健全な男子/エリック
「あのっ……自分で……自分で拭けますから……」
ソファに座る彼女を、目線を合わせ正面から見つめる。
真っ赤な顔で震えながら目を潤ませる彼女は、濡れた髪と相まってひどく扇情的だ。
恥ずかしさと申し訳なさに居た堪れないのだろう。
直視に耐えないその姿を、エリックはあらん限りの理性をふりしぼってガン見した。もちろん、紳士の笑みを浮かべながら。
エリックは自室で、お風呂上がりの彼女の髪の水気をタオルで優しく吸い取っている。
今リリアが身につけているのは、エリックの母、オフィーリアのドレスだ。胸元も背中も大きく空いたデザインで、さすがにそこに視線を送らないよう気をつける。早くリリアのドレスが乾けば良いのだが。
「一度、可愛らしい子の世話を焼いてみたかったんだ。幼い頃は子犬を飼うのが夢だった」
「シャロン様がいらっしゃるのでは……え、犬?」
「彼女は僕よりしっかりしていてね、絶対に世話は焼かれてくれないんだ……」
誰よりも優しくしたいのに、この黒髪をぐしゃぐしゃに掻き乱したい衝動もあった。
自分の内にある欲に気づかれませんように、と冷や冷やしながら、リリアが安心できるよう笑みを浮かべる。
話は二時間ほど前に遡る。
明日から長期休みに入るため、学園は今日午前の授業で終わった。
先日の一件があってからややぎこちなかった二人の仲だが、明日からはあと一ヶ月会えない。近づいてまた広がった二人の距離は、さらに開いてしまうだろう。
エリックは、リリアの好きな作家の本が手に入ったから、とフォンドヴォール公爵家の屋敷に誘った。
本は一つ一つ人の手で書き写す分、高価で手に入れるまでに時間がかかる。
リリアが好きだという作家の長編小説は、ありとあらゆる伝手を辿り手に入れたものだ。最近発表されたもので、まだこの国の王女であるエリザベス王女しか読んでいないらしい。
リリアは目を輝かせて二つ返事で了承してくれた。
そうして二人でフォンドヴォール公爵家の馬車に乗り、屋敷に向かった。
白を基調とする屋敷は、繊細優美な趣向を凝らして当時の粋を極めて作らせたものだ。
玄関に向かう途中の真っ白な階段を歩きながら、かちこちに緊張している彼女の姿を見てエリックは吹き出した。
「前に来たときは、堂々としていたじゃないか」
「心を入れ替えてからお伺いするのは初めてじゃないですか……」
「今日は父も母も視察のため地方の領地にいるんだ。妹も今日はいないから」
それでも事前に、リリアが来ることは伝えていた。最近リリアが変わったらしいと噂を聞いた父は、公爵夫人としての資質があるのであればリリエンタール侯爵家と縁続は大きな利益になると判断している。
リリアを自身の目で確認できないことを残念がっていた。婚約の継続は問題なさそうだ。
エリックの自室に入ると、リリアがキョロキョロと周りを見渡す。すーはーと息を吸っている彼女に、何をしているのかと目を向けるとリリアが頬を赤らめた。
「エリック様の匂いがいっぱいで……すっごく良い香りなのでつい、すみません」
愛らしい、という感情が強すぎると暴力になることをエリックは初めて知った。
内心蹲りたいのを堪えて、リリアに用意していた本を渡す。リリアが顔を輝かせて喜んだ。
「もし良かったら、庭を散歩しないか? 池の近くにある花園が見事なんだ」
リリアがさらに目を輝かせた。おそらく花が好きなのだろう。
まだ一緒にいられることに安堵して、エリックは微笑を浮かべた。
湖といっても良いほど大きな池は、噴水が美しい。その近くにある薔薇が中心となった花園には、真っ白な薔薇が今を盛りと咲き誇っている。
リリアがその一つに手を添え香りを嗅ぐ。白い花が、よく似合う。
日に透ける黒髪は艶めき、真っ白な肌とのコントラストが眩しかった。
「この花が気に入ったなら、帰りに持たせよう。香りも良くて僕も好きなんだ」
「嬉しいです! ありがとうございます」
頬をほころばせるリリアとの間に、最近漂っていたぎこちなさは影をひそめている。それが嬉しくてエリックは上機嫌だ。リリアの表情も楽しげだ。
エリックは、池をさした。
「この池は、とても綺麗な鯉が住んでいるんだ。赤や白や金や銀の色とりどりでとても綺麗でね、父上がとても可愛がっている」
リリアが目をパチパチして、錦鯉ですか? 見たい! と言って早足で行ってしまった。
初夏とはいえ、水は冷たい。気をつけてーーと声をかけようとした時にはもう遅かった。
足を滑らせて、リリアは池に尻もちをついてしまった。
「この年で……人様のお家で……」
恥ずかしさに身悶える彼女の姿に笑いを堪えながら、エリックは侍女を呼んだ。
そして、冒頭だ。
為すがままのリリアだが、唇を尖らせている。
「犬……犬って、ちょっとひどくないでしょうか」
あはは、と笑う。声に出して笑うのはずいぶん久しぶりだ。
「世界一可愛い子犬だよ」
「犬じゃないですか……」
リリアが不満そうに身に纏ったドレスを摘む。
「こんなに大人っぽいドレスも着てるのに犬だなんて……私だって一応女性なんですよ」
全く、と拗ねたように横を向く彼女の首筋が白かった。
舐めたら、さぞかし甘いのだろう。歯を立てたら彼女はどんな声で啼くのだろうか。
そんな想像に、腹の底に燻っていた情欲が質量を増やす。
いけない、と首を振ったのだが、纏わりついた欲望はなかなか離れなかった。
「綺麗だ。かわいい。君は、世界一」
タオルを置いて、リリアの髪の一房を指に持つ。驚いてこちらを向いたリリアの瞳が濡れていく様子を見て、腹の底が熱くなった。
指に流れる髪に口づける。
ずっとこの髪に触れたいと思っていたことに、今気付かされた。
どんどん赤く染まっていく彼女を見て、これ以上はまずいと堪える。
「はい、可愛いから後ろ向いて」
用意していた櫛を手に取り、彼女の髪を梳く。
危なかった。自分に負けるところだった。吐息をつく。
リリアが、ひどい! 女たらし! と抗議した。エリックは笑って答えるが、リリアが今までで一番気安く話してくれる姿を見て淡い痺れが走る。痺れるような幸福に、酔いそうだ。
いつも目で追ってしまうのも、男が近くに寄るだけで不快なのも、嫌われたのかと不安になったことも、他の女性と付き合う未来を想定されて傷ついたのも、理由がわかった。
自分が異常にリリアに執着し、感情を抑えられていない自覚はあった。
だが、その原因は考えないようにしていた。
もう、戻れなくなるような気がして。
腕の中に彼女がいる。
誰にも見せない、拗ねた顔を見せながら。
幸せだ。
ーーああ、自分は彼女のことが好きなのか。
浮かんだ答えに、彼は納得をした。
リリアが、自分より大切なのだ。
(リリア、君が好きだ)
今度は気づかれないように、そっと髪の毛に口づけを落とした。





