0 少女の祈り
「祈りなさい、シレネ。女神様はすべてを見ておられます」
母のその言葉を、世界の真理だと信じて疑わなかった。
少女の故郷は、地図に載ることもない貧しい村だった。石造りの小さな教会は、村で唯一、白さが残る建物だ。
日曜の朝、朝日が色あせたステンドグラスを抜けて、埃の舞う聖堂に一筋の光を落とす。その光の中に立つときだけは、空腹も、ひび割れた指先の痛みも、明日への不安も消えてなくなるような気がした。
少女は、女神イリアスが大好きだった。
慈愛に満ちたその御顔、すべてを包み込むような広げられた両手。
教会の冷たい床に膝をつき、両手を組んで目を閉じる。その瞬間、少女の心は泥にまみれた現実を離れ、清らかな天上の庭園へと招かれる。
「女神様、どうか村の皆が、今日もお腹いっぱい食べられますように」
「お母さんの風邪が、早く治りますように」
その祈りは、当時の少女にとって唯一の「力」だった。何も持たない子どもが、この理不尽な世界と交渉するための、たった一つの手段だった。
※
この世界の「女神信仰」は、単なる宗教ではない。それは社会の背骨であり、絶対的な規律だった。
女神イリアスは「真実と正義の守護者」とされる。教義は極めて厳格だ。
「清貧こそが魂を磨く」「苦難は女神から与えられた試練である」「正しい行いをすれば、必ず報われる」
人々は苦しい生活の中でも、収穫のわずかな一部を「聖捐」として教会に納める。それが来世の救いになると信じているからだ。国民の誰もが彼女の慈悲を信じ、その教えに従って生きることを善としていた。
しかし、子どもながらに、少女の視界には光以外のものが映り始めた。
豪華な法衣をまとい、肥え太った司祭。
祈りを捧げる村人の横で、銀貨を数える修道士。
そして、何よりも残酷だったのは、「祈りは決して届かない」という現実だった。
どれほど熱心に祈っても、冬の寒さは容赦なく赤子の命を奪った。
どれほど額を床に打ち付けても、飢饉は村を等しく襲った。
毎日母と願っても、町に出稼ぎに行った父は戻って来なかった。
教会が説く「試練」という言葉は、救いをもたらさない自分たちの無力を正当化するための、残酷な言い訳に過ぎないことを知ってしまった。
※
あの日、病で母が冷たくなった朝、少女は教会の女神像の前に立った。
いつもと同じ、慈愛に満ちた微笑。いつもと同じ、広げられた両手。
しかし、その石の瞳からは、涙一つ流れることはなかった。
「女神様、あなたは見ておられるのでしょう?」
答えは、ただの静寂だった。
女神イリアスはすべてを見ておられるが、何もしない。
女神イリアスはすべてを知っておられるが、語らない。
その時、少女の中で何かが音を立てて崩れ、同時に、冷たく透明な意志が生まれた。
女神イリアスが沈黙を守るというのなら、少女は祈らない。
女神イリアスが手を差し伸べないのなら、少女は信じない。
正義が人を救わないというのなら、正義はいらない。
組んでいた手をほどき、少女は立ち上がった。
かつての祈りは、もう必要なかった。
行く当てもなく、少女は村を出た。
村を去る少女の背後で、朝日を浴びた女神像は、以前と変わらぬ穏やかな表情で、空っぽの祈りの場を見下ろしていた。




