第14話 影の兆し(高山右近視点)
有岡城が落ち、荒木村重の反乱が終息した頃、
摂津の空には春の気配が漂い始めていた。
だが右近の胸には、まだ冬の冷たさが残っていた。
天正八年閏三月。
信長は安土城下に新たに建てた邸宅を諸将に与え、
右近にもその一つが授けられた。
安土の町は、異国の匂いに満ちていた。
南蛮渡来の香木、油、染料、
そして宣教師たちが持ち込む紙と墨の匂い。
そのすべてが、右近の胸に静かな熱を灯した。
――ここから、新しい時代が始まる。
信長の天下構想の中心に、
自分もまた組み込まれつつある。
その実感が、右近の背筋を伸ばした。
翌、天正九年二月。
京都御馬揃え。
右近は摂津衆の一番隊として参列した。
冬の空気は澄み、
馬の吐息が白く揺れ、
蹄の音が石畳に響く。
信長の威光は、
その場にいるすべての者を圧倒した。
右近は、
自らがこの大きな流れの一部であることを
強く感じていた。
そして同年八月。
右近は信長の使者として、
鳥取城を攻める羽柴秀吉の陣へ向かった。
鳥取の地は乾き、
風は砂を巻き上げ、
空はどこか鈍い色をしていた。
秀吉の陣に入ると、
兵たちのざわめき、
火薬の匂い、
干し飯の乾いた香りが混ざり合い、
戦場の空気が右近の肌にまとわりついた。
秀吉は、
笑みを浮かべて右近を迎えた。
「おお、右近殿。
信長公の使いとあらば、
この秀吉、心してお迎えいたす」
その声は明るく、
どこか人懐こい。
だが右近は、
その奥に潜む“何か”を感じ取った。
右近は信長秘蔵の名馬三頭を秀吉に授け、
鳥取の情勢を詳しく聞き取った。
秀吉は、
戦況を語りながらも、
右近の目をじっと見ていた。
その瞳は、
笑っているようで笑っていない。
底の見えない深い井戸のようだった。
右近の背筋に、
冷たいものが走った。
――この男は、危うい。
信仰にとっても、
親友にとっても、
そして自分自身にとっても。
秀吉の言葉は軽やかだが、
その裏には鋭い計算が潜んでいる。
人の心の弱さを見抜き、
利用し、
飲み込み、
そして笑って立っている――
そんな気配があった。
右近は、
胸の奥に重い十字架を背負ったような気分になった。
秀吉は、
信長とは違う。
信長の怒りは炎のように激しく、
だがその炎は正面から見える。
どこに燃えているかが分かる。
しかし秀吉は――
霧の中に潜む影のようだった。
どこまでが本心で、
どこからが虚飾なのか。
どこまでが笑顔で、
どこからが牙なのか。
右近には見えなかった。
鳥取の陣を辞した後、
右近は信長へ詳細な報告を送った。
その筆は迷いなく動いたが、
胸の奥には、
言葉にできぬ不安が残った。
――この男が、
いずれ天下の行方を左右する。
右近はそう感じた。
そして、
その時が来たとき、
自分はどこに立っているのか。
信仰は守れるのか。
親友は守れるのか。
自分自身は、
何を選ぶのか。
鳥取の空は鈍く、
風は乾いていた。
その風の中で、
右近は静かに目を閉じた。
――神よ。
どうか、私に道を示したまえ。
その祈りは、
戦場の風に溶けていった。




