001_新卒魔法使いのリン
リンの日記_三月三十一日(月)
田舎から社寮に引っ越して一週間が経つ。
社寮の小さな部屋には一週間分の着替えと朝食のパンのみ。
――ついに入社日を迎えてしまった。
ブラウスのボタンが上手く止められない。私は何事も当日になると緊張するタイプだ。逆に前日までは「何とかなるさー」ってケロッとしてる。一番愚かなタイプの人間かもしれない。部屋を出て、アパートの階段を下った。私にはやや眩しすぎるくらいの晴天である。
魔法の都――トラン。
トランは中央のトラン城をシンボルとした城塞都市である。城は緩やかな山の頂上にあり、麓には機関車の駅が存在する。この機関車こそトランと他都市を繋ぐものだ。
私も一週間前にこの機関車でトランに来た。
午前八時半、駅前広場は沢山の人であふれている。出勤する人や露店の商品を運ぶ人、冒険者っぽい人、魔法学校の学生などなど。私は浅くため息を吐いた。
やっぱ都会の人ってお洒落だなあ。
私のブラウスは親戚の叔母さんのお下がりで、肩に大きなフリルが付いている。これは十数年前の流行らしい…。今更ながら自分の田舎スタイルが恥ずかしくなってきた。
私は駅を通過し、城の方へと歩みを進める。駅から城までの一本道は食べ物や衣服の露店で賑わっている。こういった集まりをバザールなんて呼ぶそうだ。私には全ての景色が新鮮そのものだ。
「そこのお嬢さん、朝ごはん食べた?」
パン屋の店主が右手を振っている。
――やめてくれ、緊張でそれどころではないのだ!
作り笑顔で手を振り返すと、逃げるように坂を上った。この一本道を途中で脇に逸れ五分歩く。並木通りを抜けると木の柱と漆喰の建物が見えた。今日から私の働く会社――ワークツリー。
ワークツリーは魔法道具の制作会社である。魔法道具を使えば〝魔法使いではない人〟も気軽に魔法を使う事が出来る。
会社の前で待ち合わせの筈だが…まだ誰もいないようだ。私は建物の前で突っ立って雲を眺めていた。緊張はますます酷くなる。
――五分経った。
あれ、おかしいな…待ち合わせ場所とかここで合っているよな…? 私は段々と心配になってきた。いっその事もう会社に入ってしまおうか。でも勝手な事をして怒られないだろうか。
「あ、ごめんねー、待たせちゃったよね?」
「っ!」
「おっと、驚かして申し訳ない」
私のハラハラとは対照的に能天気な声がした。振り向くと会社の前に一人の男性が立っていた。
年齢は三十代くらいだろうか。茶髪の緩いパーマで面長な顔、柔らかいカーキ色のパーカーをはおっている。右手には分厚い魔導書を抱え、左手にはイチゴジャムの詰まったサンドイッチを持っていた。
私は慌てて頭を下げる。
「お、おはようございます。本日からお世話になります、リン・ツインラです!」
「よろしくお願いします。俺は入社六年目のアキニレ・ウォーブ」
「よろしくお願いいたします!!」
彼はそう言うと入り口の装置に〝宝石のようなもの〟をかざした。
入り口を塞いでいた結界がスーと消えていく。私は目を丸くした。田舎じゃこんなのまず見ない。流石は魔法陣の制作会社だ。
「会社に入るにも権限が必要なのさ、暫くは俺と一緒に出入りして貰うよ」
「あ、はいっ」
「君らの社員証はまだ申請中なんだってさー」
「そ、そうなんですね!」
「そんなに堅くならなくていーよ。俺なんか遅刻してるし」
アキニレの言葉に私は両手をブンブンと振った。
「いえ、お忙しいのにご案内ありがとうございます」
「大丈夫、今日はそんなに忙しくないから。ぼーっと雲を眺めてたら時間がすぎちゃっててさー」
あ、そうなんだ…
のんびりとした喋り方も含めてあまり怖い人じゃなさそうに見える。
受付を抜けるといくつか部屋があった。そのうちの一つに通される。内部も漆喰と木の柱で構成された落ち着いた空間だ。
「これから入社式だから、少し待っててね。それとウチで働くならもう少し堂々と振舞わないといろいろ難しいかも」
「え? それってどういう…」
アキニレは私の質問には答えず歩いていってしまった。
部屋に入ると既に三人の先客がいる。
皆、新人かな?
手前に座っている女の子と目が合う。
ルビーのような赤い瞳。あか抜けた、見るからに都会の女の子。
――声を掛けるべきだろうか?
でも「田舎の芋女がっ!」とか「何だその無駄に巨大なフリルはぁ!」なんて思われないだろうか? いや、流石にそんな事はないか…? コミュニケーション能力が低すぎて全然分からん。でもずっと一人でいるのもそれはそれで嫌だし…やはり声をかけてみようか。
そう思った時だ――
「だから無理だって言ってんだろうが!」
木製の扉越し、男の大声が聞こえた。
「そこを何とか頼むって! こっちは副団長まで出してるんだ」
もう一人、別の声も鳴り響いた。野太く、ドスがきいている。
「黙れ! こっちだって人手不足なんだ」
「報酬は倍でもいい! どうしても明日を逃すわけにはいかねえんだ!!」
「クソがッ!!!」
それきり大声は聞こえなくなった。部屋の私たちは互いに顔を見合わせる。さっきの声は何だったのだろう。胸の鼓動がドキドキと収まらない。
次の瞬間、勢いよく木製のドアが開いた!!
ドア前の私は声を張り上げそうになるのをグッとこらえる。目の前にスーツで小太りの男性が立っていた。彼はワークツリーの社長である。採用面接のとき、一度だけ話した。そしてその後ろに熊みたいな大男が控えている。
大男は褐色の肌、蓄えた顎鬚が実にワイルドだ。社長と同じで四十代後半くらいだろうか。レザー装備を身にまとっている。そして肩や胴の鎧は金属製、鉛色が鈍く輝いていた。恐らく〝冒険者〟だ。社長と同様に小太りではあるが、両腕は木の幹のように太く、たくましい。ゴリゴリの現役だろうな。
恐らく社長に頼み事をしていたのはこの大男だ。私は社長に視線を戻した。大男と異なり社長の手足は細い。蓄えているのは筋力ではなく、脂肪の塊である。戦ったらボコボコにされそうだが、大丈夫なのだろうか。
「おい、あのやたら運動神経の良い新人はいるか!」
社長が声を上げた。複式呼吸でよく通る声だ。私たちは硬直したまま。すると社長の後ろから先輩社員――アキニレが追いついてきた。
「社長、運動神経がいいのは彼女です」
先輩社員の指さす先には私――リンがいた。
ん、私…!?
社長が私の前に来る。腰を下ろし私と視線を合わせてきた。
「おはよう、リン君でいいのかな」
「お、おはようございます」
「初日から大変申し訳ないのだが、君に一つお願いをしたい」
「お、お願い…ですか」
社長の〝お願い〟は〝お願い〟ではなく〝命令〟である…と、何かの小説で読んだ。ゴクリ、と大きく生唾を飲む。私は恐る恐る視線を上げた。
「明日、一日ダンジョンに行ってほしい」
ダンジョン!?
明日!?
「ダンジョンって魔物が出るダンジョンですか?」
「ああ、魔物が出るダンジョンだね」
そうかあ…魔物が出るダンジョンかぁ。
勿論ダンジョンなんか行ったことはない。行こうと思った事もない。
「明日、八時にワークツリーに来る事。持ち物は不要!」
「そ、そんな…」
「お願いできるかな?」
私は咄嗟にアキニレへと視線を移した。しかし彼は部屋の前でヘラヘラしているだけで、助けてくそうな気配は全くない。私は再度社長へと視線を戻した。強烈な圧が私一人に注がれる。ここで「ノー」と言えるだけの胆力は私には備わっていなかった。
「わ、分かりました。ダンジョンに…行ってきます」
社長はそれを聞くとニカっと口角をあげた。そして大男と共に部屋から出ていった。誰もしゃべらない。が、その場にいる全員の視線が私一人に降りかかったままである。私は思った。
――これが社会人か、と。