きな鍋に移し、何かの葉を粉末にしたものを入れ火にかけた。そして祈りを捧げると「聖なる水」であると宣言した。それは、井戸の水にハーブを入れて沸騰させ、布で濾過したものだった。


「この水に、神の力が宿りました」


シレネの言葉を信じた人々は、その水を利用した。そして、彼女が去ったあとも、同じように井戸の水を鍋に移し、組織の人間が売るハーブの粉末を混ぜ煮沸させた。すると病気の蔓延が止まった。彼らは、シレネを「奇跡の聖女」と呼び、彼女の評判はまた一つ高まった。


シレネの評判は、各地で広まっていった。その声が領主や貴族に届くと、彼らは彼女の「力」に興味を抱くようになった。


ある日、シレネのもとに、領主からの使者がやってきた。


「聖女シレネ様。我が領主様が、あなた様をお呼びです」


シレネが招かれたのは、美術品収集家の伯爵の館だった。伯爵は、莫大な費用を投じて手に入れた絵画が、本物なのか偽物なのか疑念を抱いていた。


同行のドミニクが、絵画が本物であることを鑑定した上で、シレネに耳打ちした。


「聖女様、どうか、この絵画に神の真実があるか、お示しください」


ドミニクが声を掛けると、シレネは絵画の前に立ち、静かに祈りを捧げた。彼女は絵画に触れ、目を閉じた。そして、ドミニクから指示された啓示を語り始めた。


「この絵画には真実の持つ力が宿っていません。偽りの絵画です。悪魔が伯爵の目を曇らせ、この絵画を手に入れさせたのでしょう」


伯爵は顔色を変えた。シレネの言葉は、まるで彼の心を読み取ったかのようだった。


「では、どうすればよいのだろうか?」


伯爵がそう尋ねると、シレネは静かに答えた。


「神は、穢れたものを手放すことを望んでいます。もし、その絵画を手放すならば、神は祝福を授けてくださるでしょう」


伯爵は迷うことなくシレネの言葉に従った。彼は偽物を掴まされたという事実を、人々に知られることを恐れたのだ。そして、組織の仲間が扮する絵画商に、二束三文で絵画を売却した。


伯爵が手放した絵画は、遠い国で莫大な利益を上げて売却された。シレネは、伯爵の信仰心だけでなく、彼の虚栄心と保身を巧みに利用したのだ。


シレネの評判は、貴族たちの間で広まっていった。彼女は、ただの詐欺師ではない。人々の心の奥底に潜む不安や欲望を読み解き、それを巧みに利用する、一流の詐欺師だった。


「聖女シレネの言葉は、神の言葉そのものだ」


貴族たちは、彼女を崇め、彼女の言葉に耳を傾けた。そして、彼女は、貴族たちから多額の金銭を巻き上げ続けた。







貴族たちからの詐取は順調だった。


彼らはただ、己の保身と虚栄心のために、神の言葉を欲しているだけだ。そんな彼らの心の弱さを読み解くことは容易だった。貴族たちから金を引き出す作業は、シレネにとっては簡単な計算に過ぎなかった。


しかし、その計算を狂わせる存在がいた。


騎士団の追跡者、アルゴス。


彼は、シレネの奇跡をまやかしだと主張し、その真実を暴くために、執拗に追いかけてきた。彼の正義は剣のように硬く、真っすぐだった。彼は、彼女の与える希望が、人々を飢えや病から救っているという事実に目を向けない。彼が求めるのは、教義の文字に書かれた、清廉潔白な真実だけ。


「真実と正義に従えば、必ず報われる」


そんな、おとぎ話のような言葉を信じられるのは、王族か貴族か裕福な商家の温かいベッドで育った人間だけだ。シレネの知る真実は、スラムで飢えた時、パンを得るために手段を選ぶ者は死んでしまうという、冷酷な現実。


「シレネ、あの騎士は危険だ。しばらく身を隠そう」


組織の情報網をもってしても、アルゴスの動きは読みにくかった。彼は騎士団の慣習にとらわれず、まるでシレネ個人の不正を憎むかのように、日夜問わずの執念深い追跡を続けた。


助祭の身なりをしたドミニクが、シレネに冷静に告げた。彼の目は常にリスクを計算している。彼にとって、シレネは利益を生み出す優秀な道具である。だが、リスクが高まれば、損切りすべき対象となる。シレネは、理解していた。


そして、その日は突然訪れた。




ドミニクが血相を変えて私の元へ駆け込んできた。


「シレネ! 最悪だ! パスカルが騎士団に捕らえられた! 」


ドミニクの声には怒りと苛立ち、そして計算が崩れたことへの焦燥に満ちていた。


「シレネ、パスカルは危険だ。奴は、身の保身のためなら、こちらの情報を売り渡す!」


スラム育ちのシレネにとって、それは当たり前の感覚だった。昨日までの仲間を、身の保身のために売り渡す。そうでなければ、生き残れない世界。何を今さら、彼女は笑った。


パスカルは、騎士団の尋問に耐えられる人間ではない。ましてや、自分の命を失うことを、彼は何よりも恐れるだろう。彼は迷わずシレネを偽聖女として売り渡すだろう。


「ドミニク、逃走経路は?」


シレネが尋ねると、ドミニクは唇を噛みしめた。


「おそらく手遅れだ。パスカルが捕らえられたのは、二日前だ。貴族からの搾取をすべて吐き、間違いなく次の目的地と、俺達のやり口まで話している。もう、おしまいだ!」


それでもドミニクはシレネと共に逃げようと焦るが、彼女は彼の腕を振り払った。シレネは、ドミニクに別れを告げた。ドミニクは一瞬の葛藤の末、金銭を携えて、逃亡を選んだ。ドミニクとシレネの関係は、そこで終わった。


シレネはドミニクが去った後、馬車に静かに乗り込んだ。御者は焦燥した様子で山間の街道へ向かって馬を走らせた。


静かな夕暮れ時、馬車は街道の曲がり角で急停止した。


シレネは、それが終焉の合図だと理解した。


馬車から降り立つと、白い法衣をまとったシレネは、数十名の騎士たちに囲まれた。彼らの剣が、夕陽を反射して冷たく光る。


そして、その騎士たちの中心に立つ男が言った。


「偽聖女、シレネ。貴様を、人々を欺き、女神イリアスの名を冒涜した罪で逮捕する」






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