津島遺跡の荏胡麻
水田、竪穴式住居、高床式倉庫。植樹と舗道の狭間に、文字無き時代の邑が再生しているなどと喜ぶのは、幾ら何でも愚かだ。寧ろ今時の岡山市が復元遺跡の手入れを怠っていないことを遖と思う。
私は気が晴れない日にこそ津島遺跡に通う。木造の米蔵の前を、ペインターパンツを穿いたご老人が通りすがる。こういう空間、嫌いじゃない。少なくとも、広告屋がいまだに叫んでいるような、就職だの起業だの年収だのという文脈より、余程快い。
そんな憩いの場で声を掛けられた。
「あれ?この前学食でお話しした子?」
テルペノイドの先生だった。今日は縹色のワンピース。買い物帰りのようだ。
「尹先生でしたっけ。私のことわざわざ憶えてくださったんですか。」
「いえ、何となく。そちらこそ。」
学食で一言話しかけただけで、いつの間にか顔見知りになっていた。学生や職員が何千人といた昔ならともかく、この時代の岡大ではあり得る現象のようだ。
「ええと、法学部の笹岳です。遅くなりましたが。私そんなに目立つ存在でした?」
「いえ、目立つって程でもないけど、何となく。法学部?あすこは卒業研究が任意だったかしら。」
「私は履修してますね。いえ、何というか、法律って実体がないから難しいじゃないですか。分子とか物質とか、形があるから今更興味が湧いたり。」
「へえ。私なんか、法律って観念的だから面白いなって、学部の一般教養で習ってた時から思ってたけど。」
「法律が面白いですか?そうですね、私も面白そうだから法学部に入りましたけど、今の私なんか、法って人の諍いを制御する為の体系だと思ってまして、なんだか。」
「人の諍いねえ。そういうの醜いって側面と面白いって側面があるから迷う。ミステリなんか時々めくっていても思うけど。」
「ですね。」
先生は私と違う感想を無理して作っているようではなかった。少なくとも、表情は。
「笹岳さんは化学そんなに興味ある?テルペンいじりだって楽じゃないわよ。イソ吉草酸って知ってる?それこそくさいものの代表!」
「くさいものの代表ですか。敢えて深入りしませんね。」
「いいわよ。フフフ。」
だだっ広い公園に、分野も違う学者と学生が向かい合っていた。柵で囲まれた畑には、市役所の職員の手でか、幾種類もの蔬菜が培われている。
「荏胡麻……。先生のお国でお膳に出るあれです?」
「お国?……あら、私は鶴橋の出よ。五代目。そういえば暫く食べてないわね、母の作る醤油漬け。」
「五平餅ってご存知です?」
「うん。岐阜の名物だったっけ。」
「あの味噌にも荏胡麻が混ざってましてね、あの香りが好きなんです。いえ、私は市内の実家から通ってますけど。」
「知ってる?荏胡麻の香りもテルペノイドよ。ペリラケトン。」
またまたテルペノイド。不意を打たれた。
「昔は香料の大量生産、化学の役目の一つだったけど、最近は斜陽みたいね。」
「尹先生にも企業さんから依頼が来るんです?これこれこんな物質を開発してくれ、みたいな。」
「それそれ!そういうの昔は時々来た。どこの馬の骨とも知らない会社だか個人だかから、やれ香水を作って下さいとか、サプリメントとか、はたまた、小学生なんでしょうけど、頭をよくする薬とか。」
苦笑。世の中いまだえげつない。
「その分我々法学徒は肩の荷が軽いかも。」
「え?笹岳さん弁護士とか目指してる訳じゃないの?」
「弁護士志望ではないですね。いっそ『寧ろ政治家!』なんて。」
「冗談は止してよ。面倒が嫌なら政治家なんてやめてよ。国民とか市民への責任って考えたことある?ちゃんと果たせるなら、それはいいけど。」
「私、職を得たくて大学に入った訳じゃないですね。勉強したくて入ったんで。」
「へえ、……言っちゃ悪いけど、頼もしいというか少し不安というか。まあ笹岳さん、誠実に、ね。」
先生は買い物バッグを担いでそそくさと去った。自省。社会が少しずつ崩れていく時代。自分の学業が社会に、いや、個人をどう益せられるか、猶更迷う。
稲作の跡をも振り返る。この邑にも法はあっただろうか。邑は如何に廃れたのだろうか。邑が廃れゆく時、住民は何をし、何を感じただろうか。法学徒にも、歴史学徒にも、考古学徒にも、いや、邑の住民以外の誰にも、その実態を知る術は無いだろう。




