狼の徽章
後刻アンシャルが聞いたところでは、その吼え声は到底人間の喉から出たものとは思えなかったという。
そして、ダンカーの体全体が次第に強く光り輝いていき、あたかも爆発して四散したのではないか、と思えたのだという。
現実には違った。
ダンカー決死の攻撃に、逆方向からの砲撃があって、魔物の親玉はその場で崩壊したのだ。
法力は人間に害を及ぼさない。
しかし弾丸や砲弾はそうはいかない。
ダンカーが幸運だったのは、砲弾そのものは魔物の体に食い入ってダンカーまでは届かなかったという事だ。
それゆえ、ダンカーが砲撃に巻き込まれる事はなかった。
それでも、法力による光の圧力は、全身がたぎるように感じられたという。
現実の時間ではどれほどかかったのだろうか。
ダンカーはもとより、アンシャルも時計を見る余裕はなかった。
長く感じられたが、実際には大して長くはなかったのだろう。
軍馬は砲撃にも法力の光にも、そして魔物に接近する事も訓練されており。逃げ出す事はない。
それでも、アンシャルの馬でさえ、耳を落ち着きなく動かし、鼻を膨らませ、尾を激しく尻に打ちつけていた。
アンシャルは馬から飛び降り、手綱を手近な兵士に投げると、市門に駆けつけた。
「大丈夫か!」
「……ああ」
ダンカーは滑り落ちるように鞍から下りた。
傾ぐ体をアンシャルが受け止める。
ダンカーの体は逞しく、重かったが、アンシャルは軍靴を踏ん張って耐えた。
有難いことに、すぐ助け手が現れて反対側からダンカーを支え。腰を下ろせるところまで連れていった。
馬は二頭とも、厩舎につれていかれたようだ。
ここに駐屯している聖咒兵団の人数は多い。
これは常駐だから、立派な兵舎がある。
アンシャルもダンカーも、その中に部屋を与えられた。
短いようで長い旅だった。
逆のことも言える。
長いようで短い旅だった。
新たな命令を受領するまで、やることはない。実質、休暇のようなものだ。
しかし、数日たった頃、アンシャルは城中の一室に呼び出された。
ダンカーもだ。
一体何事だろう。
単なる命令ならば、兵舎の中で済むはずだ。
なんとなく居心地が悪く、アンシャルもダンカーも格別口を開かなかった。
だいぶ待たされたにもかかわらず、だ。
しかし、やがて静かな靴音が近づいてきて、扉が開いた。
制服を着用しているが、軍人ではない男が先触れで、後ろにはベールを顔にたらした貴婦人が従っていた。
「コンラート太子妃殿下の侍女頭、ヴォルフシュタイン伯爵夫人にあらせられる」
アンシャルはさっと敬礼した。
ダンカーがちょっと厭そうに、緩慢な動作で立ち上がり、敬礼する。
ヴォルフシュタイン伯爵は王太子の側近で、その夫人は先王の姪にあたる。
そういうことなのか。
彼女がロサミナなのだ。
先王の姪ならば、充分に濃い王室の血筋だ。
「このたびは苦労をかけました」
アンシャルは笑みを噛み殺した。
この声はまさにロサミナだ。
「つつがなく任務を果たせたと自認しております」
「ええ。傷ひとつなく、送り届けていただけました」
ヴェールの後ろで、ロサミナの表情が曇ったように感じられる。
「ですけれど、これは秘密のことですから、公式な表彰は行われないと聞いております」
アンシャルは小さく会釈をした。
「ですから、あたくしは記念の品を差し上げたいと思いましたの。ささやかなものですけれど」
薄い長手袋に包まれた手が差し出された。
ほっそりとした掌には、銀ねずの糸で黒い布片に狼の頭が横向きに刺繍されている。
「あたくしがこちらへ到着してから刺しました。これはヴォルフシュタイン家の紋章です。軍衣につける事ができるように、どのような形にすれば良いかは夫に確かめましてよ」
ロサミナ……ヴォルフシュタイン伯爵夫人はすっと歩み寄ると、自らその徽章を左肩にピンで留めた。
本来は縫い付けるのだが、授与する時二はこのようにピンを使う。
「光栄です」
アンシャルはそう言ったが、ダンカーは何も言わなかった。
それでいい。
こうした場では上官に任せるものだ。
「ふたりとも無事で何よりでした」
その言葉を別れの挨拶に代えて、伯爵夫人は部屋を出ていく。
残されたふたりは、ようやく顔を見合わせた。
「最後の最後は、本当に危ないと思ったぞ」
「なあに、どうってことはねえ」
ダンカーが肩をすくめる。
「ふたりのどちらかに次の命令が来れば、お別れだな。ダンカー。命も体も大切にしろよ」
ダンカーはにやりと笑った。
「そんな事を言っていたら実戦部隊はつとまらねえ」
ああ。この男はどこへ行っても生き残るに違いない。
アンシャルはそう確信した。




