第12話 信長の前にて(高山右近視点)
天正六年の冬が近づく頃、
摂津の空は重く沈み、
風は冷たく、乾いた土の匂いを運んでいた。
荒木村重の謀反は、
摂津の地を大きく揺るがした。
右近が高槻城を離れ、
信長に帰順したという報せは、
瞬く間に荒木勢の士気を削いだ。
村重は右近の家族や家臣、人質を殺さなかった。
だが、右近の離脱は、
荒木勢にとって致命的な痛手となった。
――右近が信長についた。
その噂は、
有岡城の兵たちの心を冷やし、
荒木家中の結束を静かに崩していった。
右近はその事実を知り、
胸の奥に重い影を感じていた。
だが、
自らの選択を悔いることはなかった。
摂津の民を守るため、
家族を守るため、
そして信仰に背かぬために、
右近は紙衣一枚で城を出たのだ。
その覚悟は揺らがない。
やがて、
信長が摂津へ出陣した。
右近は、
安土から移動してきた信長の陣へ向かった。
冬の風が吹き抜け、
陣幕がはためき、
馬の嘶きが響く。
焚き火の煙が白く立ち上り、
その匂いが右近の鼻を刺した。
信長の前に進み出ると、
右近は深く頭を垂れた。
信長は、
鋭い眼光で右近を見つめた。
「高山右近。
そなた、よくぞ来た」
その声は低く、
だが確かな温かさがあった。
右近は静かに答えた。
「はっ。
この身、信長公の御意に従う所存にございます」
信長は頷き、
家臣に合図した。
差し出されたのは、
右近がかつて愛用していた小袖。
そして、一頭の名馬。
小袖には、
右近が高槻で過ごした日々の記憶が染み込んでいるようだった。
名馬は黒毛で、
瞳は澄み、
その立ち姿は凛としていた。
「これは、そなたに返す。
そなたの忠義、しかと見届けた」
右近は胸が熱くなるのを感じた。
「ありがたき幸せ……」
信長は続けた。
「右近。
そなたには有岡城攻めを命ずる。
村重を討つは、そなたの役目よ」
右近は深く頷いた。
村重への情はある。
だが、
摂津の未来を守るためには、
この道しかない。
信長はさらに言った。
「高槻城主の地位はそのまま安堵する。
加えて、摂津国芥川一郡を与える」
その言葉は、
冬の冷たい空気を切り裂くように響いた。
右近は、
深く頭を垂れた。
「身に余る御恩……
必ずやお応えいたします」
信長は満足げに頷き、
右近を下がらせた。
陣を出ると、
冬の風が右近の頬を撫でた。
冷たい風。
焚き火の匂い。
馬の蹄の音。
兵たちのざわめき。
そのすべてが、
右近の胸に静かに沈んでいった。
――これが、私の選んだ道だ。
右近は名馬の首を撫で、
静かに歩き出した。
摂津の冬空は重く、
だがその奥には、
確かな光があった。




