第35話 沈む陽、昇る魂(高山右近視点)
マニラの空は、あまりにも眩しかった。
長崎からの船旅を終えた右近の身体は、
すでに限界に近かった。
だが、マニラの陽光と湿気は、
その疲れをさらに深く沈めていった。
空気は重く、
風は熱を含み、
夜になっても汗が引かない。
右近は、
この地に降り立った瞬間に悟っていた。
――私は、長くは生きられぬ。
マニラの人々は右近を英雄として迎えた。
司祭たちは右近の到着を喜び、
スペイン人たちは右近の信仰と名声を称えた。
だが、
右近の身体はその歓待に応えられなかった。
到着から数日で、
右近は床に伏した。
熱が出た。
咳が止まらなかった。
食事は喉を通らず、
水さえも苦く感じた。
司祭たちは薬草を煎じ、
祈りを捧げ、
右近の手を握った。
だが、
右近の身体は静かに弱っていった。
ある夜。
右近は、
薄暗い部屋の中で目を開けた。
窓の外では、
椰子の葉が風に揺れていた。
その音は、
まるで遠い昔の記憶を呼び起こすようだった。
右近は、
懐から懐剣を取り出した。
左近が最後に託した懐剣。
その冷たさは、
右近の胸に深く染み込んだ。
「……和友」
右近は、
かすれた声で呟いた。
「お前のように……
信念に従い、生涯を捧げたつもりだ」
懐剣を胸に抱きしめる。
「お前と過ごした日本を離れ……
この異国の地で……
最期を迎えることになろうとは……
思いもしなかった」
涙は出なかった。
ただ、胸の奥が静かに熱くなった。
「だが……
神の下で……
お前の魂と共に生きた日々は……
私の誇りだ」
右近は、
ゆっくりと目を閉じた。
日が経つごとに、
右近の身体は静かに確実に衰えていった。
熱は下がらず、
咳は深く、
呼吸は浅くなった。
だが、
右近の祈りは深まっていった。
声は出なくとも、
心は神へ向かっていた。
司祭たちは言った。
「右近殿の祈りは……
まるで炎のようだ」
如安は涙を流しながら、
右近の枕元で祈り続けた。
右近は、
その姿を静かに見つめた。
――私は、もうすぐ天に召される。
その確信は、
恐れではなく、
静かな安らぎを伴っていた。
慶長二十年正月六日
(西暦一六一五年二月三日)。
マニラの朝は、
いつもよりも静かだった。
右近は、
薄く開いた目で天井を見つめていた。
光が差し込む。
その光は、
まるで日本の冬の雪明かりのように柔らかかった。
右近は、
最後の力で懐剣を胸に抱いた。
「……和友……
私は……行くぞ……」
その声は、
風に溶けるほど小さかった。
右近の呼吸が、
ゆっくりと、
ゆっくりと、
静かに細くなっていく。
司祭たちは祈りを捧げ、
如安は右近の手を握りしめた。
そして――
右近の胸が、
ふっと静かに上下を止めた。
苦しみも、
叫びもなく、
ただ祈りのように穏やかに。
享年六十三。
マニラ到着から、
わずか四十日のことだった。
その日、
マニラの空は眩しいほどに青かった。
右近の魂は、
その青空の向こうへと
静かに昇っていった。
まるで――
長い旅路を終え、
ようやく“友”のもとへ帰っていくかのように。




