エピローグ
エピローグ
周囲には完全に夜の帳が降り、神聖な静謐が乾いた空気と共に社の中に充満している。燭台に灯された蝋燭の炎をかすかに揺らめかせ、その炎の明かりに引き寄せられたのか、小さな羽虫が何匹かその近くを音も立てずに飛び回り、時折身を紅蓮に飛び込ませては意味もなく燃え尽きていった。
私はその姿を目で追いながら、目の前で正座を組んだ男の沈着な顔つきを黙って眺めていた。互いに黙り込んでからゆうに十分以上が経過しており、時間の浪費を感じながらも迫りくる瞬間に胸を高鳴らせて、じっとしていたのだが、我ながらこうした瞬間を虎視眈々と待つ自分はとてもプリミリティブな欲求に素直な獣同然だと思う。
そうして時を待っていた私の耳に、ようやく男の声が響く。男は淡々と今回の件についての礼を告げ、それから一瞬だけ表情を曇らせて、この二日間在中していた客人の心配をした。
そのような心配に何の意味があるのかは知らなかったが、それで黄泉路を迷いなく逝けるのであれば構わないかと私も口を開く。
「心配要らない。少なくとも、こちらからどうこうしようという気はない」
私の言葉に多少は安心できたのか、一度だけ頷いて、再び私へ神妙に礼を告げた。それから静かに座した足の隣に置いていた短刀を手に取って、長年の従事を終える旨を告げて暇を申し出た。
最早私に止める理由もなければ義務もない。そもそも私としてはこちらも大きな目的の一つだったのだから、今更翻意するとしても問答無用で叩き斬るだけだ。まあこの男がそんな半端な人間ではないことは百も承知ではあるのだが。
彼がゆっくりと短刀を鞘から抜くまでの間、私はまた蝋燭の近くを舞う羽虫にピントを合わせて観察していた。本能のままに光にたむろし焼かれる者もいれば、ふらりと人の側に寄ってきて血を啜る者もいるが、後者の方は私の指の間で無様に血を垂らして塵と化すばかりであった。そうして私の肌に付着した血を見て、これが自分の血なのか、既に羽虫のものと呼ぶべきなのかとくだらない疑問を感じていた。
白刃を自らの腹の前に構えた男は、お世話になりましたとだけ感情もなく口にすると、一気にそれを自身の体の中に突き立て、苦悶の表情を浮かべた。刃を差し込む勢いが良すぎてまるでゼリーにスプーンを入れたような印象を受けて、私はしげしげとその傷跡を覗いた。口から吐血しつつも、短刀の柄を強く握り腹を十字に割くようにへそから鳩尾へと切り捌いた。その剛毅な切腹の作法に思わず「お見事」と言葉が零れてしまい、武人として更なる敬意を示すべきだと立ち上がって彼の背後へと回った。
刀身が鞘を心地よく滑る感触に笑みを漏らしながら、ゆっくりと刀を高く構えて呼吸を一つ深く行う。
介錯人など務める気は毛頭なかったのだが、ここまで気概を見せられては私もじっとはしていられない。
このような気高い命の終わりは、せめて美しいモノによって成されるべきだ。
彼が何か呟いた気がしたが、集中した私の耳には届きはしない。
目にも止まらぬ速度で弧を描いた一筋は、男の首を皮一枚だけ残して断ち切った。吹き上がる熱い血流に全身を粟立たせながらも、その美しい噴水と断面、そして刀を通じて伝わって来る刹那的だが、たまらなく愛おしい感覚に今にも叫びだしそうだった。
こんなにも素晴らしい一瞬は久しぶりである。斬る価値もないゴミ屑を断ったときは、手にした獲物に対してどうしようもない申し訳無さを感じるのだが、今日この瞬間は間違いなく私の手の中にある『桐姫』が共に感動に打ち震えているのが確信できた。
血の香りでいっぱいになったこの社の空気を全力で吸い込むと、脳内から快感物質が延々と湧き上がってきて、この世に生を受けられたことを八百万の神々に跪いて感謝したくなった。
それにしても、何故一つの命につき一度しかこの瞬間を味わえないのか・・・全く残念でならない。何度でも殺せるのであれば、私はこんな面倒な生き方をせずともひっそりと闇の中で多幸感に満ちた人生を送っていられたであろうに・・・。やはり認識を改めるべきだ、この世を創造している神々は愚鈍で無価値だ。きっと斬っても何の味もしないことだろう。
刀が劣化するのを抑えるためにも懐紙で付着した血を拭わねばならないのが、あまりにも勿体ない気がして、思わず嘆息が漏れる。先日斬った屑の血を刀が忘れられるようにいつまでも残しておきたかったが、致し方ないことだと諦めてさっと一拭きした。
それから充分にこの絶景を満喫した後、くるりと踵を返して社を立ち去り、通いなれた長い、長い階段を飛ぶように下りていく。
あの娘もこの悦びを知ったら、きっと病みつきになる。武術を崇め、身を粉にして磨く者たちは往々にしてそれを実際に振るいたくなるものなのだから、彼女だってその欲求からは一生逃れることはできない。それにもう斬ってしまっている、私が急かさずとも修羅の入り口はもう直ぐそこだ・・・。
階段を下りきると、これまた通り慣れた田んぼ沿いの畦道を青い月に照らされながら軽い足取りで進む。今まで住んでいた家には二度と帰らぬだろうが、そんなものを振り返る寒気のする感傷などは生憎と持ち合わせていない。
月光はどこまでも私の行く先を照らしており、これから始まる新しい人生の門出を祝福してくれているように思えて、つい頬が緩んだまま駆け足になった。追い抜いていく風が天使の囁きのように神秘的に耳の奥で木霊して、田の水に反射する七色の光は自由の王冠のように私の黒い髪を輝かせた。
舗装された道へと出ると、直ぐそこに駐車している軽自動車が見えたので、一度深呼吸して落ち着きを取り戻すと車に近づいた。助手席に乗り込むために車窓から中の様子を伺いつつドアに手を掛けたのだが、そこから見える女の顔を認識した途端、私は辟易してしまい、無愛想な顔つきになって中へと乗り込んだ。
女は何が楽しいのか頭の軽そうな口調で「遅かったじゃん」と笑ってこちらを見たのだが、私の返り血を浴びた格好を見た途端大声を上げて顔をしかめた。
「うっわ、きたなぁい!ちょっと、ちょっと!馬鹿なんじゃないアンタ?そんな服で私の車に乗らないでよ!」
甲高い声を上げる女に、嫌気を隠すこと無く晒すと、「自家用車で来るのが悪い」と返した。
「そんな格好で来ると思わないじゃん、っていうか、その姿で歩き回らないでよね、騒ぎになったらまた怒られるんだからさ」
よく喋る女だとつくづく思う。この女が、組織が求めるほどの天才児だとは到底信じられずにいるのだが、彼女が生み出すツールには確かに度肝を抜かれることもあるため、徐々にその事実を受け入れつつあった。
あまりにも受け答えが面倒であったため、私は口と目を閉ざして対話の意思がさらさら無いことを暗示したのだが、そんなコミュニケーションを理解できないのか「もう、さっさと脱いでよ!」と私のシャツに手をかけて捲くりあげようとした。そのため私も沈黙を諦めて、「離せ」と手を払って相手を睨みつけた。
「うわぁ、そんな態度とるんだ。大体さぁ、アンタの我儘で今回の一件の処理はウチラがしてるんだよ?わざわざ迎えにまで来てやったのにさー、迷惑かけましたとか言えないわけ?」
「前回お前の独断行動で迷惑をかけられている。殺されかけていたところを助けてやった」
私の発言にぴくりと眉を上下させた女は眩しそうに目を細めたかと思うと、正面を向いてエンジンを掛けた。山間の冷える夜とはいえ、熱気の籠もった車内は蒸した空気で飽和状態だったので、クーラーの風がとても心地よく感じられた。
「嫌なこと思い出させるな」と女は半笑いの様相で呟いたが、それから直ぐに私に向けて無感情なトーンで「このサイコ野郎」と挑戦的に囁いた。
思い出したくない、か。こいつには因縁の相手とも呼ぶべき者がいる。
「そういえば、貴方のお姉ちゃんに会った」
「え、嘘でしょ?」
「本当、私の従姉妹の友達だったから」
そう告げると、女は一瞬だけ目を閉じて「あぁ、あいつね」とつまらなさそうに呟いた。
「生き死にが関わっているときだというのに、間抜けな顔で寝ていた」
「あ?何で知ってんの」
先程まで形だけは冷静さを装っていた女が途端に牙を剥き出しにしてこちらを睨んだことが、何だかとても滑稽に見えた。私が何も答えないでいると、女は「おい、言ったよな、今後深月と会うことがあっても手を出すなってさ」と胸ぐらを掴んできた。
「何もしてない。ただ・・・」と今初めて女の顔を見つめ返すと、確かに邸宅で見た少女と瓜二つではあったものの、声と顔つきが似ているだけで、中身は全く別の生き物なのだなと当たり前のことに何だか可笑しくなってしまった。だからついつい彼女をからかいたくなって、多少おどけた調子で彼女の質問に答えた。
「邪魔だったから斬ろうとしただけ。安心して、斬ってないから」
「お前・・・!あいつは私の獲物なんだよ、もう二度と指一本触んなよ!」
必死だ。そんな顔をしていたら、女がどれだけ姉のことを大事にしているかがお見透しになってしまうというのに。自分から弱点を曝け出す女に、不思議とかねてから抱いていた嫌悪感は次第に薄れ、小動物のように小さな身体を震わせて怒りを示す彼女を見て吹き出してしまいそうになる。
「分かったのかサイコ野郎」
「分かったわ、シスコン野郎」
私の皮肉たっぷりの返答に目を丸くし、掴んでいた手を乱暴に突き放すと、苛立たしげに舌打ちをしてハンドルに身体をもたれかけた。そもそもこの女、免許なんて持っていないだろうに。大丈夫だろうか。
「頭冷やす、その間に服着替えてて」
「持ってきてないわ」
「それなら後ろの服適当に見繕って着て」と言いながらその小さい体躯を鋼鉄の籠の外へと追いやると、女はボンネットに腰掛けて高い天を見上げ始めた。その背を一瞥してから、仕方がなく後部座席に手をやって探っていると、出てくる衣類はどれもこれも黒い服ばかりで私の好みではなかった。そもそも彼女の私物にしては丈が長い気がするし、私用に準備していたものなのだろうか、中でもレースのあしらわれたワンピースなどは女が着ているのを想像しただけで笑えてくる。
そうして血に濡れた服を脱ぎ、適当な衣装に袖を通したのだが、どうやらどれも新品だったようでタグが付きっぱなしであった。それを引き千切りながら正面の彼女の背中を見据えた。
その視線は天というよりも、青々と輝く月に向けられているらしく、どこか郷愁的な横顔を覗かせてはため息を吐くように肩を上下させていた。そんなに良い物だろうかと私も月を眺めるために身体を前に倒したが、ガラス越しの月の光には大して何も感じられなかった。
「行くよ」と車内に戻ってきた女がシフトレバーをドライブに入れて、急ぐようにアクセルを強く踏み込んだ。
慣性を受けて前後する身体の動きを感じながら、私は暗くも美しい夜道を女と共に進みだした。